第百二十二話 鬼界
黄金帝国によって封印されたという龍。その封印が解けるまでに七百年の年月が流れたという教皇の言葉。
三百年前に大量発生したという幻想種は、おそらく龍の再活性に呼応して出現したのだろう。
つまり、龍と黄金帝国が戦ったのは今から千年前の出来事であり、その戦いに敗れたことで、人間に対する龍の怒りは鎮まることなく後世に持ち越され、三百年前の戦いへ、引いては現在にまでつながった、ということになる。
ここまで考えれば、光神教が掲げる浄世の意味もおのずと察することができた。
そんなこちらの内心を読んだのか否か、教皇が静かに口をひらく。
「人は一度龍の裁きを受け入れなければなりません。それは種としての贖罪に他ならない。世を洗い、罪を浄めることこそ浄世大願の本義。これを乗り越えてはじめて、人は幻想種の脅威から解き放たれるのです」
龍にあらがうかぎり、たとえ勝利したとしても脅威は後世に引き継がれてしまう。黄金帝国の時代から千年続いた呪いだ、今後千年にわたって続いたとしても不思議はない。
だから龍の裁きを――幻想種による破壊を受けいれなければならない。そう教皇は説く。それこそが浄世であり、浄世を成し遂げないかぎり人は幻想種に襲われ続けることになるから、と。
それを聞いた俺は、なるほど、とうなずいた。
別に光神教の教えに感化されたわけではない。明かされた光神教の教義、行動、目的。それらと、これまでに聞いた情報との整合性がとれたことを確認しただけである。
――率直に言って、今の話に対するつっこみ所はいくらでもあった。
たとえば、裁きを受けいれたら本当に龍の怒りは鎮まるのか、とか。
なにせ、龍とは黄金帝国に対する怒りを、ただ同族だからという理由で今を生きる俺たちに叩きつけてくる存在である。
その目的が「人間に罰を与えること」ではなく「人間を滅ぼすこと」に塗りかわっている可能性は十分に考えられる。罪をつぐなうために裁きを受けいれる、なんて悠長な真似をしていたら、そのまま皆殺しにされてしまうかもしれない。
滅亡間際になって、こんなことなら戦っておくべきだった、と嘆いても遅いのだ。
ただ、俺は教皇相手にその点を議論する気はなかった。水かけ論にしかならないし、もっと言えば、まったく興味がなかったからである。
幻想種のように美味しい餌――もとい、人に仇なす存在を放置できるわけがないではないか!
である以上、龍の怒りが本当に鎮まるか否かなんて興味の持ちようがないのである。
俺が興味を持っているのはもっと別のことだ。たとえば、浄世を掲げる光神教が龍――鬼人族がいうところの蛇を封じたことになっているのはどうしてなのか。
浄世を目指すソフィア・アズライトは、本来蛇を解き放たなければならない立場である。それがまったく逆のことをしている。
光神教と御剣家のつながりにも謎が多い。幻想一刀流は幻想種を打倒しうる剣技だ。光神教や教皇にとっては邪魔以外の何物でもないはずなのに、長年裏でつながっていたという。
それらの矛盾の淵源が三百年前にあることは明白だった。
おそらく、幻葬の志士に加わったソフィア・アズライトと御剣仁、神無アトリの間で何かが起きたのだ。その何かが三百年後の不透明な状態を生み出している。
俺はそれを確かめるべく口をひらいた。
「西都で聞いた話によれば、三百年前に蛇――いえ、龍を封じたのは光神教の聖女ソフィア・アズライトであるとのことでした。今の話と矛盾しているように思えるのですが、その点はいかがです?」
こちらの問いかけに、教皇は思いのほかあっさりと応じた。
「その答えは簡単です。実際に龍を封じたのはわたくしではない。それだけのことです」
「……では、実際に龍を封じたのは誰なのです?」
「アトリです。神無の里のアトリ。鬼人族最高の剣士であり、わたくしにとっては一番の友と呼べる人でした」
そう言うと、教皇はじっと俺の目を見つめてきた。
その目はとても穏やかだったが、何故だか俺の胸はひどく騒いだ。
激しい流れの川よりも、静かな流れの川こそ水はより深いもの。一見穏やかな表情の裏に、膨大な量の感情が秘められているのが伝わってくる。
と、ここで教皇はおもむろに西の方角を指さした。
「本殿を基点とした結界を築き、龍が発する瘴気を防いでいるのは確かにわたくしです。その意味では龍を封じているというのもあながち間違いではないでしょう。ですが、アトリの結界はこのような児戯とは比べ物になりません。あの日、あのとき、アトリがおこなったのは結界を超えた異界の創造でした」
「異界?」
「そう、異界です。不思議に思ったことはありませんか? 鬼界とはいったい何なのだろう、と。鬼門をくぐりぬけた先にある、大陸とはまったく異なる大地。陽炎のごとき太陽が昇り、不毛の荒野がどこまでも続く命なき世界。そして、かつて青林島にあったはずの龍穴が存在する世界。そんなものが自然にうまれるはずがありません」
そこまで言われれば、凡庸なる頭脳にも洞察のひらめきが生まれるというもの。
俺はわずかに眉根を寄せ、教皇に言葉を向けた。
「では、鬼界とは」
「現界した龍を封じるためにアトリが築いた空間結界を、わたくしたちは鬼界と呼びならわしているのです。ご覧なさい、龍の額を」
そう言って教皇の細い指が示した先。見上げるほどに巨大な龍の顔にあらためて視線を向ける。
教皇のいう額には一本の角が生えていた――いや、はじめ俺はそれを角だと思ったが、よく見ればそれは角ではなく、もっと別の何かだった。
それは巨大な剣。剣が龍の額に深々と突き刺さっており、それが遠目から角のように見えたのである。
それをなしたのが誰であるのか、あらためて確認するまでもなかった。