幕間 前夜
仁は一心不乱に手を動かしていた。
むせるような熱気に長時間さらされているせいで、額には玉のような汗がにじんでいる。が、押し寄せる敵の物量は膨大であり、仁に汗をぬぐう暇さえ与えなかった。
「新入り、追加だ! もたもたすんなよ!」
「はい、親方!」
どん! と乱暴に置かれた笊の上には、仁の視界を塞ぐように大量の芋が積み上げられていた。
蒸かしたばかりの芋の山。この大量の芋の皮むきをすることが仁に与えられた任務である。
大陸にわたって早一月。東奔西走の末にようやくもぐりこんだ幻葬の志士の中で、仁はもっぱら芋の皮ばかりむいていた。
当然というか何というか、幻想種討伐や心装奪取という目的は一向に進んでいなかったが、仁に焦りはない。もとより一月二月で何とかなるなどと考えてはいなかった。
なによりも――
「儺儺式使いどもの顔を見ずに済む。この一点だけであらゆる不満が消えてなくなるってもんだ」
くくっと喉を震わせるようにして仁は笑う。その笑みは少しばかり偽悪的ではあったが、口にしたことに嘘はない。仁は自分自身の立場をきちんと受けいれた上で、島外の生活を楽しんでいた。
御剣家を離れたこと、兄と道を違えたこと、それらについて思うところは多々あれど、だからといって過去を懐かしんで涙するような繊細さは持ち合わせていない。
過去は過去として胸に収めつつ、今を楽しむ余裕も失わない。御剣仁はごく自然にそれができる人間だった。
それに、と仁は思う。
どれだけむいても一向に減らない芋の処理は難儀ではあるが、志士たちも伊達や酔狂でやらせているわけではないだろう。
皮むき作業に従事しているのは仁だけでなく、仁と同時期、もしくは仁より後に志士に加わった新入りばかり。いずれも幻葬の志士の評判を聞きつけて駆けつけた者たちである。
幻想種を討って名を挙げようという者、幻想種に故郷を焼き払われた復讐を望む者、ただ食うに困って流れてきただけの者、様々だ。中には仁のように幻葬の志士の内情を探るためにもぐりこんだ者もいるに違いない。
そういった種々雑多な新入りたちに対し、気が滅入る上に体力的にもきつい雑務を課すことは、ある種のふるいになる。
事実、来る日も来る日も皮むきばかりの生活に耐えきれず、不満の声をあげる者は少なくなかった。「早く幻想種と戦わせろ!」と古参の志士たちに食ってかかる者もいた。
どれだけ戦意や能力が高かろうと、我慢のきかない者たちは集団行動に不利益をもたらす。急造の戦闘集団である志士たちは、こういった者たちをあぶり出すために終わりのない皮むきを課しているのだろう。
少なくとも仁はそう考えており、だからこそ文句のひとつも言わず、日々芋の皮をむきまくっていた。
もちろん、わずかな時間を見つけては周囲の人間と言葉を交わし、陣内を渡り歩いて情報を集めることも忘れていない。志士たちの主力である鬼人、特に心装を使える鬼人の姿も三人ばかり確認している。
仁としてはすぐにも話しかけたいところであったが、心装使いは志士たちの頂点に立つ存在であり、新入りが気安く声をかけられる相手ではない。あえてそれをすれば悪目立ちしてしまう。
仁は鬼人族を目の仇にしてきた方相氏に連なる者。仁自身は御剣家を出た時点で方相氏との縁は切ったものと考えているが、その理屈が相手に通じると考えるほど楽観的ではない。鬼人族から見れば、仁は今も方相氏の人間であり、正体が知られれば排除される可能性が高い。
ゆえに目立つ真似は極力避ける必要がある――仁はそう考えて現時点での心装使いとの接触を自重した。
ただ、この自重にはもうひとつ理由があって、仁は三人の力量に感心しなかったのである。
仁は一度、陣営に攻めてきた魔物を撃退する心装使いの戦いを目の当たりにしている。
そのときの心装使いはたしかに強かった。今の仁では逆立ちしてもかなわないだろう。
だが、その強さは心装の力を用いた力押しにすぎず、剣技の妙を感じさせるものではなかった。儺儺式を超える剣技を望む仁にとって、この陣営にいる心装使いは危険を冒してまで接触したい相手ではなかったのである。
ちなみに、力押し一辺倒という意味では心装使い以外の鬼人族にも同じことがいえた。もしや鬼人族には系統だった剣技というものは存在しないのだろうか、と仁は首をひねる。
だとしたら、期待外れもいいところである。もちろん、その事実を差し引いても心装という力は魅力的ではあるのだが。そう思いつつ仁は口をひらく。
「まあ、まだ決めつけるのは早計だろう。親方の話だと、一口に幻葬の志士といってもいくつかの集団に分かれているみたいだからな」
いま仁がいる陣営が幻葬の志士のすべてではない。聞けば、次に合流する予定の者たちは志士の中でも猛者が多く、先ごろ討伐された三体の幻想種のうち二体を仕留めたのは彼らであるという。
そちらには仁が尊敬できる本物の剣士がいるかもしれない。
「少なくとも、兄上を超える剣士でなければ話にならない。そう考えると、ちょっと理想が高すぎる気もするが、幻想種を二体も討伐したという実績に期待させてもらうとしよう」
そう言って仁はニヒルにふっと笑う。
頭巾をかぶり、包丁片手に芋の皮をむいている姿ではまったく様になっていなかった。
これより三日の後、御剣仁が所属する陣営は、鬼人族最強をうたわれる神無の氏族と合流を果たす。
そこで仁はひとりの戦士に頭を垂れて「師匠と呼ばせてください!」と叫ぶことになるのだが、このときの仁は至近に迫った運命にまだまったく気づいていなかった。