幕間 外道(前)
「一真様はこのまま船でお待ちくださいませ! これより先は我らで確かめてまいります!」
青林島の船着き場に到着した御剣一真が船から下りようとしたところ、配下の若者が決死の形相で訴えかけてきた。
これに対し、一真は軽くかぶりを振って応じる。
「そういうわけにはいかぬ。何があったのかをこの目で確かめるために、私はこの島に戻ってきたのだ」
「ですが、このようなところで一真様に万一のことがあれば、我らが仁様に叱られてしまいま――!」
懸命に言い募ってくる若者を見て、一真は唇の前で人差し指を立てる。
それを見た若者は主君の意を悟り、慌てて己の口を塞いだ。
御剣一真の弟 仁は死んだのだ。過日、ゴブリンの討伐におもむいてあえなく返り討ちに遭い、死体は悪戯半分に焼かれていた――方相氏に対して一真はそのように報告している。そして、弟の無様な死に様に憤慨し、仁の存在を御剣家の記録から抹消した。自分には、ゴブリンごときにしてやられるような愚弟はおらぬ、と。
幸いというべきか、仁が儺儺式の稽古を嫌って父や兄を手こずらせている話は知られていたので、この醜聞はさして怪しまれることなく内外に広まった。
この一件は方相氏の間で嘲笑のタネとなっており、御剣家の君臣はたびたび他家から侮蔑の視線を向けられている。そのため、御剣家内部でも仁の話題は禁忌となっていた。
真相を知るのは、兄弟を除けば一真の側近のみ。この場にいるのはその側近だけであるが、だとしても仁の生存を匂わせるようなことを口にしてはならない。
九門の姓を持つ若者は己の浅慮を恥じて頭を下げた。
「申し訳ございません!」
「わかればよい。長老も儺儺式使いたちも大陸から動かぬ以上、こうして青林島に戻ってきた我らの声が届くはずもない。だが、言葉というのは飛翔するもの。秘するべきは、いつであれ、どこであれ、秘しておくよう心得よ。可能ならば墓の中まで持っていくのだ」
「御意にございます」
そんな会話を交わしながら御剣家の君臣は船から下り、青林島の土を踏む。
龍穴から姿を現した人面蛇身の幻想種を討つべく、幻葬の志士や、それに助力する勢力が総力をあげて討伐に乗り出したのはつい先日のこと。
青林島の住民がすべて島外へ避難したのを確認した後、最後の戦いは開始された。
戦いの激しさは海峡を隔てた大陸まで伝わり、この世の終わりかと思うような轟音と振動が何日も、何日も続いた。
それが先夜、突如としておさまった。以来、青林島はしんと静まり返っており、いかなる物音も伝わってこない。大陸からも姿を確認できた幻想種の巨体は掻き消えており、それだけ見れば志士たちが勝利したと思いたいところなのだが……勝ったにしては戦いにおもむいた者たちが誰ひとりとして帰ってこない。
大陸側に陣取っていた第二陣の中で偵察隊の派遣が決定され、その役目に名乗りをあげたのが一真率いる御剣家だった。
正確に言えば、名乗りをあげたのは方相氏の上の者たちであり、御剣家は危険な実行部隊を押しつけられたのだが、一真はあらがうことなくそれを受けいれた。
もともと、一真自身は最後の戦いに参加する気満々だったのである。この時期、一真は仁の密かな手ほどきによって心装を会得するに至っており、幻想種との戦いに臨むだけの実力は持っていた。
だが、一真の要望は仁によってあえなく却下されてしまう。
自分たち兄弟が死ねば御剣家直系の血が絶えてしまう。それは何としても避けなければならない。仁はそう言って兄に自重を請うたのだ。
御剣家のためにすすんで汚名をかぶった弟にそう言われてしまえば、一真としてはうなずく他にない。
結果、一真はこうして全てが終わってから故郷に戻ることになったのである。
ひととおり島内を調べ終えた一真は、あらためて幻想種の姿が消えていることを確認した。やはりというべきか、仁をはじめとした志士たちの姿もない。
ただ、それだけならあらかじめ予測はしていた。問題は幻想種出現の源ともいうべき龍穴までが消えてしまっていることである。
かわりにあったのは異様な大きさの魔力溜まりだった。空間を歪ませるほどの規模のそれが、かつて龍穴があった場所に忽然と出現している。
いったいこの地で何があったのか。それを調べるためには、あの魔力溜まりを調べるのが一番の早道だろう。
そう考えた一真が、魔術の心得のある配下に声をかけようとしたときだった。
「何者だ!?」
配下が誰何の声をあげて剣の柄に手をかける。
一真が声のした方向に視線を向けると、そこには神官服を着た女性が立っていた。先ほど周囲を確認したときは誰もいなかったはずなのに。
「お久しぶりです――と申し上げるには、まだ以前に会ってから時が経っていませんね、一真様」
警戒する配下にかまわず名乗りをあげる女性神官。一真はこの相手のことを知っていた。
最後の戦いの前夜、仁がこっそり一真のもとを訪れた際に同道していたふたりの女性の内のひとり。先ごろ父親を亡くしたばかりだと言っていた。名前はたしか……
