147話 解呪
空が心装を抜いた瞬間、その場にいた旗士たちが感じたのは薫風を思わせる穏やかな風だった。
地が割れることもなく、大気が軋むこともなく、ただ清かな風が吹く静かな抜刀。
それでいて、超然たる勁の圧力は旗士たちを押し潰さんばかりに巨きく、重く、荒々しい。
内外に顕れる力があまりにかけ離れた抜刀を目の当たりにした旗士たちが、突風を受けた葦のようにざわめいた。
「ぐっ!?」
「ぬうっ!」
今の空の勁圧は「物理的な圧迫感をおぼえる」などというレベルをはるかに超えており、不可視の槌で頭頂を殴打されるに等しい。
仕合場を囲む旗士たちの口から苦悶のうめきや驚愕の声が漏れる。
この場にいるのは青林八旗でも上位に位置する旗士たちだ。彼らだからこそ声を漏らす程度で済んだのであって、もし平の旗士がまともに空の圧力に打たれたのなら、その場で気を失ってもおかしくない。旗士ですらない将兵ならば尚のこと耐えられまい。
今の空が戦場に出れば、ただ抜刀するだけで一軍を制圧することも可能であろう。
そんな空と対峙する剣聖 御剣式部はどのように相手を迎え撃つつもりなのか。
「――」
無言、無音で佩刀である笹雪を抜き放った式部は、右足を半歩前に出して刀を中段に構える。
これ以上ないくらいの基本の構え。心装は出しておらず、それゆえに勁も小さい。もちろん、小さいと言っても平の旗士が抜刀した程度の勁は湧き立たせている。心装抜きでこれだけ勁を高めることができるのは、剣聖の面目躍如というものであろう。
ただ、圧倒的なまでの空の勁と比べれば、式部のそれは小さいと言わざるを得なかった。
心装を出さないのは余裕か、様子見か、あるいは他に出さない理由があるのか、式部の内心を洞察できた旗士はいない。これは式部と対峙している空も同様だった。
ただ、もう少し正確に言えば、空は式部の内心を洞察できなかったのではなく、そもそも洞察しようとしていなかった。父が何を考えているのかなど分かるはずもないと思っている空は、初めから式部の内心に頓着しなかったのである。
空は心装を左腰にあて、切っ先を後方に向けた。居合を思わせる体勢をとった次の瞬間、カッと大きく目を見開き――
「殺ッ!」
地面をえぐるように力強く右足を踏み出した空は、気合の声と共に心装を真横に振るう。
両者の距離を考えれば届くはずのない空の斬撃は、その実、必殺の威力を秘めた強力な勁技だった。
幻葬一刀流 虚喰。勁を飛ばして敵を斬る颯をさらに研ぎ澄ましたその技は、斬撃が届くまでに必要な時間を限りなくゼロに近づける。
空が間合いの外で心装を振るった瞬間、虚喰は相手の身体を捉えているのである。
彼我の距離を事実上ゼロにするこの勁技は空にとって切り札のひとつ。
初撃に切り札をもってあたった空に対し、式部がやったことは単純だった。
――無造作に、まるで刀の重みを確かめるかのように、軽く笹雪を一振りする。ただそれだけ。
ただそれだけで、鬼神をも切り裂く空の切り札は封殺された。勁技を受けとめた際に発生する衝撃もなければ、余波もない。それらが発生する余地がないほどの完璧な防御だった。
笹雪は名刀ではあるが、魔術付与が施された魔法剣というわけではない。鉄を鍛えてつくりだされた普通の刀だ。
式部はその普通の刀で勁技を受けとめた――否、霧散させた。文字通りの意味で霧と散らしたのである。
それがどれほどの絶技であるのかは、剣聖としての式部をよく知るはずの旗士たちが一斉にどよめいたことで察せられるだろう。
ただし、切り札を防がれた当人は旗士たちの驚きに同調していなかった。
楽しげに口角を上げる空の顔には驚愕も動揺も浮かんでいない。
別に空は手を抜いていたわけではなかった。式部の防御が神技の領域にあることも理解している。全力で放った切り札を、心装を出してもいない式部に完璧に防がれた――その事実が意味することを空は正確に認識していた。
それでもなお空が微塵も動じなかったのは、端からこの程度のことは覚悟していたからに他ならない。むしろ、今の攻撃でわずかなりと式部が傷を負っていれば、そのときこそ空は驚愕を禁じ得なかっただろう。
防がれたことに動じていないのだから、次撃を繰り出す動作に遅滞が生じることもない。空は立て続けに虚喰を二度、三度、四度と繰り出した。
切り札である勁技をこれほど連続で繰り出すことができるようになったのは、鬼界における修練――中山兄弟との間で繰り返された死合の賜物である。
そして、式部は続けざまに襲い来るすべての虚喰を正面から撫で切った。
並の旗士なら一合とて打ち合えぬ凄まじい攻防を、まるで殺陣か何かのように軽々とこなした父と子の口元に笑みが浮かぶ。
