幕間 アトリ
仁によって翼を断ち切られたグリフォンは空中で姿勢を崩し、そのままの勢いで地面に激突した。
魔獣の存在に気づいていなかった親方は、目と鼻の先に墜落したグリフォンを見て「うおおお!?」と驚きの声をあげている。
そんな親方に向けて仁は鋭い声で呼びかけた。
「親方、そいつから離れてください!」
仁が斬ったのは翼のみ。
今の仁にグリフォンを一刀両断する力は望むべくもなく、魔獣はいまだ健在だった。
「お、おう、わかった!」
仁の声を聞いて我に返った親方は、あわててグリフォンと距離をとる。
直後、翼をもがれたグリフォンが憤怒の咆哮をあげながら身体を起こした。傷口から流れ出る血で胴体を赤く染めた魔獣は、両の眼を爛々と光らせながら自らの翼を奪った敵――仁を睨みすえる。
今にも躍りかからんばかりに猛りたっているグリフォンを見れば、戦闘意欲を失っていないことは火を見るより明らかだった。
空を飛ぶ手段を奪ったとはいえ、グリフォンの爪牙にかかれば人間などたやすく引き裂かれてしまう。仁はそれを我が目で確かめたばかりだ。おまけに、上空にはいつこちらに向かってくるともしれない他のグリフォンが飛び交っている。
この状況で手負いのグリフォンを倒そう、と考えるほど仁は無謀ではない。
幸い、翼を失ったばかりの敵の動きは鈍い。ここは自分が注意を引きつけ、その間に親方を逃がすべきだろう。そう考えた仁が、自分の考えを実行に移そうとしたときだった。
「燃やせ、禍斗!」
不意に。
荒々しいかけ声と共に横合いから放たれた炎の渦がグリフォンを吞み込んだ。炎に包まれた魔獣が甲高い叫び声をあげ、猛火にあらがうようにのた打ち回る。
しかし、それも長くは続かなかった。燃え盛る炎は魔獣の抵抗を叫び声ごと押しつぶし、焼き尽くし、消し炭へと変えていく。
王クラスの魔獣がただ一度の攻撃で屠られる光景を目の当たりにした仁は、とっさに炎が放たれた方向に目を向ける。
視線の先にいたのは、仁より二十は年上と思われる壮年の鬼人だった。
「ふん、他愛もない! グリフォンごとき、俺にかかれば鶏と変わらぬわ!」
口角をつりあげて傲然とうそぶく顔に、仁は見覚えがあった。皐の氏族が擁する三人の心装使い、その中のひとりである。
どうやら直前まで寝こけていたらしく、髪は寝ぐせで跳ね、衣服もだらしなく乱れている。見れば、男の後ろには同じように衣服が乱れた女性が二人いて、おそるおそるあたりの様子をうかがっていた。
どうやら同衾していたところに襲撃を受けて、おっとり刀で外に出てきたらしい。
いつ幻想種に襲われるともしれない状況で、部隊の核となる戦力が女色にふけっているとは、と仁は眉をひそめたが、内心の思いを口に出すことはなかった。
向こうの意図はどうあれ、仁たちが助けられたことに違いはない。それに、単純にグリフォンを一蹴した男の武威に気圧されてもいたのである。
「おい、お前たち!」
仁と親方の姿に気づいた男が呼びかけてくる。
仁はとっさに口をひらき、親方より早く相手の呼びかけに応じた。これから先、幻葬の志士として活動するにおいて、心装使いとのつながりがあって困ることはない。そんな下心あっての行動だった。
「はい、なんでしょうか!」
「俺はこれから魔獣を片付けてまわる。お前らは女たちを逃がせ。こいつらに傷のひとつでも付けたら承知せぬぞ!」
頭ごなしな物言いだったが、仁は素直に「かしこまりました」とうなずく。
下心うんぬんもあったが、逃げ遅れた者たちを逃がすという意味では、男の指示と仁の目的は一致していたからである。親方も同意見だったようで大きくうなずいている。
親方の同意を確認した仁は、東の森へ向かう前に一度頭上を振り仰いだ。
何かを感じたわけではない、ほとんど無意識の動作。だが次の瞬間、仁は喉が干上がるほどの重圧を受けてその場に立ち尽くす。
――それはいつの間にかそこにいた。
高々と空を舞う巨影は間違いなくグリフォンだ。しかし、同時にただのグリフォンではありえなかった。
別段、翼が四枚生えているわけでもなければ、脚が八本生えているわけでもない。鷲の頭と翼、獅子の胴と爪。グリフォンとしての特徴はかわらない。
だが、その個体は他のグリフォンと異なる三つの特徴を有していた。
ひとつは色。東から陽光を浴びて輝く体毛の色は、漆を塗ったように黒々としている。
ひとつは大きさ。遠目に見てもわかるほどの巨躯は、他のグリフォンの倍、いや、三倍に達していよう。
