140話 鎧袖一触
ぞくり、と背筋が震えた。
それが恐怖によるものだと言われても御剣ラグナは決して頷かなかっただろう。だが、それはまぎれもなく恐怖による身体の震えだった。
抜刀はおろか心装を出してもいない相手に全力の一撃を防がれた。その事実を前にして、どうして慄かずにいられるだろう。
ハルパーの刃を受けとめた空の手は皮一枚傷ついていない。目を凝らすと、視認できるほどに濃密な勁の防壁が手を覆っているのがわかる。それも、ただ勁が濃いだけではない。空の防壁は上質な織物のように丁寧に勁が編み込まれていた。
息を呑むほどに繊細で緻密な制御技術。
先に南天砦で鬼人と戦っていたとき、空はこれほど巧みに勁を操ってはいなかった。勁量こそ膨大だったが、それを十全に生かしていたとは言いがたい。
実際、あのときの空は鬼人に対して終始後手にまわっていた。少なくともラグナはそのように判断しており、だからこそ今ならば自分にも勝機があると踏んでいたのである。
勁技の修得に心血を注いだのはそのためだ。勁量で及ばないのなら、勁技の冴えで相手を上回るしかない。必要なのは空に回復を許さず、一撃で切り殺す威力である。
そう決意して必死の努力で奥伝を修めた。
だというのに、空はその奥伝をこともなげに素手で受けとめてのけた。身体に傷ひとつ負っていないところを見るに、ひとつ前の乾の型も防がれたのだろう。
ゼノンとルキウスに請い、身をけずる思いで修めた奥伝は何の役にも立たなかった。
その事実を認識した瞬間、御剣家の嫡子の両眼に雷光が煌めいた。
「ふざけるな……ふざけるなあああああああ!!」
怒声と共にラグナの勁が膨れあがる。増大した勁は轟々と音をたてて荒れ狂い、圧力に耐えかねた大気が悲鳴をあげるように軋んでいる。
ラグナは激情に駆られるままに勁を放出しながら、ハルパーを握る手に力を込めた。
ハルパーの刃と空の防壁が火花を発してせめぎ合い、金属同士をこすり合わせるような異音が双方の鼓膜をかきむしる。
ラグナは力のかぎり心装を押し込んだが、どれだけ力を込めても空の防壁が揺らぐことはなかった。ラグナの勁が荒ぶれば荒ぶるほどに、空の勁は静まり返って微動だにしない。
その静謐な守りは、先に空と戦った鬼人のそれを思わせた。
「ぐぅ……ッ!」
空の牙城を崩せないと悟ったラグナは、ぎり、と奥歯を噛みしめる。相手の油断に乗じた絶好の機会だった。これ以上の好機は二度とおとずれないだろう。
だが、このまま接近戦を続けても埒が明かないのはすでに証明された。かといって、距離をとれば空に心装を抜く時間を与えることになる。そうなれば、もはや自分に勝ち目はない。
ラグナがそう考えたとき、一瞬だが視界にゼノンとルキウスの姿が映った。
あくまで勝利を求めるなら、ここでふたりに空の背後を襲わせるべきだった。相手は鬼人の走狗。卑怯などと考える必要はない。
だが、とラグナは思う。
それをよしとするのなら。ふたりに加勢させ、その結果として得られる勝利に意義を見出せるのなら、初めからひとりで戦ったりはしなかった。ここでゼノンたちを頼るような男に御剣家嫡子の資格があろうはずもない。
そう考えたラグナは、大きく舌打ちしながら地面を蹴った。空に心装を抜かせることを覚悟の上で、後方に飛んで仕切り直そうとしたのである。
この動きに対し、空の反応は素早かった。
「――ッ!」
かすかな呼気と共に空もまた地面を蹴る。ただし、ラグナが後方に飛んだのに対し、空が飛んだのは前方。
精緻な勁の制御が可能になったことで、空の防壁は見違えるように強固になった。当然、勁を用いた高速歩法にも同じことが言える。
「なに!?」
みるみる己に迫ってくる空を見て、ラグナが驚愕の声をあげる。とっさにハルパーを構えて迎撃しようとするラグナに対し、空は雷光のごとき速さでそのかたわらを駆け抜けた。そして、素早く相手の背後に回り込む。
瞬く間に背後を取られたラグナは、反射的にハルパーを振るって後ろにいる敵を切り裂こうとする。
