幕間 聖女
祈りの声が聞こえてくる。時に歌うように高く、時に嘆くように低く、救いを求める声が一篇の詩となって聖堂を満たしている。
集まっている者たちは様々だった。男も女も、老いも若きも、富豪も貧者も、みな一様に真剣な表情を浮かべて祈りを捧げている。
祈りを向ける先は神である。ただし、既存の神ではない。
彼らが祈りを捧げているのは、彼ら自身が神格を授けた新しい神だった。
近年、大陸各地に頻繁に出現するようになった幻想種。一国の軍隊をもってしても止めることができない災厄の化身は、龍穴と呼ばれる大地の穴より現れて人間に襲いかかる。
南方を領有していた緑豊かな大国が、猛毒竜ヒュドラによって国土ごと滅ぼされたのは先年のことだった。
龍穴より生まれ来る幻想種がどうして人間への敵意を抱えているのか。それは大地そのものに人間への敵意が内包されているからである――この場にいる者たちはそのように考え、祈りによって大地の敵意を鎮めようとしていた。
すなわち、彼らが崇める神とは幻想種を生み出す大地そのものを指している。
正しき神を信じる者は幻想種に襲われることはない。そう信じて今も「鎮まり給え」「救い給え」と真摯に祈り続けているのだ。
彼らは光神教と呼ばれていた。
そして、光神教徒の中心でひときわ熱心に祈りを捧げている女性――他の信徒から聖女と呼ばれている人物の名を、ソフィア・アズライトといった。
礼拝を終えて自室に戻ったソフィアは、そこに父親の姿を見出して思わず顔を強張らせる。
ただ、それは一瞬の半分にも満たない間の出来事であり、父親が視線を向けてきたときには、すでにソフィアの顔は柔らかい微笑で覆われていた。
「お父様――いえ、聖下。いらしていたのですね」
「うむ」
ソフィアの父親、光神教の創始者であり最高指導者でもある教皇は娘の言葉に無造作にうなずく。
娘が「父親への呼びかけ」を「地位への敬称」にあらためたことに何も感じていない様子だった。
――いえ、それ以前にそもそも私の言葉なんて聞こえていないのかもしれません。
ソフィアはわずかにうつむく。
視界にうつる父親は眉間に深いしわを寄せ、病的なまでにやせこけた頬がときおり神経質そうに震えている。
やせているのは頬ばかりではない。手足は枯れ枝のように細く、骨と皮ばかりの胴体は飢餓に苦しむ流民のそれだ。
いつも人好きのする笑みを浮かべ、年と共に腹回りの肉が増えていくことに悩んでいた以前の父の姿はどこにもない。
すべて変わってしまった。幻想種の出現とアズライト家の没落、そして母の死によって……
「何か変事でも出来いたしましたか?」
ソフィアが内心の憂いを押し隠してたずねると、教皇は不快げにうなずいた。
それを見たソフィアは反射的に肩を縮める。この表情をした父から叱責されたことは一度や二度ではない。
しかし、このとき教皇の機嫌を損ねていたのは娘ではなく、もっと別のものだった。
「幻葬の志士を名乗る愚か者どものことよ。彼奴ら、またしても御遣い様を手にかけおった」
光神教において幻想種は神の遣いであり、幻想種の攻撃は愚かな人間にくだされた天罰である。
ゆえにあらがうことなど許されない。幻想種に襲われた人間は、ひれ伏して己の愚かさを悔い改めるべきなのである。
懺悔が通じれば幻想種の爪牙は遠のくだろう。悔い改めて、それでもなお命を奪われたのなら、それはその者の罪がそれだけ深かったということ。死者は己の命をもって罪を贖ったのだ。
光神教は信徒にそう説いて幻想種に対する抵抗、報復を禁じていた。そんなことをすれば神の怒りが募るばかりである、と。
一方、幻葬の志士の行いはこれとまったくの逆である。彼らは愚かにも幻想種に敵対しようとしていた。
そんなことをすれば幻想種による被害は拡大し続け、ついには神の怒りが光の雨となって大地を洗うだろう。教皇はこれまで何度も志士たちに使者を差し向け、ただちに武器を捨てるよう警告していたが、彼らはまったく耳を貸さない。
それどころか、三体もの幻想種を殺めるという大罪を犯してのけた。
そして今日、彼らがさらに罪を重ねたという報告が教皇のもとにもたらされた。それによれば、志士たちは強襲してきた黒いグリフォン――神話において女神の戦車を牽くとされる聖獣を返り討ちにしたという。
教皇はかたく節くれだった拳を握りしめると、ガンッ、と眼前の卓に叩きつけた。
「これ以上彼奴らの愚行を座視することはできぬ! 光神教の総力を挙げて不遜なる志士どもを葬り、もって神の怒りをお鎮めするのだ。私みずから信徒を率いるゆえ、そなたも従え」
