138話 嫡子として
御剣邸の大広間は異様なざわめきに包まれていた。
上座には当主である式部が座り、そのかたわらには双璧の一角たるディアルト・ベルヒが控える。他にも司馬、司空、司徒、司寇の四卿、青林八旗の旗将副将、さらには各旗の上位旗士が残らず参集している。
いずれも御剣家の文武の要と言える者たちだ。その彼らの視線を一身に浴びているのは、本来ならディアルトと共に当主のかたわらに控えていなければならない双璧のひとり、第一旗の副将 九門淑夜だった。
今回の急な招集は淑夜の求めに応じて式部が命じたものだったのである。
自らの要請で集まった同輩たちを前に、淑夜は招集を望んだ経緯を説明した。事の起こりは先の嫡子である御剣空が南天砦を訪れたこと。中山という鬼人の王国の使者を名乗った空は、淑夜に対して次のように告げた。
――御剣家はただちに中山に鬼門を明け渡すこと。しからずんば中山は全戦力をもって鬼門に攻め込むであろう。御剣家におかれてはくれぐれも熟慮されたし。
それが空のもたらした鬼人たちの要求だった。
淑夜の口からそのことを聞いた旗士たちはあいた口がふさがらなかった。あまりと言えばあまりの内容に、歴戦の旗士たちがそろって声を失っている。
もちろんそれは恐怖ゆえでも驚愕ゆえでもない。あまりの馬鹿らしさに呆れかえったのである。皇帝から鬼門の守りを任された御剣家に対して鬼門を明け渡せとは! しかも、よりによって相手は鬼人である。あのディアルトさえわずかに眉をあげていた。
と、そのとき。
「く、くく……くはははははは!!」
轟くような哄笑が大広間に集まった者たちの耳朶を震わせる。人々が驚いてそちらを見れば、そこには珍しく大口をあけて笑う司徒ギルモアの姿があった。
周囲の視線に気づいたギルモアはわざとらしく咳払いし、非礼を詫びるように式部に向けて頭を下げる。
ややあって顔をあげたギルモアは、周囲の旗士たちに語りかけるようにゆっくりと口をひらいた。
「これはしたり、空殿のあまりの愚かしさに思わず笑いがこぼれてしもうたわ。しかし諸卿よ、笑うしかないとはこのことだと思われぬか? 鬼人が鬼門を狙うのは今に始まったことではない。中山とやらの要求は取るに足らぬが、それでもまだ理解はできる。だが、仮にも御剣宗家の引く御仁が、鬼人の走狗となって我らに鬼門の明け渡しを求めるとは!」
ギルモアは大仰に天を仰ぐと、唇を歪めてニタリと笑い、近くに座すゴズ・シーマを見やった。
「恥知らずとはまさに空殿のためにある言葉よ。いったいどのように育てればこれほどの愚行を犯すことができるのか、それがしには想像もつかぬ。傅役の責任は重いと言わざるを得ぬぞ、司馬殿」
「……」
「傅役だけではない。このところ空殿の帰参を求める者たちがいると耳にしておるが、いやはや、望んで鬼人の走狗に身を堕とした者を御剣家に迎え入れようとは、実に見事な慧眼と言わねばなるまいて!」
ギルモアの嘲弄を聞いて幾人かの旗士が悔しげに視線を落とす。彼らの目にはギルモアに対する不満と、空に対する失望が同時に見てとれた。
ギルモアの言うとおり、ベルヒ家を危険視する者の中には、空を嫡子の座に戻すことでギルモアの権勢をそぎ落としたいと考える者もいた。だが、その企みは今回のことで水泡に帰したと言ってよい。
何故といって、どれだけベルヒ家を嫌っている者であろうとも、鬼人族と手を組んだ空を担ごうとは思わないからだ。青林旗士にとって滅鬼封神は鉄の掟なのである。
クリムト、クライアへの策謀が表沙汰になって以来、周囲から冷眼を向けられていたギルモアにとっては笑いが止まらない状況だった。まさか空が御剣家にとって不倶戴天の敵である鬼人族に従うとは。
筆舌に尽くしがたい愚行であり、正直なところ、ギルモアも呆気にとられてしばらく声が出なかったほどである。
この愚挙により、家中で高まりかけていた空への評価は地に落ちた。今後、嫡子に返り咲くことはもちろん、御剣家へ帰参することも決してないだろう。当然、ラグナの地位が揺らぐこともなく、ベルヒ家の権勢はこれまでどおり維持される。
