145話 刻は来たれり
俺は御剣邸の大広間で父と向かい合って座っていた。
もちろん向かい合うと言っても膝を詰めて対峙しているわけではない。向こうは上座、こちらは下座、ほとんど見下ろされているようなものである。
その上、左右には名だたる旗士たちが勢ぞろいしており、殺気と敵意をまき散らしながらこちらを睨みつけているわけで、気分は刑場に引き据えられた罪人だった。
まあ、ここに至るまでの経緯を考えれば、俺の扱いが罪人同然になるのは当然であろう。むしろ、一斉に襲いかかって来ないだけ御剣家側は自制していると言える。
帝の勅命によって三百年の間鬼門を守り続けてきた御剣家に対し、宿敵である鬼人族に鬼門を明け渡すように要求する、というのはそういうことだった。
こと今回に関しては俺の方が先に御剣家に喧嘩を売ったのである。この場合の喧嘩は宣戦布告とほぼ同義だ。
なんでそんな真似をしたのかと言えば、これは御剣家を交渉の席に座らせるためである。
どういうことか言うと。
俺は鬼人側の使者として御剣家に鬼門を明け渡すよう伝える責務がある。前述したように、この用件は御剣家にとって宣戦布告と同義であり、俺がどれだけ友好的に交渉を進めようと、用件を口にした時点で交渉は破綻し、殺し合いに突入してしまう。
だから、最初に用件を突きつけた。当然、御剣家は激高するだろう。話を聞く前に俺を敵と見なして殺しにかかるに違いない。
そこで俺がその討手を完膚なきまでに叩きのめし、こちらの実力を誇示する。討手が何人来ようと、そのことごとくを叩き潰す。そうすれば、いずれ御剣家はこちらの話を聞かざるを得なくなる。
宣戦布告に等しい用件を最初に伝えた上で、相手を交渉の場に引きずり出すのが俺の狙いだった。
俺を殺しにきたラグナとルキウスにポーションを渡してやったのもこのためである。ふたり、いや、ゼノンも含めた三人が俺を殺しにかかるのは当然のこと。だが、俺が彼らを殺してしまっては次の交渉に差し支える。
叩き潰した上で情けをかける。それでこそ両者の力の差がはっきり浮かび上がり、御剣家を交渉の場に引きずり出す材料になるのである。実際、ゼノンたちの『次』が来なかったのは、それをしても俺に返り討ちにされるだけで意味がない、と御剣家側が判断したからだろう。
――まあ、ポーションを渡した本音は、ラグナを死なせてエマ様に恨まれたくなかったからですけどね! ルキウスはそのついでだ。いま述べた交渉云々も嘘ではないが、理由としては前者の方が大きい。
ともあれ、俺はこうして大広間まで招じ入れられたわけで、今のところは思惑どおりに進んでいる。
この後も思い通りに進むかは神のみぞ知るところである。
「空、良き師を得たようだな。あるいは競える友を得たか」
開口一番、剣聖が口にしたのはそんな言葉だった。
御剣家当主の第一声が、鬼人に関することではなく、鬼門に関することでもなかったことに俺はわずかに眉根を寄せる。
だが、別に隠しだてをすることでもない。俺は礼儀正しく正座したまま応じた。
「全力で競える相手を得たことは確かです。ただ、それを師と呼び、友と呼ぶかはわかりかねます」
そう。
毎日毎日「空ー、死合しようぜー!」と訪ねてくる末弟とか、毎日毎日軍務で凝った身体をほぐすと称して死合を挑んでくる次男とかを友と呼ぶべきか、あるいは師と呼ぶべきか、俺にはわからない。
普通に殺しにかかってきてませんかね、あれ?