そう伝えると、教皇は用は済んだとばかりに立ち上がった。ソフィアの返事を聞こうともしないのは、娘が自分の言いつけに逆らうわけがないと決めつけているからだ。
実際、これまでソフィアは父の言いつけに逆らったことがなかった。身体の一部を神に捧げろ、と言われたときもおとなしく従った。
だが――
「お待ちください、聖下」
今回のことは別だ、とソフィアは思う。
前述したように光神教の信徒は増加の一途をたどっているが、その一方で、特異な教義を理由に光神教を異端として蔑む者も少なくない。特に既存の教会勢力は光神教の台頭を危険視していた。
その光神教が幻葬の志士に兵を向けたらどうなるのか。相手は幻想種討伐という偉業を成し遂げて名声を高めている者たちだ。民衆の中には志士たちを救世主として称える声もあると聞く。
そんな者たちと敵対したら、これまでのように異端として蔑まれるだけではすまない。邪教として排斥され、教団そのものが消滅してしまうに違いない。
なにより、幻想種を相手に勝利するような強者を相手にして、ろくに訓練も受けていない光神教徒が勝ち得るはずがない。ソフィアはそう考えて父を止めようとした。
娘に制止された教皇は、白くなりつつある眉をあげて口をひらく。
「なんだ? よもや背教するつもりではあるまいな?」
教皇は刺すような視線でソフィアを凝視する。冷たく険しい眼差しは親が子に向けるものでは断じてない。
ソフィアは声を震わせて父の問いに応じた。
「いいえ、いいえ違います、聖下。私が申し上げたいのは御身の大切さでございます。御身なかりせば光神教は立ち行きません。愚か者たちを討つ役目は私が務めますゆえ、どうか聖下におかれては教義の普及、教団の発展に尽力していただきたく存じます」
そう言うと、ソフィアはその場に膝をつき、額が地面につくほど深々と頭を下げた。
教皇は答えない。ソフィアにとっては心臓が締めつけられるような沈黙が続いた。額から噴き出した汗が雫となって頬を伝う。
ややあって教皇の口から「よかろう」という言葉が発されたとき、ソフィアは安堵のあまり意識を手放しそうになった。
いや、もしかしたら本当に気を失っていたのかもしれない。気がついたとき、教皇の姿は部屋の中から消えていた。
ややあって、のろのろと身を起こしたソフィアの口から、はふ、と気の抜けたような声がもれる。胸の中にため込んでいた苦いものを吐き出すような仕草だった。
「お父様……」
父である教皇の精神が正道から外れつつあることを、ソフィアは悲しみと共に感じ取っていた。
しかし、それを理由に父のもとから離れるつもりはない。自分が離れてしまえば、それこそ父を支える者がいなくなってしまう。そんなことになれば亡き母に会わせる顔がない。
それに、ソフィアは幻想種に関する父の考えが正しいことを知っていた。
その意味でも父のもとを離れるわけにはいかないのである。
「志士たちがどれだけ幻想種を葬ろうと、代わりはいくらでも湧いてくる。大地の力に果てはなく、いつか志士たちは荒野に屍をさらすことになるでしょう。彼らの抵抗には何の意味もない……」
そう呟いたソフィアは心の中で言葉を重ねる。
――それでも。それでも、もし彼らが抵抗をやめないというのなら。神に頭を垂れ、慈悲を乞うことで命を長らえるのではなく、神に叛き、刃を振るうことで未来を切り開こうというのなら。そのとき、自分は……
「痛!?」
考えを進めていたソフィアは、不意に鋭い痛みに襲われて苦痛の声をもらす。
ソフィアの手が痛みの発生源である右目を探る。長い前髪に隠された右の眼窩に、本来あるべき眼球は存在しない。それは父の手によって神に捧げられていた。
もう何年も前のことだ。傷はとうの昔に治癒しており、痛みをおぼえることもなくなっていた。それが今このときに痛み出した理由は――考えるまでもない。
ソフィアは何かをこらえるように一瞬だけ目をつむると、次の瞬間、パチンと両の頬を叩いた。気合を入れ直したのである。
今しがたの痛みについて考えることをやめたソフィアは、かわりに今後の計画を立てることにした。
今の光神教に幻葬の志士と戦う力はない。まずは志願者をよそおって相手の懐に入り込み、情報を集めるべきだろう。他者から話を聞くだけでなく、自分の目で見て、耳で聞くことで、より深く志士たちの真実を知ることができるに違いない。
光神教の聖女だと気づかれないよう変装する必要もある。特に隻眼という特徴は目立つから注意しなければなるまい。
「そうと決まれば、準備を急がなくては」
ソフィアは必要な品をそろえるべく、あわただしく部屋を後にする。
誰もいなくなった室内に扉の閉まる音が響いた。