――いや、維持だけでは足りぬのう。
ギルモアは内心で舌なめずりしながら頭の中で策をめぐらせる。空が鬼人族の走狗となった。この事実はもっと大きく利用するべきだ。
たとえば、そう、空が鬼人族の走狗となったのは、鬼人の力を利用して御剣家に返り咲くためであったとしたらどうだろう。そして、御剣家内部に空の協力者がいるのだとしたら。
ゴズ・シーマ、モーガン・スカイシープ、さらにベルヒ家を嫌って空の帰参を願っていた旗士たち。そういった者どもを「鬼人の協力者」に仕立て上げて始末する絶好の機会ではないか。
青林旗士の犯罪を取り締まるのは司寇の役割であり、その司寇はベルヒの人間だ。罪などいくらでも拵えることができるのである。
ギルモアはギラリと目を光らせて言葉を続けようとする。
だが、ここでゴズが怒気を押し殺した声で口を挟んできた。
「待たれよ! 空殿が心底から鬼人に従ったとはかぎるまい。行方知れずになったクリムトを助けるため、心ならずも鬼人に協力しているだけかもしれぬ」
それを聞いたギルモアは一瞬舌打ちしそうな顔をしたが、すぐに表情をあらためてゴズを見る。
その顔には粘りつくような笑みが張りついていた。
「ほう、ほうほう、なるほどなるほど。つまり司馬殿は、空殿が人質をとられて止むをえず鬼人に従っていると申すのだな? 空殿には鬼人から人質を救い出す力量がない。人質ごと鬼人を斬る覚悟もない。人質を盾にされ、なす術なく鬼人の言うことに従っている惰弱者。それこそが御剣空であると、傅役であるそなた自身が認めるのだな?」
わざとらしく、また嫌みたらしく問いかけてくるギルモアに対し、ゴズは唇を真一文字に引き結ぶ。ゴズ自身、無理がある擁護だとわかっていた。どのような理屈をこねたところで、鬼人に屈した空の行動を正当化するのは不可能だ。
そんなゴズを見かねたのか、ここで新たに口をひらいた人物がいた。
「司徒殿、ちと言葉が過ぎるのではないかな。いかに傅役とはいえ、成人した者、しかも五年以上島を離れていた者の行動に責任を取れというのは無体であろう」
穏やかな口調でそう言ったのは、四卿のひとりである司空シモン・ガウスだった。
シモンは青林旗士としての才能、功績は凡庸の域を出ないが、当主である式部に公正篤実な人柄を買われて長く司空の職を任されている。
また、シモンは家中の勢力争いとも距離をとっており、親ベルヒ、反ベルヒ、いずれにも与さず中立を保っていた。
そのシモンが論戦に割って入ってきたのを見て、ギルモアは表情をあらためる。
シモン本人も、ガウス家も、ギルモアおよびベルヒ家にとって脅威となる相手ではない。しかし、だからといってシモンを軽んじることはできなかった。
というのも、シモンはもうじき司空を引退する意向を示しており、ギルモアはその後釜にベルヒ家の人間を送り込もうとしているからである。
四卿の任命は当主の専権事項であるが、前任者の推薦も無視できない影響力を持つ。ギルモアとしては、ここでシモンの心証を害することは避けたかった。
それゆえ、圭角が声にあらわれないよう注意しながらシモンに言う。
「司空殿、余のことなら知らず、御剣家の人間が鬼人族に屈したのですぞ。傅役の責任を問うことを無体とは思いませぬな。それに、此度のことが空殿ひとりの思い立ちであると考えるのは早計。空殿のように鬼人に通じた者どもが家中におらぬか、司寇の詮議が必要であると考える」
「司徒殿。空殿は鬼人の使者であり、その後ろには鬼人の主力部隊が控えていると思われます。いわば今は軍議の最中。傅役の責任や内通者の詮議については後刻あらためて場を設けるべきではありませんか?」
「む」
シモンの言葉はギルモアの主張を否定せず、ただ先送りするものであった。
問題の先送りはギルモアの望むところではなかったが、ここでシモンの意見を一蹴し、中立の人間をゴズやモーガンの陣営に追いやるのは愚かであろう。それに、シモンの意見にも一理ある。反ベルヒの連中は鬼人族を撃退した後でゆっくり始末しても間に合うのである。