その二人ほどではないが、三男もちょいちょい顔を見せては死合を挑み、逆立ち状態で脚を独楽のように回転させて俺を切り刻もうとしてくるし、鬼界での生活はスリルとサスペンスに満ちている。
唯一まともだと思っていた長男も、弟たちにつられて俺に挑んでは、負けそうになると心装を励起させて強制的に引き分けに持ち込むという負けず嫌いっぷりを発揮してくれた。
いちおう説明しておくと、アズマの心装 渾沌はアズマを含めた周囲一帯の生物の五感を剥奪する能力を持つ。少なくとも、俺はそのように判断している。あれを食らうと戦いどころではなくなってしまうのだ。
まあ、その五感剥奪を何度も食らったおかげで、俺の五感は一か月前よりもかなり鋭くなっているのだが。今では渾沌の影響下でも多少は戦えるようになっている。
単純に五感を奪われる状態に慣れたのか、それとも五感を奪われ続けた結果、第六感が発達したのかはわからない。
わかるのは、普段も戦闘時もやたらと勘が鋭くなったということだけである。クリムトからはしばしば「化物め」というお褒めの言葉をいただいているし、クライアやウルスラもそれを否定しようとはしなかった。
なお、クリムトたちも俺と同じことをしようとしたのだが、うまくいかなかった。アズマいわく、たびたび渾沌の能力を食らうと発狂する人もいるとかで、俺のように良い方向に転がる人はかなり幸運らしい。
これに関しては最初に説明を受けていたからアズマに文句は言えないが、それでもやっぱり中山四兄弟は俺を殺しにかかっていたと思う。
と、いけないいけない。つい遠い目で物思いにふけってしまった。
俺は改めて父の顔を見据えると、話を進めるべくニヤリと唇の端を吊りあげてみせた。
「ただ、鬼人たちのおかげで今まで知らなかったことを知ることができたのは確かです」
挑発のつもりだったが、父は微塵も動じた様子を見せない。
こちらの言葉に無関心というわけではないのは視線から察せられる。その上で動じていないということは、俺が何を言おうと構わない、どうにでも対処できるという自信のあらわれだと思われる。
実際、俺がここで三百年前の真実を語ったところで、誰も耳を傾けてはくれないだろう。なにしろほとんどがソフィア教皇からの伝聞なのだ。その教皇も死に、証拠の一つも残っていないとくれば、俺を信じる方が難しい。
まあ、そんなのは端からわかっていたことである。
俺にとって大切なのは、三百年前に御剣家の始祖が鬼門に鬼神を封じたというのは嘘っぱちであり、俺が剣聖を打ち倒したところで鬼門から災いがあふれ出ることはない、という事実だけだ。
御剣家が俺の言うことを信じようと信じまいと、そんなことはどうでもいい。
それゆえ、挑発に動じない父の態度に動揺したりはしなかった。
ただ単純にこう思っただけだ。
――ああ、やはり父は三百年前の出来事を知っているのだな、と。知っていながら「御剣家は人の世の護り刀である」などと配下や息子たちに宣っていたのだな、と。
確証があったわけではない。ただ、あまりにも平静すぎる父の態度から推察しただけである。
そんな俺の視線に何を見たのか、父は楽しげに口角を上げる。ここまで上機嫌な父を見たのはいつ以来だろう。少なくとも、母が亡くなってからは初めてであるに違いない。
その父が口をひらいた。
「それで、空よ。これまで知らなかったことを知ったそなたは、鬼人に与してこれからどうするのだ。そなたが何を語ったところで、御剣家が鬼門を明け渡すとはよも思うまい」
「理を尽くして非を説き、成らずんば力をもって意を通す所存」
「迂遠よな。そなたの目はすでに鯉口を切っているというのに」
鯉口を切るとは、いつでも抜刀できるように刀に手をかけている状態のことだ。
俺が鬼人族の使者となったのは、話し合うためではなく戦うため。事のはじめから俺が戦う気満々であることを、父は掌を指すように見抜いているのだ。
別に不思議とは思わない。
俺の前にいるのは剣聖 御剣式部。鬼ヶ島最強の剣士であり、世界最高の剣士である。未熟な俺の心底など見抜かれて当然だ。
くくっと我知らず喉が震えた。いや、喉だけではなく身体が震えている。
武者震いというには大きすぎる身体の震えは、これまで心の中に押し込めてきた激情があふれかえる前触れだった。
『――いつか、必ず帰ってくる。この島で戦える力を身につけて、帰ってくる』
五年前、島から追放された舟の中で繰り返し繰り返し思ったこと。
それはいつか見返してやるという誓いだった。ゴズを、セシルを、ラグナを、アヤカを。そして何よりも、息子を追放しておきながら顔も見せなかった父をいつか見返してやるという誓いだった。
――ようやく、その刻が来た。
背筋が震えるほどの解放感に突き動かされながら、俺は託された使者の責務を果たすために口をひらく。
「鬼界を統べる中山王国の使者として問います。三百年前、鬼人族が龍を討った功績をかすめとり、救世の英雄を僭称した御剣一真の末裔よ。始祖の非を認め、鬼門を明け渡す意思はおありか?」
「否。御剣家は三百年の昔、鬼神を封じた剣聖を祖とする武門の家である。それを否定するいかなる言葉も容れることあたわず」
「ならば我らは、言葉ではなく力をもってその欺瞞と虚構を打ち砕こう。今この刻をもって、中山王国は御剣家に宣戦を布告する!」
俺がそう言い放った瞬間、幾人かの旗士が怒号をあげて躍りかかってくるのがわかった。
ゴズや双璧もそれぞれに動き出そうとしている。
俺は剣聖たる父親を見据えながら、降りかかる火の粉を払うべく口をひらいた。
「喝ッッッ!!」
それは初歩の勁技である勁砲――ではなかった。
自身の勁を何の着色もせずに周囲にまき散らしただけの、威嚇と呼ぶのもおこがましい児戯である。
それだけで動きかけていた旗士たちは動きを止めた。
しんと静まり返った大広間の只中で、俺は静かに言う。
「俺が戦いたいのは剣聖だけだ。それ以外の者たちは引っ込んでいていただこう」
それを聞いた父は俺の視界の中でニィっと口を歪める。
それは闇夜に浮かぶ三日月を思わせる不気味な形の笑みだった。