130話 逃がさない
大鎌から手を離した教皇が左右の手でしっかりと俺の両手を握りしめている。
とっさに振り払おうとしたが、驚くほどの膂力で押さえ込まれた。
罠、という単語がいやおうなしに脳裏をよぎる。こちらの勁技を払いのけた際に見せた隙は、俺を誘い込むためにあえてつくったものだったのか。だとしたら、俺はまんまと向こうの思惑に乗せられたことになる。
そう思って内心で舌打ちしたとき、教皇の口が動いた。
「今の勁技――強螺、と言いましたか?」
「……言ったが、なんだ」
「幻葬一刀流にそのような勁技は存在しません。幻想一刀流にもなかったはず。察するに、あなたが自分で編み出した勁技なのでしょう」
教皇は淡々と言葉を続ける。今まさに心装で胸を貫かれているというのに、その顔には苦痛の片鱗さえ浮かんでいない。
一瞬、眼前の教皇が幻影か何かなのかと勘違いしかけたが、それはありえないのだ。何故といって、こうしている今も心装を通じて教皇の魂が流れ込んでいるからである。
魂が喰える以上、目の前にいる教皇は本物だ。そして、幻想種に匹敵する魂の量からして、いつの間にか影武者と入れ替わったという可能性もない。
にもかかわらず、教皇の言動に乱れはなかった。その事実に警戒の念を強めていると、向こうはなおも言葉を重ねてくる。
「剣と勁の調和はおろか、心技体の調和すらとれていない者が放てる勁技ではありません。それなのにあなたは放つことができた。見事と言う他ありません」
「幻想一刀流の初歩に無理やり勁を乗せただけだがな」
「只人であれば、無理やり勁を乗せて威力を高めるだけでも至難の業。ましてや、忌まわしき竜の力を乗せて勁技を昇華させることの困難さは言をまちません。それは竜が吐く炎で卵を美味しく焼くようなものです」
えらく日常的なたとえを持ち出して褒めてくる教皇を見て、俺は眉をひそめる。先ほどの「年の功」発言もそうだが、光神教の教皇はときおり妙な諧謔を口にすることがある。
むろん、この程度で毒気を抜かれたり、ましてや攻撃の手を緩めることはない。心装は今なお教皇の胸に突き立てられたままであり、魂の流入は止まっていない。
俺が教皇のおしゃべりに付き合っているのは、向こうの魂を完全に喰い尽くすまでの時間をかせぐためであった。
もっとも、その程度のことは教皇も承知しているに違いない。魂を喰われていることに気づいていない、なんてこともないだろう。にもかかわらず、教皇は俺の手を握りしめたまま、愚にもつかない話に興じている。
――本当に何を考えているのだか。何を考えているにせよ、もう打つ手はないはずだが。
何度目のことか、俺は内心で首をひねる。
すでに教皇から喰らった魂の総量はヒュドラのそれを超え、ベヒモスの域に達しつつある。教皇の魂にアズライールの分が加算されているとしても、もうじき限界がおとずれるはずだった。
だが、来るはずの限界はいつまで経ってもおとずれない。俺の両手を押さえ込む教皇の力は寸毫も衰えず、流入してくる魂の量に至っては減少するどころか増加しつつある。
その理由は教皇の背後にいる龍だった。
龍から教皇に向けて、これまで以上に膨大な魔力が流れ込んでいるのが感じられる。
俺は小さく舌打ちした。
龍の魂の総量がどれほどのものかは知らないが、教皇の様子を見るかぎりまだまだ余裕がありそうだ。だとすると、両手と心装を押さえ込まれている今の体勢は非常にまずい。そう考えた俺は再度教皇の手を振りほどこうとした――が、やはり教皇の手は動かない。
そんな俺を見て、教皇は口元に笑みを浮かべた。
「逃がさない。三百年、この時を待ったのですから」
その言葉に賛同するように龍が高らかに吼える。二度目の龍の咆哮。
俺は奥歯を噛んで咆哮の威圧に耐えながら教皇の動きを注視する。どれだけ龍の魂が膨大であろうと、心装で胸を貫かれたままではどうにもならない。龍の力が衰え、俺の力が増すだけである。
したがって、どこかのタイミングで教皇は動くはずだった。俺はその瞬間を正確に捉え、即座に対応しなければならない。
ゆえに俺は待った。
一向に動かない教皇の胸に心装を突き立てたまま待った。
無限とも思える龍の魂を存分に喰いながら待った。
たまりかねた龍がさらに三度の咆哮を放っても待った。
多量の魂を喰われた龍が苦しみのたうつように身体をくねらせても待った。
多量の魂を喰った俺が二度ばかりレベルアップしても待った。
龍の口から発されるのが咆哮ではなく絶叫に変わってからもなお、俺は教皇が動くのを待ち続けた。
――それでも教皇は動かなかった。
さすがにこの頃になると、不敏なる身にも洞察力が芽生えていた。
教皇の狙いは俺ではなく龍なのではないか。先ほどの「逃がさない」という言葉は、俺ではなく龍に向けられたものだったのではないか、と。
教皇は神格降臨で龍とつながっている。そして両者がつながっているかぎり、教皇への攻撃は龍への攻撃と同義になる。魂喰いに関しても同様だ。
先刻から教皇が俺の手を押さえて離さないのは、そうすることで自分と龍を諸共に葬るつもりだから。そう考えれば教皇の不自然な行動にもいちおうの説明がつけられる。