そんなギルモアの考えを読み取ったわけでもあるまいが、それまで黙って話に耳を傾けていたゼノン・クィントスが声をあげる。ゼノンの視線の先には九門淑夜の姿があった。
「たしかに司空殿のおっしゃるとおり、鬼人の軍勢の対処は必要であろう。が、その前にひとつはっきりさせておきたいことがござる。空殿は――御剣宗家の血を引きながら鬼人に屈した愚か者は今どこにいるのですかな? すでに淑夜殿が斬って捨てたのならともかく、生きているのであれば早急に処罰するべきと存ずる」
「古来、使者に手を出さないのは武門のならいでしょう。先の御曹司は南天砦で控えてもらっています。彼が鬼界で何を見たのか、何をしたのか、そして僕たちに何を語るのか。いずれも耳を傾ける価値があると考えています」
それを聞いたゼノンは大仰に驚きの表情を浮かべた。
「これは驚いた。我ら御剣家に鬼門を明け渡せなどとぬかす狂人の言葉に価値がある、と淑夜殿はおっしゃるのか?」
「ええ、そのとおりです」
明らかな皮肉を込めたゼノンの言葉を、淑夜は涼しげに受け流す。
それを聞いたゼノンは怪訝そうに目を細めた。
家中で空の評価が高まり、相対的にラグナの評価が下がっていく現状に苦慮していたゼノンにとって、今回の空の行動は僥倖以外の何物でもなかった。
なにせ自分が何もしていないのに、空が勝手に己の評価を地に落としてくれたのである。この機会に家中における空の存在を完全に消し去ってしまいたい。ゼノンはそう考えた。そうすれば、今後空の帰参を求める者も、嫡子の交代を唱える者もあらわれないだろう。
そう思って処罰を匂わせながら空の居所をたしかめたところ、思いがけず淑夜が空を評価する言葉を発した。
ゼノンが知るかぎり、淑夜個人にも、また九門家にも空とのつながりはないはずである。いったいどういうことか、と不思議に思いながらゼノンは言葉を続ける。
「淑夜殿がそう考えるに至った理由を説明願えますかな。空殿の行いを知った今、何の根拠もなしに彼の者の言葉に価値があるとおっしゃられても首肯しかねる。それがしだけではない。他の者たちも同じ気持ちでござろう」
「ええ、もちろんです」
淑夜はそう言うと、式部に目を向けた。
「御館様、よろしいでしょうか?」
「うむ」
淑夜が何かの許可を求めると、それまで黙って配下の発言に耳を傾けていた式部が無造作にうなずいた。
主君の許しを得た淑夜は、かたわらに置いてあった刀を手にとる。
柄にも鞘にもこれといった特徴のない地味な刀。青林旗士は床に座る際、腰に帯びていた刀をかたわらに置く。この場にいる旗士たちは、今の今までその刀を淑夜の佩刀であると思い、誰も注意を向けていなかった。
だが。
「御前、失礼いたします」
淑夜がそう言って刀を鞘から抜き放つや、感嘆のざわめきが大広間を満たした。
青々と深みのある地鉄、鏡のような光沢を放つ刀身。精妙な刃文は妖しいまでに美しく、それでいて厚みのある刃が無骨な力強さを伝えてくる。
間違っても観賞用の武器ではない。ただただ実戦のために鍛えられた戦場の刀。極限を追求した造形は、あたかも刀それ自体が覇気を宿しているかのように雄々しかった。
たとえ剣士でなくとも、この刀を見れば目を奪われてしまうだろう。まして剣士であれば否応なしに惹きつけられる。
ゼノンも例外ではなく、食い入るように淑夜が持つ刀を見つめる。これほどの宝刀はそうそうお目にかかれるものではない。これに匹敵する刀は――そこまで考えたとき、ゼノンはあることに気がついて目を瞬かせた。
「それは、御館様の笹雪では……?」
御剣式部の佩刀。歴代の御剣家当主が伝えてきた家宝の名をゼノンは口にする。
自然、その視線は主君に向けられたが、主君のかたわらには笹雪が鎮座している。必然的に淑夜が持っている刀は笹雪ではない。
ならば、御剣家の家宝とうりふたつのこの宝刀はいったい何なのか。
淑夜はゼノンに、そしてこの場に集まったすべての旗士に告げるように宝刀の銘を口にした。
「この刀の名は笹露。かつて笹雪と共に御剣家に伝えられていた二振りの宝刀のひとつです」