しかし、心装が一閃した空間に空の姿はなかった。いったいどこに、とラグナが相手の姿を探そうとした次の瞬間。
トン、と。
青林旗士の羽織越しに、何か硬い物がラグナの背に押し当てられた。棒か、刀か、あるいは指先か。それはわからなかったが、ラグナはビクリと身体を震わせて動きを止める。
完璧な死角からの軽すぎる一撃。その気になればすぐにでも殺せる、という無言の警告であることは火を見るより明らかだった。
「空ぁ……!」
心装に対して素手で戦った上で、余裕に満ちたこの警告。油断などではない。己が空に手加減されていることを、ラグナは認めざるを得なかった。
それは御剣ラグナにとって何にも優る恥辱であり、屈辱であり、汚辱であり、侮辱である。たちまち顔中を朱で染めたラグナは、憤怒の感情に突き動かされるままに反撃に移ろうとする。
警告を無視したことで背後から刺されても構わない、と覚悟した上での行動だった。ラグナの背中に人差し指を突きつけていた空は、悪あがきをするラグナを静かに見据えながら拳を握りしめる。
――ゼノンとルキウスのふたりが戦いに割って入ってきたのはこの時だった。
「心装励起――咬み千切れ、オルトロス!」
漆黒の双頭刃が風を裂いて空へと迫り。
「心装励起――吼えよ、ネメアの獅子!」
人の背丈ほどもある幅広の大剣がうなりをあげて空に襲いかかる。
それは奇襲と言ってよかったが、ふたりの目的は空を討つことではなく、空とラグナを引き離すことにあった。クィントス家の父子の目には、空に背後をとられたラグナが今にも殺されそうに見えたのだ。
ラグナは奥伝を修得して八旗の将となる資格を得たが、資格を得て間もないラグナと、将として年単位の経験を積んだゼノンたちとの間には小さくない力量のひらきがある。
そのことを瞬時に判断したのか、空は迫り来るふたつの心装を素手で受けとめようとはしなかった。あっさりとラグナから離れると、ゼノンたちと距離をとって向かい合う。
ルキウスはそんな空の動きを注視しながら、空とラグナを結ぶ直線上に立ちはだかった。父のゼノンはすぐさまラグナに駆け寄り、案じるように声をかける。
「若、ご無事ですか?」
ゼノンの問いかけを受けたラグナは唸るような声で応じる。
その目に助けられた安堵や感謝はなく、ただ射るような鋭さだけがあった。
「ゼノン、邪魔をするな! 奴とは俺が戦うと言ったはずだ!」
「若、もうおわかりでございましょう。今の若ではあの者に及びませぬ」
諭すような口調で告げるゼノンを見て、ラグナが両の眉を吊りあげる。
ゼノンは相手の怒気を正面から受け止めた上で、首を左右に振って言葉を重ねた。
「若もすでにそう感じ取っておられるはず。これ以上、若をおひとりで戦わせるわけには参りませぬ。ご料簡くだされ」
「ぐ……!」
ラグナは何かを言おうと口をひらきかけ、しかし、何も言えずに口をとざす。
納得していないことは明らかだった。不満も色濃く残っている。それでも、ラグナはそれ以上自分が戦うとは言わなかった。
そのことを確かめたゼノンは、内心で胸を撫でおろしながら空へと向き直る。
ゼノンたちが話している間、空はまったく動こうとしなかった。ルキウスと対峙していたから動けなかったのか、あるいは初めから動くつもりがなかったのか。
後者だとしたら、空の目的はラグナとの力の差を見せつけることにあったのかもしれない。
誰に見せつけるのか? もちろん御剣家、なかんずく当主の式部にである。あえて危険を冒して素手で戦ったのも、御剣家に帰参し、嫡子の座を取り戻すための布石だと思えば得心がいく。
ゼノンが鋭い視線で空を見据えると、その視線に応じるように空が口をひらいた。
「次はお前たちか?」
「いかにも。かつての主筋とはいえ、鬼人に屈した者に情けはかけませぬ。若と戦うことで力を証明して御剣家に帰参し、いずれは嫡子に戻る腹づもりだと推察しますが、それは不可能であると申し上げておきます」
それを聞いた空は驚いたように目を丸くする。