それは、飢えに苦しんでいた肉食獣がようやく獲物を見つけた時のような、そんな獰猛な笑みだった。
御剣家の仕合場に激しい剣戟の音がこだまする。
心装と笹雪。打ち交わされる二本の刀身から発せられる焼けるような擦過音は、途切れることなく旗士たちの鼓膜を揺さぶり続ける。
父子の剣戟はすでに三十合を超えており、当初は静けささえ漂わせていた戦闘は、今や互いに勁技を打ち合う震天動地の激闘となって御剣邸を震わせていた。
それほどの激しさの中で周囲にほとんど被害が出ていないのは、両者が卓越した技術で己の勁を制御し、勁技の威力を相手のみに限定しているからである。そうでなければ、今ごろ仕合場はもちろんのこと、御剣邸も半壊の憂き目を見ていたに違いない。
いつ果てるともなく続く両者の戦いを、集まった旗士たちは声もなく見つめている。
この戦いに関しては一切の口出し無用、というのが当主の命令である。口出し無用ということは手出しも無用であるということ。自分たちが介入してよい戦いではなく、また、介入できる戦いでもない。すべての旗士がそのことを理解していた。
ただ、理解したからといって傍観をよしとするかはまた別の話である。ギルモア・ベルヒは当初こそ他の旗士と同じように父子の戦いを注視していたが、時が経つにつれてその顔には懸念が目立つようになっていた。
懸念はいつしか眉間のしわとなってギルモアの表情を険しいものに変えていく。父子の剣戟が五十合を超えた時点で、御剣家の司徒は周囲に気取られないよう短く、だが鋭く、息子の名を呼んだ。
「――ディアルト」
父の声を聞いたディアルトは恬淡とした面持ちで応じる。
「司徒、何か?」
「手段は問わぬ。あの痴れ者を討て。そなたならば皆に気づかれることなく事を為すことができよう」
父に命じられたディアルトは、しかし、一考もせずに首を横に振る。
「できませぬ。それでは御館様のご命令に背くことになる」
「だから気づかれることなく事を為せと言っておるのだ……!」
我が子を叱咤するギルモアの声には焦りがあった。その視線の先には空の姿がある。
空の動きは時を追うごとに鋭くなり、剣戟を重ねるごとに烈しくなっていく。当初互角だった形勢は、今やはっきりと空の側に傾いていた。
式部がこれほど劣勢に追い込まれたところを、ギルモアはこれまで見たことがない。心装を抜いていないから、というのは理由にならなかった。何故なら、双璧相手に稽古をつけるときでさえ、相手に心装を抜かせた上で自らは心装を出さずに一本とってしまうのが御剣式部だからである。
その式部が、空相手にはっきりと押されていた。
――なぜ御館様は心装をお抜きにならぬ?
手加減できる相手ではないことはここまでの戦いでわかっているはず。それに、さきほどゴズ・シーマに告げた言葉からも、式部が空を最大限に評価していることはうかがえる。
にもかかわらず、どうして式部は心装を抜かないのか。
――よもや、抜かないのではなく、抜けないのか?
そんな疑問さえ脳裏をよぎった。
古くから式部に仕えているギルモアであるが、式部が心装を抜いたところを見たのは数えるほどしかない。ここ十年にかぎって言えばゼロだ。十年を二十年にかえても同じことが言えるかもしれない。それほどに式部の全力戦闘はギルモアにとって遠い記憶となっている。
ギルモアはそのことを疑問に思ったことはなかった。青林八旗が存在する以上、剣聖が自ら出張らなければならない魔物など滅多に出るものではない。仮に出たところで、式部は心装を用いることなく容易く退治してしまう。
だから、式部が心装を抜かないのも当然だと思っていた。だが、もしや式部は心装を抜けない旗士になっていたのだろうか。
肉体的、あるいは精神的な理由で同源存在との同調が切れてしまう旗士は一定数存在する。もし式部がそうなっていたのだとしたら、このまま傍観していることは絶対にできなかった。
当主が鬼人に与した者に敗れるようなことがあれば、御剣家は終わりだ。御剣家の司徒として、ベルヒ家の当主として、そして青林旗士として、そんな可能性の芽は未然に摘んでしまわなければならない。
そう考えたギルモアは再度ディアルトに命令を下そうとする。
だが、ここで旗士たちの口からあがったどよめきがギルモアの口に蓋をした。
見れば、空の心装の先端が式部の陣羽織の袖を切り裂いている。
これまで式部は空に押されながらも刃を衣服に触れさせることはなかった。だが、空の猛攻はそんな式部の防御を貫いたのである。
これに力を得たのか、空の剣はさらに勢いを増し、上位旗士たちの目でも追いきれない疾風迅雷の猛攻が剣聖に襲いかかる。
闘志に満ち溢れたその戦いぶりは、ともすれば、この戦いが始まった当初の動きが魯鈍に感じられてしまうほどに凄絶だった。