「そのような刀、聞いたことはありませぬが……淑夜殿の九門家には伝わっていたのですかな?」
「そのとおりです。九門家の史書によれば、笹露は三百年前の戦いで失われたはずでした。ですが、空殿はこの刀を鬼界の最奥で見つけ出したそうです。そして三百年前の真実を知るに至り、鬼人に協力することを決意した、と言っておいででした」
それを聞いたゼノンは胡乱そうに「真実?」とつぶやいた。
そして同じ表情を淑夜に向ける。
「それがしには戯言としか聞こえぬが、淑夜殿はそれを信じられたわけだな」
「ええ」
「それが鬼人に屈した者の言葉でも、ですかな?」
ゼノンが問うと、淑夜は少し困った顔で、それでもはっきりとうなずいた。
むろんと言うべきか、淑夜は空の言葉を証拠もなしに信じるほどお人よしではない。空が笹露を持ってきただけなら疑念を挟む余地もあった。
だが、空は御剣の歴史から消えた笹露の使い手――御剣仁の名前を口にした。それは淑夜が九門家の当主になり、九門家の初代当主の遺言を聞かされたときに初めて知った名前だ。空がどこで、どうやって仁の名前を知ったのかはわからないが、少なくとも口から出まかせを言っているわけではない。淑夜はそう確信したのである。
淑夜は式部に対し、自身の考えをはっきりと告げた。
「御館様。先の御曹司が鬼界で何を知り、何故鬼人に与したのか。それを確かめるためにも、先の御曹司をこの場にお連れするべきであると存じます。もし愚にもつかぬ戯言を吐くようであれば、それがしが責任をもって斬り捨てましょう」
それを聞いたギルモアやゼノンが何事か言いかけたが、式部の返答はそれよりも早く、そっけないほどあっさりしたものだった。
「よかろう、淑夜。空を連れて参れ」
「ありがたき幸せ。それでは早速、先の御曹司をお連れいたします」
淑夜がそう言って立ち上がると、ギルモアもゼノンも不承不承ながら口をつぐんだ。一度当主が決断を下した以上、臣下の身で抗弁することはできない。
他の旗士たちも同様に口を閉じる。それゆえ、その声は誰に遮られることもなく、大広間にいるすべての人間の耳に響きわたった。
「御館様――いえ、あえて父上と呼ばせていただきます」
そう言って第三旗の列から進み出たのは御剣家の嫡子であるラグナだった。
御剣家の衆議で発言する権利を持っているのは、当主を除けば四卿と八旗の将だけだ。嫡子といえどもラグナに発言権はない。
とっさにゼノンやルキウスが止めようとするが、ラグナは勁烈な視線でふたりの制止を拒み、式部の前に進み出た。
「父上、鬼人の使者を迎える役目はどうかそれがしにお任せください。御剣家の嫡子として不足なき働きをお約束いたします」
火を吹くような眼差しで父を見据えるラグナ。猛る感情が兄に対する隔意から来ていることは明らかであり、この場にいる旗士のほとんどが、父に無礼を咎められて引き下がるラグナの姿を幻視した。
だが、その推測は外れる。式部はラグナに下がれとは言わず、覚悟を見定めるように問いかけた。
「御剣家の嫡子として――その言葉に偽りはないな、ラグナ?」
「は! むろんでございます!」
「よかろう。ならば淑夜に代わってそなたに命じる。嫡子たるの礼節をもって空を連れて参れ」
淡々と告げる式部の声を聞き、ラグナは顔中に英気をみなぎらせる。
父が自分の意図を汲んでくれた、と信じた。
「かしこまりました! 必ずやご期待に沿ってみせましょう」
ラグナは一礼すると、邪魔が入らないうちにと考えたのか、足早に大広間を出ていく。
「御館様」
「それがしたちも」
次いで、ゼノンとルキウスが同時に声をあげてラグナへの随従を願い出ると、式部はこれもあっさりと認めた。
三旗の旗将と副将が並んで大広間を出ていくのを見送った淑夜は、顔に困惑を浮かべながら主君に問いかける。
「……御館様、よろしいのですか?」
「かまわぬ」
応じる式部の顔に感情の揺れは感じられない。
だが、長年式部に近侍してきた淑夜は、今の主君がかつてないほどに上機嫌であることをはっきりと感じ取っていた。