「ソフィア殿。無事であったか」
一真の声にソフィア・アズライトは微笑んで応じる。大輪の花が咲くような艶やかな笑みで、配下の何人かは呆けたようにソフィアに見惚れていた。
だが、一真の眼差しは濃い疑念を宿したまま、わずかな揺らぎも見せない。
一真がソフィアと顔を合わせたのは一度きりだが、仁と共にいたソフィアはもっと楚々として大人しい女性だった。父が亡くなって間もないためか、どこか思い詰めたような暗い顔をしていたのをおぼえている。
その女性が、この状況で意味もなく笑みを振りまいている。一真は警戒の念を募らせつつ言葉を続けた。
「ソフィア殿、あの幻想種との戦いはどうなったのだ? 仁やアトリ殿、それに他の志士たちは無事なのか?」
それを聞いたソフィアは笑みをおさめ、静かな声で応じる。
「龍との戦いは終わりました。アトリが命を賭して異界に封じこめたのです」
「龍? それがあの幻想種の名か。異界というのが何なのかはわからぬが、察するにそこの魔力溜まりと関係があるのだな?」
「はい。あそこに足を踏み入れると、まったく別の大地に飛ぶことができます。生き残った志士たちは皆そちらに。わたくしは外の様子を確かめるためにこうして出てきたのです」
そこまで語ったソフィアは、ここで表情を曇らせた。
「一真様、残念なことをお伝えしなければなりません。仁様は龍との戦いで命を落とされました」
「………………そうか」
弟の訃報を聞いた一真は、思わず、という感じできつく目をつむった。側近たちも無念そうにうめき声をあげている。
弟を最後の戦いに送り出したとき、こういう結末もあるものと覚悟はしていた。それでも胸を穿つ痛みは一真にとって耐えがたい。
――御剣家で生き残った男はとうとう私ひとりになってしまったか。
悲哀と共に内心でつぶやいたとき、不意にソフィアがパチンと両手を叩いた。
途端、それまで一真を守るために周囲を固めていた配下たちが、糸の切れた人形のようにぱたりぱたりと地面に倒れていく。
一真とソフィアが一対一で向かい合うまで、さして時間はかからなかった。
「――なんのつもりだ、ソフィア殿」
「一真様以外の方に、ここから先の話を聞かれるわけにはいきませんでしたので」
「ほう。試みに問うが、話とは何かな?」
声音は平静ながら、一真はすでに臨戦態勢に入っている。
そのことに気づいているのか、いないのか、ソフィアは淡々と続けた。
「一真様はこれから人間と鬼人の関係がどのように変化していくとお考えですか? これまで人間は鬼人の異形と異能を恐れ、彼らを遠ざけてきました。鬼人もまた人間を恨み、両者の間には深い溝ができていた。けれど、こたびの幻想種との戦いによって、ふたつの種族は過去の確執をこえて手を取り合い、大きな成果をあげるに至りました」
本来、それは慶賀すべきことだ。
しかし、両者が手を取り合ったのは敵がいたからである。幻想種という強大な敵がいたから、二種族は過去の対立を脇に置いてでも手を握らざるをえなかった。
人間と鬼人は本当の意味で和解したわけではない。もちろん仁とアトリのように信頼を育んだ者たちもいるが、その信頼はあくまで個人間のもの。種族間の信頼を確立したとはとうてい言えない。
そして今、幻想種の王を封じたことで敵は消え、両者が手を握る理由は失われた。
ここにおいて過去の対立が再燃するのは必然といってよかった。
「もとより幻葬の志士の主力は心装を操る鬼人たちでした。その上で、鬼人族であるアトリが幻想種の王を封じて戦いを終結せしめた。鬼人族の功績は誰の目にも明らかであり、今後の大陸復興において彼らが大きな発言力を得ることは明白です。そして、鬼人族が真っ先に手をつけるのは、過去に自分たちを狩り立ててきた者への報復でしょう」
それはつまり、鬼人族を目の仇にしてきた方相氏に対する復讐、ということである。むろん、方相氏に連なる御剣家も報復の対象に含まれる。
鬼人族からすれば、儺儺式などという鬼人殺しの剣術まで編み出した者たちを許す理由はない。方相氏の側も、いまさら鬼人に謝罪したりはすまい。
幻想種との戦いが終わって間もないというのに、鬼人族と方相氏の戦いが勃発する。
問題は、他の人間勢力がどのように反応するかである。
おそらく大半の勢力は傍観を決め込むだろう。幻想種との戦いで示された鬼人族の力――心装に対する畏怖は人々の心に深く刻み込まれている。
まともな為政者であれば、あのすさまじい力が自分たちに向けられるような事態は万難を排してでも回避するはずだ。ましてや、方相氏などという氏も素性も知れない者たちのために危険をおかす為政者がいるとは思えない。
それだけならまだいい。厄介なのは、他の人間たちが鬼人族に助力して方相氏を滅ぼそうとしてくる可能性があることだ。
何のために? 過去に鬼人を迫害した罪を方相氏に押しつけ、自分たちは鬼人に対して敵意も偏見も持っていないと証明するために、である。