第百十五話 臣従
陽炎のような太陽が大興山の空に力なく浮かび上がっている。
月よりも頼りない光源を見上げながら、俺は先刻のソザイの言葉を思い浮かべた。
『忌まわしき裏切り者 御剣一真によって鬼界に封じられた全ての命を救うため、我が身に神を降ろした無私の乙女ソフィア・アズライト。聖女ソフィアを知らずして光神の教えは語れない』
そう切り出したソザイは熱を込めて聖女の偉業を語り始めたが、ほどなくしてドーガから呼び出しを受けて席を外してしまった。そのため、手持無沙汰になった俺は部屋を出て、見るともなしに鬼界の太陽を見上げていたのである。
彼方から吹きつけてくる風は瘴気を帯びて濁り、お世辞にも考え事に適しているとは言えなかったが、その事実は今の俺にいささかの影響も及ぼさない。
このとき俺の脳裏を占領していたのは、もちろん先ほど頭の中をよぎった情景だった。
御剣家を名乗るふたりの兄弟。父と叔父が幻想種に殺されたという会話の内容。今ではほとんど使われなくなった鬼ヶ島の古称 青林島という言葉を用いていたこと。さらには、方相氏や儺儺式使いという秘事をごく当たり前のように口にしていたこと。
なにより、弟が兄を指して御剣一真と呼んでいたことから考えるに、あの兄弟は御剣家の初代とその弟だろう。俺にとっては三百年前のご先祖様だ。
これについては間違いないと思うのだが、疑問は残る。
ひとつはなぜソウルイーターが俺の先祖の記憶を持っているのか、という点。
もうひとつは、初代剣聖に弟がいたなんてまったく聞いたことがない、という点だった。
実の兄弟ではなく養子か何かだったのだろうか? あるいは、早くに戦死なり病死なりしてしまって記録が埋もれてしまった可能性もある。
しかし、初代剣聖に「私よりそなたの方がずっと上」と称えられるような人物が、歴史にまったく名を残していないというのも妙な話だ。仮に弟が早世したのだとしても、初代剣聖に弟がいた、という事実くらいは伝わっていそうなものである。
そんなことをあれこれ考えていると、横合いから聞きおぼえのある声が聞こえてきた。
「空殿? いかがなさいました、そのように難しい顔をなさって」
声のしてきた方を向くと、クライア・ベルヒが不思議そうな表情を浮かべながら近づいてくる。
相手の心配に「何でもない」と応じようとした俺は、ふと思い立ってクライアに直前の疑問を投げかけてみることにした。
「ちょっと気になることがあってな」
「気になること、と申しますと?」
「初代剣聖に弟がいたかどうか、だ。クライアは何か知っているか?」
ソウルイーターの記憶云々は省いた問いかけだったので、クライアにとっては唐突に感じられたに違いないが、白髪の青林旗士は反問することなく真剣に考え込む。
「初代様の弟御…………いえ、申し訳ありませんが、そのような方がいらしたという話は聞いたことがありません」
「ふむ、正規の旗士でも知らないか。となると、俺の勉強不足が原因というわけでもなさそうだな」
小さく独りごちた後、俺はクライアに質問に答えてくれたことへの礼を述べる。
クライアは、何でもないことです、と言うように軽くかぶりを振った後、やや戸惑ったように俺を見た。
「初代様のことで、鬼人の方々から何かお聞きになったのですか?」
「いや、そうじゃない。ちょっと夢を見たというか、時の河をさかのぼったというか、そんな感じだ」
「は、はあ」
まったく要領を得ない俺の返答を受け、クライアの顔に無数の疑問符が浮かび上がる。だが、この件については俺に話す気がないことを察したらしく、それ以上問いを重ねようとはしなかった。
かわりにクライアはこれから先のことを口にする。
「ウルスラから聞きました。空殿は今しばらく鬼界に留まるつもりである、と」
「ん? ああ、たしかにウルスラにはそう言ったな」
「そうする理由のひとつは、クリムトと私のため、ですよね?」
問いかけてくるクライアの紅い目がかすかに潤んでいる。俺は一瞬の半分の間、どのように返答するか迷ったが、ここでとぼけても白々しいだけだろうと思い、軽く肩をすくめてうなずいた。
「ま、そうだな。クリムトをこのままベルヒ家に連れていくわけにはいかないだろう」
当人に言えば、余計なお世話だと顔をしかめられたに違いないが、クライアは深々と頭を垂れて感謝の言葉を述べてきた。
「ありがとうございます」
「なに、乗りかかった船だ。気にするな」
俺はなるべく爽やかに見える笑みを浮かべつつ、ひらひらと手を振る。実際、俺は鬼界に残ることについてクライアに恩を売るつもりはなかった。クライアから聞かれなければ、わざわざ「お前たちのためでもある」なんて話すこともなかっただろう。
そんなことより、俺が心配なのはクリムトが回復した後のことである。
姉であるクライアは島抜けをして御剣家に戻れない身だ。俺はそれを利用してクライアを懐に抱え込むつもりだが、それをクリムトが黙って見ているとは思えない。
まず間違いなく面倒なことになるだろう。まあ、あいつが邪魔をするなら力ずくで排除するだけなのだが、それをすればクライアとの関係にひびが入ってしまう。
せっかくここまで穏便に恩を売り続け、向こうからも好意的な反応を引き出せていたのだ。それをクリムトのせいで台無しにされるのはごめんである。
クライアから言い含めさせることも考えたが、さすがに事が事なだけに、クリムトも素直に姉の言葉を聞き入れたりはしないだろう。
ふむ、と腕を組んで考え込む。
クリムトはあの鬼人の姉弟を気にかけていたようだし、ふたりの護衛役として鬼界に残るよう誘導してみるか。なんなら姉弟の方と話をつけてもいい。ふたりがクリムトを信頼しているのは傍目にも明らかなので、積極的に協力してくれるに違いない――そんな愚にもつかないことをあれこれ考えていると、クライアが真剣な表情で語りかけてきた。
「空殿――いえ、空様」
「……んん?」
不意にこちらへの呼びかけを切り替えるクライア。俺は聞きなれない呼びかけに戸惑って目を瞬かせる。
こちらの困惑に気づいていないわけでもないだろうに、クライアはいささか大げさなくらい姿勢を正して言葉を続けた。
「遅まきながら、此度の深甚たるご助力に心からの感謝を捧げます。この身が生きて弟と再会できたのは、ひとえに御身のお力添えあったればこそ。この御恩は終生忘れるものではございません」
急にかしこまった物言いをはじめたクライアに戸惑ったが、ひたとこちらを見つめる相手の目を見ているうちに自然と戸惑いは消えていった。
クライアの眼差しは真剣そのもので、悪ふざけとかお芝居とか、そういった気振りは微塵も感じられない。
おりしもクリムトが目を覚まし、命の危機を脱したところである。クライアは心に期するものがあって俺を捜していたのだろう。ウルスラから聞いた話も、クライアの背を押す一助になったのかもしれない。
そんな俺の推測を肯定するように、クライアはゆっくりとその場に膝をつき、御剣家当主に対してそうするように臣下の礼をとった。