146話 ただ一人
「なりませぬぞ、御館様! このような痴れ者と言葉を交わすことさえ酔狂が過ぎるというのに、この上御自ら刃を交えるなど、御剣家当主としてあまりに軽率であると存じます!」
しんと静まり返った大広間に司徒ギルモア・ベルヒの諫めの言葉が響き渡る。
俺が斬られること自体はギルモアも望むところだと思うが、父自らが手を下すのはやりすぎだと考えたようだ。
万に一つにも父が敗北するのではないかと恐れた――わけではないだろう。もっと単純に「鶏を裂くのになんぞ牛刀を用いん」的な意味だと思われる。ようするに、俺ごときを始末するのに剣聖が出張る必要はない、と訴えたわけだ。
まあ俺はすでに御剣家の序列四位と三位を退けているので、鶏とまでは思っていないかもしれないが、双璧たる二位の九門淑夜と一位のディアルト・ベルヒが残っている状態で剣聖が腰を上げる必要はない、というのは御剣家の家臣として真っ当な意見だろう。
ギルモアはディアルトの父親でもある。俺を息子に斬らせることでベルヒ家の発言力をあげようと目論んでいる可能性もあった。
さて、父はこの提言に対してどういう返事をするのか。
父と戦う前に双璧を喰えるというのは、俺としても悪い話ではない。ただ、双璧を相手どった上で剣聖に勝利し得ると考えるほど自惚れているわけでもなかったから、父の返答次第では何か策を講じなければならないだろう。
そう考えていると、父がゆっくりと口をひらく。
「ギルモア。御剣家の当主であればこそ、鬼人に与した者の始末は己の手でつけねばなるまい。それが己の血を引いている者であれば尚のこと」
「ですが……!」
「この件では一切の口出し無用。余の者もそう心得よ」
そう言ってギルモアと、ギルモア以外の配下の口を封じた父は、流れるような動作で立ち上がった。
衣を払って歩き出した父は俺に一言「ついてまいれ」と告げると、そのまま大広間を出て行く。集まった旗士たちが呆然とした顔で周囲の同輩と顔を見合わせる中、俺は父の背中を追って歩き出した。
こうして父に続いて御剣邸の廊下を歩いていると、なんとなく子供の頃のことを思い出す。あの頃の俺の胸には、常に父に対する憧憬と焦燥が混在していた。いつかこの人のようになりたいという憧憬と、自分はどうやってもこの人のようになれないのではないかという焦燥。
懐かしいと呼ぶには苦すぎる記憶を思い出している間にも、父の歩みを止まらない。
やがて、父の後を追って俺がたどりついたのは円形の仕合場だった。かつて試しの儀で竜牙兵と戦った場所であり、先の帰郷の際に土蜘蛛と戦った場所でもある。
この仕合場には壁もなく、柵もなく、魔法による防壁が展開されているわけでもない。心装による全力戦闘をおこなえば、周囲の被害は甚大なものになると思われる。それでも父が俺をここに連れて来たのは、被害などいくら出ても気にしないということなのか、あるいは被害など出さずに俺を押さえ込む自信があるということなのか。
そこまで考えた俺は内心で苦笑する。
――そのあたりは戦ってみればわかるか。
父が俺の相手をする気なのは間違いないのだ。今から相手の思惑をあれこれ慮っていても仕方ない。
そう思っても尚あれこれ考えようとしてしまうのは、俺が平静を欠いているからなのだろう。
待ちに待った父との戦いだ。恐れてはいない。怯んでもいない。それではいつもどおりなのかと問われれば、それも違う。
これから始まる戦いが待ち遠しい一方で、戦いが始まることを惜しんでいる自分もいるのである。
戦いが始まることを惜しむ、というのも妙な言い方だが、それが俺の本心だった。
父に負ければ命を失う。父に勝てば超克の対象を失う。いずれにせよ、鬼ヶ島追放から始まった御剣空の戦いは今日終わる。十八年の人生の中でもっとも濃密だった五年間に終止符が打たれるのである。
つまるところ、俺が惜しんでいるのは今日までの五年間の日々だった。
正直に言えば、惜しむほど楽しい日々ではなかった。今ふりかえれば、頭を抱え、もだえたくなる五年間だった。
それでも、今日それらが終わると思うと感傷のひとつやふたつ湧いて出るのが人間というものらしい。
俺はそんなことを考えながら、仕合場の中央に進み出て父と向かい合う。
