142話 ハルパー
『何をそんなに怖がってるんだ、ラグナ?』
ラグナは以前、空にそう問われたことがある。実母の墓参りのために帰郷した空と、同じ日に柊都を襲撃してきた敵との関わりを疑った時のことだ。
空が敵との関係を否定してもラグナは疑いを解かず、心装を振るって問い詰めた。そんなラグナに対して空は次のように続けた。
『そういえば、五年前もお前は心装を持ち出していたな。勝ち誇ってのことかと思っていたが……ひょっとして、あのときからずっと怖がっていたのか? いつか俺が帰ってくるんじゃないかと』
それを聞いたラグナは激怒した。苦しまぎれの世迷言としか思えなかったからである。
だが、今にして思えば、あの言葉はラグナ自身さえ自覚していなかった本心を的確に突いていたのかもしれない。
いつか兄が御剣家に帰参し、母を、許嫁を、嫡子の座を自分から奪い返す日が来る――心の奥底に秘めていたその恐れを正確に掬いとられ、目の前に突きつけられたからこそ、自分はあれほど怒りに駆られたのではないか。ラグナはそのことに思い至った。
何かに耐えるようにきつく目をつむったラグナの口元が、不意に笑みの形に歪む。それは自嘲の笑みだった。
「いつか奪い返される日が来る、か。笑止だな。もとより俺は何ひとつとして奴から奪えていなかったのだ。その俺から何を奪い返すというのか」
追放前も、追放後も、母はラグナより空を案じていた。許嫁の好意は空に向けられていた。唯一、嫡子の座だけはラグナのものだったが、それとて本当に奪えていたかは怪しいものだ。
先刻の父とのやり取りを思い返す。
あの父がラグナと空の力量差に気づいていなかったとは思えない。空との対決を許してくれたのは、ラグナの心情を汲んでくれたからだと思っていたが、実際はラグナと空の実力差を衆目に明らかにするためだったのかもしれない。
ラグナが――いや、ラグナとルキウス、ゼノンが空に敗れれば、諸将も空の実力を認めざるをえない。そうなれば空を円滑に御剣家に帰参させ、嫡子の座に戻すことができる。
父にとっては嫡子の座など何時誰に替えても問題ないものだったのではないか。ラグナにはそう思えてならなかった。
もしこの疑念が正鵠を射ているとすれば、御剣家の嫡子であることに誇りを抱き、その座を失うことを恐れて立ち回っていたラグナはひどく滑稽な立場だった。道化と言いかえてもよい。
ラグナは唇の端を吊り上げて自嘲を深める。
「道化……言い得て妙だな」
空が追放されてから五年。母もアヤカも、おそらくは父さえもラグナではなく空を見ていた。そのことに気づかず、帰ってきた空を見てすべてを奪われると恐怖した。だが、実際は奪われるどころか、大切なものは五年前からずっと空の手中にあったのである。
そんな人間を道化と言わずして何と言おう。
我知らずラグナはため息を吐く。
大広間であれだけの大言を吐いたにもかかわらずこの始末である。この先、家中の視線がどうなるかは容易に想像できる。かつての空と同じ、あるいはそれ以上の蔑視に囲まれることになるだろう。
今後、嫡子として返り咲くことは不可能に近い。いや、それ以前に返り咲きたいと思えない。嫡子になっても本当に欲しかったものは手に入らなかった。再び嫡子になっても結果は変わらないだろう。であれば、嫡子の座に何の意味があるというのか。
心が諦念に呑まれ、全身から力が抜けていくのがわかった。このままではまずいと思ったが、抜け出そうという気力が湧いてこない。
どうせ自分など誰も見ていないのだ、どうなったところでかまうものか――そんな冷たく乾いた思考が心を蝕んでいく。そうして、脱力感に耐えきれずにその場で膝をつこうとしたときだった。
――不意に、右手に違和感をおぼえた。
のろのろとそちらに目を向けたラグナは、心装の柄を握る手が熱を帯びていることに気づく。心装が燃えるように熱くなっているのだ。
火傷しそうなほどに熱く、けれど決して肌を焼かないその熱は、あたかも凍えたラグナを暖めようとしているかのようだった。
そして。
『我が主』
戸惑うラグナの耳に何者かの声が響きわたる。
どこか幼さを感じさせる少年の声。それはラグナにとって耳に馴染んだものだった。
「……ハルパーか」
己が同源存在の名を口にしたラグナに対して、誰かがうなずいたような気配が返ってくる。一瞬、ラグナは羽飾りを頭につけた少年の姿を幻視した。
ラグナは不機嫌そうに顔をしかめながら言葉を続ける。
「俺の無様な姿を笑いに来たのか?」
その問いに『否』という答えが返ってくる。どことなく、同源存在が困っている気配も伝わってきた。
ラグナの言葉は止まらない。
「ならば俺の身体を奪いに来たか?」
