128話 呪い
御剣空、と教皇は俺の名を口にした。
その目はひたと俺を見据えて動かない。先刻までのように、俺を通してここにはいない誰かを見る目つきではない。それは御剣空という個人をしっかりと認識している眼差しだった。
ある意味、俺は今はじめて教皇ソフィア・アズライトと対峙したのである。
深い闇を湛えた教皇の双眸に見つめられ、自然と心が張りつめる。
幸い、先刻の秘剣によるしびれはほとんど消えている。いつでも戦闘を再開することは可能だった。
慎重に相手との間合いをはかっていると、教皇がからかうように口をひらく。
「もっとも、龍があなたに気づかないのも無理からぬことです。他ならぬあなたが自分の力に気づいていないのですから」
「……さっきから何を言っている?」
我知らず眉根を寄せる。つい先ほどまで、まがりなりにも会話できていた相手と急に言葉が通じなくなってしまった気がする。
正確に言えば言葉が通じなくなったわけではない。教皇が何を言っているのかは分かる。何を言いたいのかが分からないのだ。
いっそ無視してしまってもいいのだが、俺の中の何かがその選択肢を否定する。結果として、俺はただ相手を警戒することしかできなかった。
教皇はそんな俺を見て目を細める。
「先ほど剣と勁の調和について述べましたが、それと同じく、いえ、それ以上に幻葬一刀流を極めるために大切なものがあります。心技体、すなわち精神と技術と身体の調和です。人間とは不思議なもので、心から勝てると思って挑めば、格上の相手にも勝機を見出すことができます。番狂わせを起こすのはいつだって自分を信じている人間なのです」
逆に自分を信じられない人間は、ときに実力の半分も出せずに格下相手に敗北する。
鍛えた身体とつちかった技術を十全に発揮するためには、安定した精神が――自らを信じる心が欠かせない。そう語った教皇は、ここでぴっと人差し指を立てた。
「ひとつ誤解を解いてさしあげましょう。先刻から見るに、あなたは私のことを格上の相手と認識しているようですが、そんなことはありません。こうして鎌ではなく口を動かしているのは何のためだと思います? それは三形一象の勁技を放ったことで空になった勁を回復するため。ようするに私は時間稼ぎをしているのです」
「なに!?」
「剣と勁の調和なくして型を放つことはできない。当然ですが、これは私にも同じことが言えます。同源存在を持たぬこの身が幻葬一刀流を使うためには、自身の力、不死の王の力、幻想種の力、それらすべてを絞りつくさなければならなかったのです」
その証拠に、と言って教皇は己の身体を指し示した。無数の目、耳、鼻がうごめく異形の身体は先刻と変わっていない。
だが、よくよく見れば、こちらを見据える幻想種の目に出現時ほどの力感はないように思えた。考えてみれば、アズライールも最初の名乗り以降は何もしゃべっていない。それだけ消耗している、ということなのだろう。
教皇はさらに言う。
「アズライールの口を使って複数の魔法を同時詠唱し、釣瓶打ちにすることもできました。けれど、あなた相手では勁の無駄使いにしかならない。そう思って勁技にすべてを注ぎ込みました」
「……何が言いたい?」
「つまり、私は初手で最後の切り札を出したということです。そうしなければ、私はあなたとまともに戦うことができなかった。今のあなたはその域に達しているのです。その様子ではまったく気づいていなかったようですね」
教皇は真剣そのものといった表情でそう告げた。
それを聞いた俺は思わず顔をしかめる。
たしかに教皇の言うとおり、俺は向こうがかなり余裕をもって戦っていると思っていた。もっと言えば、実力の半分も出さずに片手間でこちらをあしらっているとすら感じていた。
なにせ俺の目から見れば、教皇は不死の王の力も幻想種の力も使わず、ただ己の勁技のみで戦っているように思えたから。
しかし、実際には教皇は俺の予想よりはるかに真剣に、かつ全力で戦っていたらしい。