周囲は大広間から駆けつけた旗士たちによって埋められつつある。
五年前、この場所に立った俺に向けられていたのは嘲笑であり、侮蔑であり、憐憫であった。それらを向ける価値さえないとばかりに無関心だった者も大勢いた。
それが五年たった今、連中が俺に向けているのは敵意であり、憎悪であり、警戒にかわっている。嘲笑や侮蔑もまだけっこうあるが、少なくとも憐憫を向けてくる相手はいなかった。無関心である人間もだ。
御剣家の連中からどういう目を向けられようと知ったことではなかったが、それでも、この五年間で憐れまれ、無視される立場からは脱したのだと思うと、自然と唇の端が吊りあがってくる。
と、そのとき、周囲の旗士たちの間からゴズ・シーマが進み出てきた。
「御館様。空殿。この場はそれがしが立会人を務めさせていただきたく存ずる」
ゴズとしては自分が審判として間に入ることで、最悪の結果となることを防ごうと考えたのだろう。
だが、俺はこの戦いに立会人も審判も介入させるつもりはなかったし、それは父も同じだったようだ。
『不要』
期せずして俺たちは同時に同じ言葉を発していた。反射的に顔をしかめてしまった俺とは対照的に、父は眉ひとつ動かしていない。
そんな父子を見て、ゴズは懸命に主君に食い下がろうとする。
「御館様! お二方が戦うことを止めはいたしませぬ。されど、父が子を手にかけるのは酸鼻の極み。なにとぞ、それがしを立会人として認めていただきたく!」
真剣な表情で重ねて父に懇願するゴズ。もうひとりの当事者である俺には見向きもしない。
ゴズにしてみれば、父が俺に勝つのは当然のこと。それゆえ、俺が負けたときに「勝負あり! そこまで!」と言って制止する権利を与えてほしい、と父に言っているのである。
あいかわらず人を舐めくさってくれるものだ。まあ、今さらゴズに何を期待するつもりもないので腹も立たないが。それにゴズに限らず、この場で俺が剣聖に勝てると思っている人間なんてただの一人もいないだろう。
そんなことを考えていると、父の静かな言葉が耳朶を震わせた。
「控えよ、ゴズ。この件では一切の口出し無用と言ったはずだ」
「しかし……!」
「これまでの忠義に免じて、この身に二度同じことを言わせた咎は許そう。だが、三度は許さぬ」
冷然と言い切った父を前に、ゴズはそれ以上言葉を重ねることもできずに悄然と肩を落とす。
それで終わりかと思ったが、父は口角をあげてなおも言葉を続けた。
「それに、今の空を観て、この身の勝利しか見えぬ者に立会人は務まらぬ」
「……御館様?」
ゴズが驚いたような、戸惑ったような顔で主君の顔を見返すが、父はそれ以上口を動かそうとはしなかった。
ゴズの視線がこちらを向いたが、特に話すこともないので冷然と無視をする。
これによって招かれざる立会人は仕合場から出ることを余儀なくされた。
残ったのは俺と父のふたりのみ。
改めて俺と向かい合った父が、腰に差した佩刀の柄に手をかける。代々の御剣家当主に伝えられてきた宝刀笹雪。
対して俺が手に取ったのは、笹雪と対になる宝刀笹露――ではない。笹露は交渉に先だって九門淑夜に渡したので、俺の手元にはない。仮に手元にあったとしても、使い慣れない刀を使う気はない。
腰に差してある無銘の黒刀を使う気もなかった。剣聖相手に力をおさえて様子見を選択するほど自惚れてはいない。初っ端から全力全開で相手を叩き潰す気概で挑む。そこまでして初めて様子見になるのである。
それに、今しがたの父の言葉。
『今の空を観て、この身の勝利しか見えぬ者に立会人は務まらぬ』
あれはつまり、自身に敗北の可能性があることを他ならぬ父本人が認めていることを意味している。もっと言えば、俺にその可能性を見たからこそ、父は自ら俺と戦う気になったのだろう。
この場で俺が剣聖に勝てると思っている人間なんてただの一人もいないと思っていたが、どうやら一人はいたらしい。
その相手に失望を与えることは何としても避けなければならなかった。
「心装励起」
突き出した右手に心装が顕現する。
俺はニィと笑うと、この五年間のすべてを父に詳らかにすべく――
「喰らい尽くせ、ソウルイーター!」
吼えるように抜刀の文言を口にした。