第百二十一話 反逆
……かつて黄金帝国と呼ばれる国があった。
それは辺垂の果てまで領土に加えた巨大国家の名称であり、黄金と白銀に彩られた繁栄の光は地上をあまねく照らし出したという。
それまで人の手の及ばなかった高山、海底、地中、さらには天空までも制した帝国の力の源となったのは、大地を走る無限の魔力――すなわち龍脈であった。黄金帝国は龍脈の力を抽出し、結晶とする技術を保有していたのである。
後世、賢者の石と呼ばれることになるこの結晶は、拳大の塊ひとつで百万都市の生活を支えられる高純度の魔力を有している。黄金帝国はそれを何千、何万、何十万と量産し続け、史上類を見ない世界帝国を築くに至った。
無限に等しい魔力を無限に生産し続ける奇跡の国。
黄金帝国に生きる者たちは、帝国の栄華と繁栄が永遠に続くと信じて疑わなかった。
――そんな夢物語があるはずはないというのに。
人の目から見れば無限に見えようとも、龍脈の力にも限界は存在する。その限界を超えて搾取すれば、龍脈の力が欠乏していくのは自明の理。そして、その欠乏をおぎなうべくさらに抽出量を増やせば、いずれ枯渇に至ることもまた自明であった。
龍脈の力とは大地の力そのものであり、その力が枯渇すれば地上は草一本生えない荒野になり果てる。生命という生命は失われ、何十年、何百年経とうと生命が生まれ出ることのない死の砂漠が地平を覆う。
山川草木に精霊が宿るように、地水火風に精霊が宿るように、大地にも精霊は宿っている。土の精霊とは根本的に異なる、世界そのものとも呼べる存在――星の精霊。
もっとも、星の精霊はあまりにも存在の規格が違いすぎて、他の精霊と同一視するのは無理がある。どれだけ手練の精霊使いであっても、星の精霊を使役することはできない。本当に優れた才能を持つごく一握りの精霊使いだけが、かろうじて声を聞くことができるくらいだろう。
ともあれ、星の精霊は確かに存在したし、自らがこれからも在り続けることを望んでいた。
だから、龍脈の力を奪い続ける人間たちに警告を発した。時に声をあげて。時に身体を震わせて。
龍脈の力が尽きれば、地上を生きる人間たちだって死に絶えるのだ。それがわかれば、人間は自殺行為に等しい搾取をやめるはずだった。
しかし、その推測ないし期待は裏切られる。
警告が届かなかったわけではない。一部の精霊使いはたしかに星の精霊の声を聞いたし、それを人々に伝えることもした。同時に、頻発する自然災害は過剰な龍脈採取の弊害である、と主張する人も少なからず存在した。
だが、それでも搾取が止まることはなかった。止められなかった、と言った方が正確かもしれない。
すでに地上の生活は龍脈の力によって成り立っており、龍脈の力を手放すことは文明の放棄と同義であった。来るかどうかもわからない滅びを避けるために、今の生活を手放すことができる者はほとんどいなかったのである。
この瞬間、星の精霊にとって人類は寄生虫となった。欲望のおもむくままに宿主を喰い殺し、その結果、自らも死に絶える愚かな死蟲。
――そんな蟲が己の身体に巣食ったとき、これを取り除くことに何の躊躇がいるのだろう?
◆◆
「――ぐ!?」
教皇が龍と呼ぶ存在を指し示した瞬間、不意に頭の中に奇妙な知識があふれ出す。
たまにソウルイーターが見せる過去の情景、あれを何十倍にも強めたような情報の濁流に翻弄され、思わず苦悶の声がもれる。
あまりのおぞましさに吐き気をおぼえた俺は、とっさに口元を手でおさえた。
「な、んだ、今のは……?」
そうつぶやくと、それまでじっと俺を見つめていた教皇が静かに応じた。
「星の精霊が堕ちるに至った理由。龍が人を憎むに至った理由。そして、光神教が幻想種を崇めるに至った理由です。幻想種は理由もなく人を襲うわけではありません。幻想種は人の傲慢と不遜から生まれ出た罪の産物であり、幻想種に逆らうことは罪を重ねることに他ならないのです」
「……む」
その言葉を聞いた俺は唇を引き結ぶ。
光神教や教皇の考えが理解できたわけではない。ましてや同意したわけでもない。ただ、今しがた垣間見たものがすべて現実に起きたことなのだとしたら、人が憎まれるのも仕方ないかな、という気はした。
たぶんあれ、俺が蝿の王の巣で無数の蛆蟲に集られたようなものだろう。あんな目に遭ったのだとしたら、蛆蟲を一匹残らず叩き殺してやる、と決意するのはしごく当然のことである。
その意味では星の精霊――龍に対する怒りは感じない。
――まあ、だからといって大人しく龍なり幻想種なりに殺されてやる気はないけれども。龍脈をむさぼった黄金帝国の人間が殺されるのは自業自得だとしても、今を生きる人間には関係のない話である。
俺がそう述べると、教皇はどこか哀しげにうなずいた。
「そのとおりです。罪があり、罰があって赦しがある。罪を犯した黄金帝国が罰を受けいれていれば、人は赦しを得られたでしょう。ですが、現実にはそうはなりませんでした。黄金帝国は幻想種を、ひいては龍を討ち果たすために国を挙げて戦いを挑んだのです。そして、不幸なことに勝利したのは黄金帝国の側でした」
本来であれば黄金帝国に勝ち目はなかった、と教皇は述べる。黄金帝国の軍隊には龍脈の力を利用して造られた古代兵装が山をなしていたが、しょせんは借り物の力である。
真に龍脈の力を具現化した龍や幻想種にかなうはずはなかった。実際、黄金帝国の軍隊にできたのは、攻め込んでくる幻想種をほんの少し足止めすることだけで、勝敗の帰結は誰の目にも明らかであった。
にもかかわらず、最終的に黄金帝国の側が勝利したのは、一部の幻想種が龍のもとを離反して人間の側についたからである――そう告げる教皇の眼差しは、ぞっとするほど冷たかった。
「一部の――いえ、極言すれば、ただ一体の幻想種がすべてをひっくり返したのです。どうしてその幻想種が母たる龍に反逆したのかは知りません。知りたくもない。けれど、事実は事実。その幻想種は数多の同胞を屠り、ついには自らと引き換えに龍をも討ち果たしたのです。残ったのは黄金帝国の人間たちだけでした」
もっとも、この戦いで甚大な被害を受けた黄金帝国にもはや昔日の国力はなく、政体を維持することは不可能だった。その意味では相打ちだったともいえる。
大地に穿たれた龍穴に封印をほどこした後、黄金帝国は溶けるように解体され、以後、歴史に黄金帝国の名があらわれることはなかった。
こうしてすべてが終わったかに見えた――が、星の精霊の本体ともいうべき大地は残っていた。己に巣食った死蟲に対する怒りも尽きていなかった。
尽きるどころか、施された封印の下で人への敵意は煮えたぎり、燃え盛り、呪いにも似た瞋恚はいや増すばかり。
その瞋恚の炎が封印の効力を凌駕し、龍穴からあふれ出したとき、地上では七百年の年月が過ぎ去っていた……