何故、剣聖と戦う前後でこれほどまでに空の動きに差が生じたのか。
『御剣空、あなたはいったいいかなる呪いに侵されているのですか?』
『その呪いを解かないかぎり、あなたは常に鉄の鎖で縛られているも同然。実力を発揮しようもありません』
それは御剣空がソフィア・アズライトから伝えられた言葉。
空を縛めていた呪いの正体は、父から伝えられた訣別の言葉であり、さらに言えば、己を不要な弱者と断じた父の存在そのものだった。
であれば、解呪の鍵となるのが父の存在であることは明白である。
別段、難しいことをする必要はない。
父を畏怖すること甚だしかった空にしてみれば、父と真っ向から対峙するだけで――自分が怖じることなく父と向き合えているという事実だけで大いなる自信を得ることができる。
ましてや三十合、五十合と真っ向から父と剣を打ち交わしたならば、得られる自信がどれほど膨大なものになるかは容易に推測できるだろう。
心装の切っ先で父の陣羽織を切り裂いた瞬間、空の身体を縛る呪いの鎖は半ば解けた。
うなりをあげて繰り出される黒の鋒鋩は無数の流星となって剣聖に襲いかかり、少しずつ、しかし確実に相手を追いつめていく。
そして、その時はやってきた。
猛然と突きこまれた空の心装の切っ先が、式部の顔のすぐ近くを通過する。式部はとっさに首を傾けて刀身を躱した。躱したように見えた。
だが、わずかに。ほんのわずかに心装の切っ先が式部を捉えていたのである。
――剣聖の頬に小さな赤い線が走る。
それだけと言えばそれだけの傷だった。血が流れることさえない、小さな小さなかすり傷。
だが、それは確かに傷だった。御剣空が御剣式部につけた傷だった。
空の目が大きく見開かれ、口元に会心の笑みが浮かぶ。
その瞬間。
「喝ッッッ!!」
式部の口から勁烈な咆哮がほとばしり、空は不可視の衝撃をまともに食らって後方に吹き飛ばされた。
それは勁砲と呼ばれる初歩の勁技。式部はそれを至近距離で空に浴びせたのである。
もっとも、初歩はあくまで初歩にすぎない。今の空にとって脅威となるような威力ではなかった。
実際、後方に着地した空の身体には傷ひとつ付いていなかった。式部としても、今さら初歩の勁技で空に手傷を負わせられるとは思っていなかっただろう。
式部はただ空と距離をとりたかったのだ。
「……っ」
右手で笹雪の柄を握った式部は、左手を己の頬にあてた。そして、今しがた空につけられた傷をなぞり、指先についた微量の血をじっと見つめる。
ややあって、式部はくつくつと喉を震わせるように笑いはじめた。その笑いは徐々に大きくなっていく。唖然とする空や周囲の家臣たちをよそに声を高め続けた式部の笑いは、やがて天を震わせる哄笑に変じた。
「くははははは! はっはははははは! ハハハハハハハハハッ!!」
常の能面じみた無表情をかなぐり捨てて式部は笑う。
空にしてみれば、こんな風に笑う父の姿を見るのは生まれて初めてのことだった。戸惑い、驚き、警戒した。
わずかとはいえ息子に手傷を負わされた父が、怒り狂って猛攻に出てくるかもしれない、と考えたからである。
だが、結論から言えばこの考えは間違っていた。このときの式部の心には怒りなど微塵もなかった。そこにあったのは哄笑を禁じ得ないほどの歓喜と、自らに傷を負わせた者への称賛だけだったのである。
笑いをおさめた式部は、空に対して心からの賛辞を呈した。
「他者に傷を負わせられるなど幾年ぶりのことか――見事だ、空。よくぞここまで己の剣を磨きあげた。今この場でそなたの勘当を解き、御剣の姓を名乗ることを許そう。剣聖たるこの身に傷を負わせたそなたには、その資格があろう」
「……それを聞いて俺が礼を言うとでも?」
「言わぬだろうな。言う必要もない。どのみち、そなたはこれより我が剣で泥濘に沈む。そなたに御剣の姓を許したのは、冥府で閻羅王に名乗る際、姓を名乗れぬでは難儀しようと思うての親心と知るがよい」
式部はそう言ってニヤリと笑う。
常に必要最低限の言葉しか発さない式部にしては、ひどく挑発的で無駄の多い物言いだった。ただ、そこに悪意は感じられない。もしかしたら、今のは式部なりの軽口だったのかもしれない。
言葉もなく押し黙る空を前に、式部はもはや何ひとつ顧慮する必要はないと言わんばかりに、喜悦に満ちた声で言った。
「心装励起」
その瞬間、仕合場を、御剣邸を、柊都を、鬼ヶ島を震わせた勁圧は、かつて空が一度として感じたことのないものだった。
ただ強大というのではない。ただ重厚というのでもない。
それはぞっとするほど神聖であり、清廉であり、崇高である神威の顕現だった。
「破邪顕正――光神バルドル」




