第百十四話 初代剣聖、そして
御剣家の始祖。幻想一刀流の創始者。三百年の昔、鬼神を封じて世界を救った英雄。
初代剣聖 御剣一真。
その名を、もちろん俺は知っていた。小さい頃から耳にたこができるくらい聞かされた名前である。
ゆえに、その名が鬼界において語り継がれていることを不思議には思わなかった。鬼人族から見れば、鬼神を封じた初代剣聖は忌まわしい存在に違いない。
問題があるとすれば、それは「裏切り者」という表現だ。裏切りという言葉は、ただ敗北した相手には使わない。一度は同じ陣営に属した相手にのみ向けられる言葉である。
鬼人族であるソザイが御剣一真を裏切り者と罵ったということは、初代剣聖はどこかで鬼人族と力を合わせて戦ったことがあったのだろう。
その相手はおそらく幻想種。つまり、初代剣聖もまた、光神教の経典で述べられていた幻葬の志士のひとりであったと思われる。
経典では幻葬の志士について「幻想種に挑み、元凶たる蛇を葬って世を救わんと志した者たち」と記されていた。してみると、初代剣聖と光神教の聖女ソフィア、それに聖女と共に蛇を封じた神無の戦士とやらは、かなり近しい間柄だったのではあるまいか。
もっとも、皇帝アマデウス二世によれば、光神教は幻想種を生み出す大地を神と崇めた者たちとのことだった。その聖女であるところのソフィア・アズライトが幻想種を封じた、という伝説は明らかに皇帝の話と矛盾している。
皇帝が間違っているのか、それとも聖女の伝説の方が間違っているのか。あるいは両者とも間違っており、まったく違う真実が隠されているのか。
この謎が解き明かされたとき、三百年前の真相も明らかになるのだろう。ふと、そんな考えが脳裏をよぎった。
――そのとき。
『いつまで寝転がっているつもりだ』
聞きおぼえのない、それでいて何故か耳に馴染んだ声が聞こえてきた。
同時に、ひとりの剣士の姿が自然と頭の中に浮かびあがってくる。
若く精悍な顔つき。鋭く怜悧な眼差し。立ち居振る舞いに隙はなく、見ているだけで人の上に立つ者の威厳と品格が伝わってきた。
年の頃は二十歳前後だろう。髪と目の色は大陸東部の血を思わせる黒。良く見れば端正といってよい顔立ちをしているが、眉間にきざまれた深いしわが剣士の印象を気難しいものにしていた、
好悪は別として、一目見れば忘れることはないだろう印象的な姿である。
だが、俺の記憶にこの人物は存在しない。もちろん声をかけられたこともない。
それなのに、確かに知っていると思えるこの感覚にはおぼえがあった。これは、カタラン砂漠でベヒモスと対峙した際、ソウルイーターの記憶を垣間見たときと同じである……
◆◆◆
「……兄上。鳩尾にこれ以上ない一撃を叩き込んで地に這わせた相手に対し、そのおっしゃりようはあまりに無体ではありませぬか?」
砂まみれになって地面に倒れ込んだ少年があわれっぽい声をあげる。
これに対し、少年に兄上と呼ばれた人物は淡々とした口調で応じた。
「愚か者。その気になればたやすく躱せたくせに、稽古が長引くのを厭うてわざと打たせたであろう。私が気づかぬと思ったか」
「滅相もない! 兄上相手にそのような小細工を弄するはずがありましょうか! そもそも、兄上の鋭き鋒鋩をたやすく躱せる者など、青林島広しといえど、どこにもおりませぬ!」
少年は兄の腕をさかんに褒めたたえた。そこには若干兄へのご機嫌取りの色が含まれていたが、内容自体はまごうことなき少年の本心である。
だが、世辞を言われた側はまったく意に介さず、やはり淡々と応じた。
「それだけ力を込めて語れる余力があるのなら、鍛錬を続けるのに支障はあるまい。構えるがいい」
「……は。かしこまりました」
少年はしぶしぶ立ち上がる。これ以上ねばっても無駄だ、と長年の兄弟付き合いから察したのである。
そんな少年を見て、兄はかすかに嘆息した。
「剣才だけで言えば、私よりそなたの方がずっと上だ。それが実力に反映されていないのは、鍛錬に費やした時間と熱意の差にすぎぬ」
自分と同じ時間、同じ熱意で鍛錬すれば、弟は軽々と自分を超えていくだろう。兄はそのことをごく当然のこととして受け入れていた。
天賦の才。弟が秘めているのはそう呼ばれる類のものである。
だが、どれだけ偉大な才能でも、秘めているだけでは泥だらけの原石とかわらない。宝石のごとき才能を発揮するためには、泥を払い落とし、原石を磨き上げなければならないのだ。
「父上と叔父上が幻想種に討たれてはや三月。今や御剣家の男は私とそなたのふたりのみだ。我らはこれからふたりで御剣家を盛り立てていかねばならぬのだぞ」
「そして、父上たちと同じように儺儺式使いどもに捨て駒にされるのですか?」
少年の反問を聞くや、兄の眉間のしわがぴくりと揺れた。
少年は兄の返事を待たずに言葉を続ける。その口調は嫌悪に満ち、吐き捨てるように荒々しかった。むろん、それは眼前の兄に向けた感情ではない。
「人の身で悪鬼妖魔を打ち払うことこそ方相氏の理念? それを実現する者こそ儺儺式使いである? は! おためごかしも甚だしい! 儺儺式を修めていない者たちを盾として利用し、最後のとどめだけをかっさらうのが儺儺式使いどものやり方ではないですか! 一将功成りて万骨枯るとは、けだし名言です!」
溜まった不満を吐き出したことで、かえって感情が高ぶったのか、少年の口はなおも止まらなかった。
「そも、儺儺式は鬼人を殺すことに特化した剣。幻想種を相手にしてはそこらの野良剣術と大して違いはありますまい。その証拠に、先の戦いで儺儺式使いどもの礙牢はまったく効果がなく、連中も幻想種によって手ひどく痛めつけられております。次に幻想種が出現したとき、方相氏の使命を果たすことができるかどうか怪しいものです」
そのような状況下で、修得に二十年、三十年とかかる儺儺式の鍛錬をすることにどれだけの意味があるのだろう。少年はそう思うのである。
もっとも、ではどうすればいいのかと問われても確たる答えは出せない。
儺儺式では頻発する幻想災害に対処できないとわかっているが、代わりとなる力も存在しないのだ。
当然といえば当然である。人の身で幻想種と渡り合えるような力など、この世にあるはずがないのだから。
「――落ち着いたか?」
少年が言葉を途切れさせてからゆっくり十を数えた後、兄は静かに問いかけた。
少年はこくりとうなずき、申し訳なさそうに頭を下げる。
「申し訳ございません、兄上。繰り言を申しました」
自分が考える程度のこと、兄はとうの昔にわきまえているに違いない、と少年は思う。
すべてを承知して、その上で兄は鍛錬を続けているのだ。それがどれだけ小さな可能性であっても、ありもしない『力』を夢想するよりは意味があると信じて。
父と叔父の死以来、眉間からしわが消えなくなってしまった兄 御剣一真の苦衷を思い、少年は真剣な眼差しで木刀を構える。
ただでさえ双肩に重責を担っている兄に対し、己まで寄りかかってしまうわけにはいかない。
方相氏のためではなく、兄のためだと思えば、意味がないと思える鍛錬にも本気になれるというものだった。