青林旗士にとって同源存在は必ずしも味方というわけではない。使い手に好意的な同源存在もいれば、そうではない同源存在もいるからだ。常は協力的な態度をとりながら、使い手の油断に乗じて肉体の主導権を奪おうとする同源存在など珍しくもない。
ラグナの言葉はそれを指していたが、ハルパーの答えは今度も『否』だった。
ラグナは苛立たしげに言う。
「ならば何のために出てきた? これまでどれだけ望んでも俺に空装を許さなかったお前が、今になって心変わりしたとでも言う気か!?」
その問いに対する答えは『否』ではなかった。
ハルパーの声ならざる声がラグナの耳朶を震わせる。
『我が主の真意を問うために』
「真意、だと?」
怪訝そうに眉をひそめるラグナに対し、ハルパーは静かに問いかける。
『我が主は何のために戦う?』
「今さらそんなことを聞いてどうする? 今の俺に戦う理由などない!」
ラグナは吐き捨てる。
昨日までなら、いや、半刻(一時間)前までなら答えることができただろう。だが、道化であることを自覚した今のラグナに戦う理由などあるはずがなかった。少なくとも、ラグナ自身はそう思い込んでいた。
だが。
『ならば、どうして我が主は僕を握っている?』
「……ッ」
問われたラグナは思わず息を呑む。
ハルパーの言うとおり、ラグナは空に敗れてからこちら、ずっと心装を握り続けていた。空への恐怖に震えている間も、自らの無様さを嗤っている間も、心装から手を離すことはなかった。
しかし、それは意識してのことではない。どれだけ打ちひしがれていようとも、剣士としての本能が武器を手放すことを拒んだ――それだけのことであるはずだ。
そう自分に言い聞かせるラグナの耳に、なおもハルパーの問いが響く。
『戦う理由がないのなら僕は不要のはず。それなのに我が主は僕を握り続けた。どうして?』
「それは……」
戦う理由があったから、なのだろうか。ラグナ自身さえ気づいていない理由が心の奥底に眠っていたから、心装を手放すことだけはしなかったのか。
だが、母もアヤカも嫡子の座も手に入らないことを理解して、それでもなお自分が戦う理由など「空に勝ちたい」くらいしか思い浮かばない。
そして、それは意地だの誇りだのの発露ではなく、自分が欲しいものをすべて手に入れた兄への嫉妬から生じた願望だった。何もかもを手に入れた兄を叩きのめし、わずかなりと憂さ晴らしをしたいという小人の妄想。
そのことがわかるゆえに、ラグナは自分の望みを口にしなかった。嫉妬に駆られて勝ちを願うなどあまりにも惨めだったからだ。
この惨めさを振り払うのは簡単である。今すぐ心装から手を離してしまえばよい。
ラグナはそう思い、実際に心装を手放そうともした。
だが、ラグナの手は持ち主の意思に反して心装をつかんで離さない。
そんなラグナを見て、ハルパーは穏やかに語りかける。
『我が主、肉を持ち生きる者がその身に影を宿すのは逃れ得ぬ自然。大切なのはその影を自ら知り、御すること。それができれば影を疎む必要はない。恥じる必要もない。それもまた我が主を形づくる大切な心なのだから』
同源存在の言葉を聞いたラグナの脳裏に、不意に子供の頃の記憶がよみがえった。
――兄上、次は負けません!
――来い、弟よ。返り討ちにしてくれる!
それはまだアヤカと出会う前、互いの母が健在だった頃の記憶だ。興じていたのは駆けっこだったか、五目並べだったか、あるいは母たちと歌留多でもしていたのだったか。
くわしいことはおぼえていないが、ただ兄に勝ちたくて懸命だったことはおぼえている。怒りもなく、妬みもなく、幼い競争心に突き動かされて無心に兄に挑み続けた。
昔の話だ。記憶としては残っていても、同じ感情を抱くことはもうできない。現在のラグナと過去のラグナ。兄に挑むという点では同じでも、そこに込められた感情は雲と泥ほどに違う。
それでもその感情は、その心は、御剣ラグナにとって大切なものなのだとハルパーは言っている。
ラグナはささやくように問いかけた。
「……それがみじめな嫉妬だとしてもか、ハルパー?」
『うん。それが嫉妬だとしても、僕は我が主の心を守るために力を尽くそう』
その言葉と共に心装からかつてない力が流れ込んでくる。
いまだラグナの心身をとらえて離さない空への恐怖を押し流すほどに、その力は熱く猛々しかった。
『我が名はハルパー。魔を斬り、巨人を斬り、神を斬りしアダマスの鎌。主の行く手を阻むもの、そのことごとくを刈り取らん』
刈り取る者たる己を高らかにうたいあげたハルパーは、凛とした声音でラグナをうながした。
『行こう、我が主。僕たちなら竜だって刈り取れる』
その呼びかけにラグナは答えない。
答えるかわりに、強く、強く、ハルパーの柄を握りしめた。