実を言えば、この考え自体はもっと早くに思い浮かんでいた。
ただ「敵だと思っていた相手は実は味方だったのでは?」などという都合の良い考えに従って動けば、どんな不覚をとってしまうか分かったものではない。また、俺にそう思わせることが教皇の狙いである可能性もあった。
だから、俺は自分の疑念に蓋をして教皇の魂を喰い続けた。
こうしている今も教皇は心装で胸を貫かれ、魂を喰われ続けている。人間であれ、不死の王であれ、とっくに死んでいなければおかしい致命傷だ。
それでも教皇が生きているのは龍とつながっているからだが、逆に言えば、教皇は龍が滅びるまで死ぬことができないということでもある。負傷にともなう苦痛を龍が引き受けているとも思えない。死ねない身体で死に至る傷を受け続けることの苦痛と苦悶はどれほどのものか、想像したくもなかった。
それでもここで心装を引き抜くことはできないし、そのつもりもない。なにより教皇がそれを許さない。今も変わらず俺の両手は、万力のごとき教皇の手によってしっかりと握りしめられたままなのである。
そうしているうちに、教皇の身体を覆っていた無数の目や耳、口が消え始めた。背中から生えていた四枚の黒い翼もだ。それは幻想種の力が教皇から失われたことを意味していた。
「お前――いや、あなたは……」
互いの息遣いが聞こえる距離で向き合いながら、俺は教皇に困惑まじりの声を向ける。
幻想種の力が消えた今、教皇に俺と戦う力は残っていない。罠である可能性は消えたと見て間違いないだろう。
そう思って口をひらいたものの、自分が殺そうとしている相手に真意を問いかけることに何の意味があるのか。そんなためらいが口から出かけた言葉を押しとどめる。
そんな俺に気を遣ったわけでもあるまいが、教皇がゆっくりと口をひらいた。
「先ほども申し上げましたが――見事です、空様。仁様が編み出し、一真様がつないだ反逆の刃はたしかにあなたの中に宿っている。おふたりも草葉の陰で喜んでいらっしゃるでしょう。そして、ごめんなさい。私たちが務めを果たせなかったばかりに、あなたたちに苦難を強いてしまったことを心から申し訳なく思います」
その言葉の内容に驚きを禁じ得なかった。今の教皇は先ほど剣を交えていたときはもちろん、姉弟子を名乗って言葉を交わしていたときとも明らかに違う。
包容力を感じさせる柔らかい声音。こなたを見やる目に先刻までの濁りはなく、澄んだ夜空を思わせる色合いが見る者を惹きつける。
なんとなく、本当になんとなくだが、思った。
今、俺の前に立っている人物こそ、三百年前、幻葬の志士として戦ったソフィア・アズライトその人なのだろう、と。
その真偽をたずねる間もなく教皇――ソフィアは言葉を続ける。わずかに早口だったのは、自分に残された時間があとわずかしかないことを悟っているためか。
「空様、どうかご油断めさらぬよう。此度、あなたが倒したのは三百年前の滅びの残滓にすぎません。今代の滅びはすでに神子を得て動きはじめています」
「それは――」
誰のことなのか、という問いかけを俺は寸前で飲み込んだ。ソフィアの身体の輪郭が崩れ始めたことに気づいたからである。
以前、不死の王であるシャラモンを倒したとき、奴の身体は風に吹かれた灰のように宙に散った。おそらく教皇にも同じ末路がおとずれる。
であれば、こちらの疑問よりも向こうの言葉を優先すべきだろう。理由はどうあれ、眼前の相手を殺したのは俺なのだ。三百年の長きにわたって在り続けた、最後の幻葬の志士の言葉を聞き届けるのは、他の誰でもなく俺の役割であるはずだった。
「どうか健やかにお過ごしください。愛する女性と添うて暮らし、子をなし、老いを重ね、土に還る。人としての当たり前の生を全うしてくださいませ。戦に果てることなく、毒を飼われることなく、龍に呑まれることなき生を、御身に。この身はただそれのみを乞い願っております……」
言い終えるや、ソフィアの身体は溶けるように宙に消えた。まるでソフィア・アズライトなど初めからいなかったとでも言うかのようなあっけない消滅に、世界の悪意を感じたのは果たして気のせいであったのか。
ソフィアの言動が不安定だったのは、龍を信奉しながら龍の消滅を望むという背反を胸に抱え込んでいたからかもしれない。ただ、相手は仮にも神と呼ばれる存在だ。ソフィアの背反に気づかなかったとは考えにくい。それでもソフィアが志士としての己を残せた理由は……
――壊れたから残せたのか、あるいは、残すために壊れたのか。
ふとそんなことを考えた俺は、すぐにかぶりを振って今の思考を脳裏から払い落とした。今となっては確かめようもない疑問である。
ソフィアの消滅と時を同じくして、龍もまたその身体を失いつつあった。
ソフィアのように宙に溶けたわけではない。龍の巨躯は龍穴の中に呑み込まれようとしていた。蛇が巣穴に帰ろうとしているようにも、あるいは龍穴が龍の身体を喰らおうとしているようにも見える。
このとき、龍の口から発された最後の絶叫が戦いの終結を告げる合図となった。