そして、ハッと鼻を鳴らして嘲りをあらわにした。
「帰参だ嫡子だとあほらしい。まだ俺が御剣家に未練があると思っているのか? そんなつもりはないと、前回の墓参りのときに言っておいたはずだがな」
「それを信じろと? では、どうして危険を冒してまで若と素手で戦われたのですか」
「ああ、それで勘違いしたのか。ラグナを傷つければ御剣家の恨みを買う。だから、あえて素手で戦った。敵である御剣家に配慮したのは、いずれ帰参するための布石であると思い込んだわけだ」
正確に意中を読まれたゼノンが無言で空を見返す。
空はあきれたように肩をすくめ、ゼノンとルキウス、そしてラグナを等分に見やった。
「見当違いも甚だしい。俺が手加減したのは、エマ様に息子の仇として恨まれたくなかったからだ。それ以外の理由はない」
そう言うと、空はニィと唇の端を吊りあげた。
そのまま両の拳を握りしめ、腰を落とし、臨戦態勢をとる。
「言っておくが、傅役とその息子にまで手加減してやるつもりはないぞ。自分たちも手を抜いてもらえるなどと期待するなよ、クィントス」
挑発するように家名を口にする空を見て、ゼノンはスッと目を細めた。ルキウスも眉根を寄せて不快そうに空を睨んでいる。
ゼノンは毅然とした面持ちで言った。
「もとより、我らも外れ者に手加減を願うつもりはありませぬ。また、その必要もありませぬ。遠慮なくかかってまいられよ。クィントス家の武の真髄、増長に曇った眼に刻み付けてさしあげる」
「それではお言葉に甘えて、遠慮なく行くとしよう」
無造作に言い放った空は、言葉どおりルキウスに向かって躍りかかる。ラグナと戦ったときのように心装を出さず、腰の刀も抜かず、素手のままで。
ラグナとの戦いと違う点を挙げるとすれば、それは空の口が三日月の形にひらかれていたことだった。
――速い。
肉薄してくる空を見て、ルキウスは警戒の念を高める。だが、慌てることはなかった。速くはあっても捉えられないほどではない。
事実、ルキウスは突きこまれてきた空の右の拳を正確に心装で受けとめた。これで空は双頭刃の間合いに入ったことになる。後は息もつかせぬ連続攻撃で追い詰めるのみ。そう考えて反撃に移ろうとしたルキウスの耳に、ささやくような空の声が響く。
「四劫の三――『壊』」
次の瞬間、ルキウスが感じた衝撃はこれまで経験したことのないものだった。百本の鉄の棒をまとめてねじ切ったような轟音が鼓膜を貫き、心装を握る両手に凄まじい圧力がかかる。
いや、両手だけではない。心装そのものにもおぞましいほどの力が加えられていた。悲鳴のような音をたてて双頭刃が軋んでいる。それはルキウスの同源存在オルトロスがあげる悲鳴であり、同時に、ルキウスの魂がひび割れていく音でもあった。
「ぐ……があッ!?」
反撃どころではない。ルキウスはとっさにその場を飛びのき、空から距離をとろうとした。このまま空の拳を受け続けていれば、心装が砕かれてしまうと悟ったからである。
むろん、空がその動きを見逃すはずもない。地面を蹴った空は瞬く間にルキウスに肉薄し、今度は左の拳を打ちこんだ。
心装で受けとめるのは危険と判断したルキウスは、右手を心装の柄から離して相手の拳を受けとめる。直前の衝撃はまだ身体から去っていなかったが、ルキウスは仮にも青林八旗の副将を務める身。多少の動揺で勁が乱れることはなく、防壁は十分な強度を保持している。
ルキウスは問題なく空の拳撃を右手で受けとめることができた。拳に込められた勁は、ルキウスの防壁を打ち砕くほどの威力を持っていない。防いだ、とルキウスは確信した。
――防いだ、はずだったのに。
ぞくり、とルキウスの背筋が震えた。防いだはずの攻撃が、ぬるりと身体の中に滑り込んでくるのを感じ取ったのである。かつて感じたことのない悪寒に全身の毛という毛が逆立った。
直後。
「ぐおあああああッ!?」
勁打によって右手の骨を粉砕されたルキウスの口から、吼えるような苦悶の声がほとばしった。