最後のひとつはすでに述べた。はるか上空を飛翔しているにもかかわらず、眼下の仁にまで届く重圧。上空から迸る敵意は、この地にいるすべての志士を殺し尽くして余りある。
いかにグリフォンが王クラスの魔獣といえど、これほどの威圧感を発揮できるものではない。今、仁が目にしているのは人を狩るために生まれた天災だ。そのことが本能的に理解できる――理解させられてしまう。
仁が知るかぎり、そんな存在はひとつしかなかった。
「幻想種……!」
口からうめき声が漏れる。と、仁の言葉が聞こえたかのように漆黒のグリフォンが動いた。
大きく翼を羽ばたかせるや、眼下の標的めがけて急降下を開始する。咆哮をあげることなどせず、流星のごとき速さと勢いで地上へ迫る。
向かう先にいるのは心装使いだ。そのことを悟った仁は相手の動きを妨げようとしたが、先ほどのように颯を浴びせることはできなかった。幻想種の速度は神速の域に達しており、とうてい仁の能力のおよぶところではなかったのである。
「あぶ――」
危ない、というたった四字の警告さえ言い切ることができない。仁の視界の中で、夜そのものが形をとったような黒影が心装使いの上半身を覆い隠した。
心装使いも上空の気配に気づいてはいたようで、とっさに持っていた槍型の心装を掲げて迎撃しようとしていた。だが、影は心装ごと使い手を呑み込んでしまう。
次の瞬間、影は再び上空へと舞いあがり、その場には心装使いのみが残された。
――上半身を喰いちぎられた、心装使いの半身のみが残された。
わずかに間をおいて、絹を裂くような女性の叫び声が響き渡る。その声に刺激されたのか、上空のグリフォンたちの動きがひときわ激しくなっていく。
仁たちにとって受難の時間が始まろうとしていた。
◆◆◆
同時刻。
「姫様、お呼びでございますか?」
幻葬の志士の一翼を担う神無の氏族。その本陣で白髪白髯の老鬼人がひとりの女性に声をかける。
腰まで届く黒髪を直ぐに垂らした女性が、老人の声に応じて振り返る。老人と同じく、女性もまた額から角を生やした鬼人族だった。
姫という呼び掛けからもわかるとおり、女性は神無の氏族の中でも尊貴な地位におり、同時に武勇にも秀でている。腰に差している刀は実戦用の業物であり、この部隊の指揮官は事実上この女性――アトリだった。
「爺、行軍開始の時刻を半刻早めます。急ぎ皆に出立の準備をさせてください」
アトリの急な物言いに老人はわずかに右の眉をあげる。先の幻想種との戦いをはじめとして、最近の神無の氏族は激戦続きであり、戦士たちにも疲労がたまっている。たかが半刻(一時間)とはいえ、行軍予定を早めればそれだけ疲労も積もる。アトリに非難の声を向ける者もあらわれるかもしれない。老人はそのことを案じたのである。
もっとも、幼少期よりアトリの傅役を務めていた老人は、眼前の女性が根拠もなしに予定を変えたりしないことを知っていた。そのため、異論を唱えることなくアトリの命令に応じる。
「かしこまりました。ただちに触れをまわします――何か感じ取られたのですな?」
「はい」
顔を曇らせたアトリは黒髪を揺らしてうなずいた。
「今しがた、東の方角に悪しき気が立ちのぼりました。おそらく蛇の使徒――幻想種です。皐の氏族が襲われているのであれば助けなければなりませんし、そうでないのであれば、早急に合流して敵に備える必要があります」
それを聞いた老人は表情を引き締める。老人自身はアトリが言う「悪しき気」を感じ取ってはいなかったが、アトリの言葉を疑うことはしない。
アトリは代々蛇鎮めの儀をつかさどる巫女の家系。その類まれなる才能は傅役である老人が誰よりも知っていた。
「それは一大事。ただちに命令を遂行いたします」
「お願いします」
老人は踵を返してその場を立ち去ろうとしたが、不意に何事かに思い当たったように足を止めた。
そのことに気づいたアトリが不思議そうな顔で首をかしげる。そんなアトリに対し、老人は振り返ることなく声だけを向けた。
「姫様。念のために申し上げておきますが、『後の指揮は爺にお任せします』などと書き置きを残し、おひとりで東へ向かわれるのはおやめくださいますよう」
それを聞いたアトリがぎくりと身体を強張らせるのを、視線によらず見抜いた老人は、やはり振り返ることなくその場を後にする。
ひとり残ったアトリは、しばしの間、童女のようにぷくっと頬をふくらませていた。