そのこと自体はありがたい。正直なところ、今のままでは勝ちの目がまったく見えないと思っていたので。
問題はどうして教皇が今この状況でそれを明かしたのか、という点だ。あるいは、こちらを油断させるための誘いなのか。俺はあれこれ考えつつ言葉を続ける。
「それにしてはずいぶん余裕綽々で戦っているように見えたがな」
「それは年の功というものです」
澄まし顔で応じる教皇。三百年の時を生きた不死の王の言葉だ。こんな状況でなければ笑っていたかもしれない。
もちろん今の状況ではくすりともできはしない。険しい顔のまま教皇を見据えていると、教皇は諭すように語り始めた。
「自らを信じる心を指して人は自信と呼びます。周囲がどれだけ強さを認めようと、自分を信じることのできない者は自信を得られない。自信を得られないゆえに、常に自身を過小評価し、他者を過大評価してしまう。今のあなたはまさにこれに当たります。あなたが正しく心技体の調和をたもっていれば、私の力を見誤ることもなかったでしょう」
それを聞いた俺は先ほどとは違う意味で顔をしかめた。
身に覚えがないのであれば、相手の言葉を戯言だと切って捨ててしまえば済む。だが、教皇の指摘はたしかに俺の胸の深いところを突いていた。
普段は意識していない心の奥底に手を差し込まれた気がして、俺は反射的に言い返す。
「心装を会得した直後ならともかく、今の俺は実力にふさわしい自信を持てていると思うがね」
ウルスラも昔の俺とは見違えたと言っていたし、などと思っていると、教皇はあっさりと応じた。
「自信を持つ剣士は自然と挙措に風格がにじみでるものですが、あなたのそれはせいぜい平旗士のものです。望めば剣聖にも手が届く者が平旗士の自信をまとうなど、笑い話にもなりません」
「……」
「あなたはこれまで多くの敵と戦い、勝利してきたはずです。普通の人間であれば、とうに実力にふさわしい自信を得ていることでしょう。けれど、あなたはそうではない。自分を信じられない者は敵を認めることもできないものです。どれほどの強敵に勝利しても、勝利した瞬間に無意味なものになってしまう。何故なら、強敵だと思っていた相手は『自分程度が勝てる相手』にすぎなかったのだと、無意識のうちに思ってしまうから」
そうやって比類なき勝利を凡百の勝利に堕とし、本来得られたはずのたくさんのものをとりこぼしてきた結果が今の俺である。教皇はそう言った。
――その指摘に驚くほど心が乱れる。
知ったような口をきくなと吐き捨てようとしたが、それもできなかった。心のどこかに相手の言葉は正しいと認めている自分がいる。
口を引き結んでいると、教皇はささやくようにたずねてきた。
「ですが、何の理由もなしにそうなるとは考えにくいのです。御剣空、あなたはいったいいかなる呪いに侵されているのですか?」
呪い。呪い。自分を信じることができない呪い。
同源存在であるソウルイーターの力が強大すぎたせいだろうか、とも考えた。どんな強敵に勝っても、それはソウルイーターの力によるものにすぎない。そういう思いは確かに胸の内にあったからだ。
だが、同源存在の力はすなわち使い手の力である。俺はそのことを理解していたし、そもそもソウルイーターがいなければ、俺はヒュドラやベヒモスといった幻想種はもちろんのこと、ただの魔物である蝿の王にすら勝てずに喰い殺されていた。俺がソウルイーターに抱く感情は感謝だけだ。呪いになどなるはずがない。
俺が自信を得られない原因はもっと別のものだ。泣きたいほどに暗く、凍えるほどに冷たい記憶。
脳裏をよぎるのは路傍の石ころを見るような乾いた目。そして、その目と同じくらいに乾いた声。
ああ、そうだ。もしこの身が呪いに侵されているのだとすれば、それは。
『――島を出るがよい。この地に弱者は不要である』
お前には何の価値もないのだと断じた、あの声以外にありえなかった。