第百十二話 悩み
陽炎のように頼りない鬼界の太陽が沈み、夜の帳に包まれた大興山。
砦の一角で夜風に吹かれながら、ウルスラ・ウトガルザはひとり自分の悩みと向かい合っていた。
クリムトの口から聞かされた光神教と御剣家の結びつき。方相氏の長である蔚塁が父の仇であった事実。また、それ以外に鬼界で見聞きした情報の数々。
そういったものをまとめていくと、否応なしに父の死に隠された真相が見えてくる。
父を死に追いやったのは得体の知れぬ四ツ目の鬼人などではなく、方相氏、引いては光神教だった。であれば、光神教と裏でつながっていた御剣家が無関係だったとは考えにくい。
直接的な指示か、あるいは間接的な黙認か。いずれにせよ、蔚塁による司寇殺害に対し、当主の式部は何らかの許可を与えたのではないか。
ウルスラの脳裏に、先の戦闘における蔚塁の言葉がよぎる。
『この身のみを仇と信じ、父の後を追うがよい。それが仇討ちのために生涯を費やした汝への、せめてもの手向けである』
改めて考えてみると、あの言葉は蔚塁以外に父の死に関与していた者の存在を示唆していたように思える。
このことに思い至ったとき、真っ先にウルスラが考えたのは、今すぐ鬼ヶ島に取って返して主君に事の真偽を問いただすことだった。
だが、クリムトの話には証拠がない。式部が否と言えば、ウルスラには追及する術がないのである。
真相を究明しようと思えば、光神教についてくわしく調べる必要があった。
その結果、御剣家とのつながりが見つかればそれでよし。仮に見つからなかったとしても、それはそれで蔚塁の話が偽りだったと判断する根拠になる。
ウルスラはそうやって自分が採るべき行動を明確化したが、問題はそれを実行に移すことができるか否かだった。
服の上から左肩にそっと触れる。途端、肩から胸にかけてピリッと鋭い痛みが走り、ウルスラは顔をしかめた。
それはつい先日、蔚塁によって斬り裂かれた傷痕である。空のおかげで傷は塞がっていたが、痛みの残滓はこうして身体に刻まれている。
本来であれば致命傷になっていてもおかしくなかった深手だ。それがこの程度の痛みで済んでいるのだから有難いかぎりなのだが、それでも戦闘となればまだまだ厳しい。
空装を使用したせいで多くの血を失い、ときおり身体がふらつくこともある。こんな体調で鬼界に留まり、光神教について調べたところで成果が出せるとは思えない。
また、体調以前に、ウルスラの任務は鬼界に入った空とクライアに同行することであり、ふたりを放って鬼界を歩き回るわけにもいかなかった。
いかに御剣家への疑念があるとはいえ、何の確証もなしに青林旗士としての責務を投げ捨てることはできない。今日までウルスラの目的意識の大半は父の仇討ちに割かれていたが、それでも御剣家への忠誠の念や、鬼門を守る青林旗士としての誇りは持ち合わせているのである。
あれやこれやと考えた末、ウルスラは、はふ、と気の抜けた息をはいた。
本音を言えば、空たちには鬼界に残って光神教の調査に協力してほしい。そうすれば、ウルスラは御剣家の命令に反することなく目的を遂げることができるからだ。
しかし――
「そんな自分勝手なことは言えないよね。ただでさえ命を助けてもらったばかりなのに」
御剣家がいかなる謎を抱えていようとも、鬼ヶ島を追放された空にとってはどうでもいいことに違いない。
自分の個人的な事情のために恩人に無理を強いることはできない。ウルスラはそう思ったが、その一方で空に助力を求める方法について考えがないわけでもなかった。
ただ頭を下げて頼むだけでは自分勝手のそしりを免れない。であれば、きちんと対価を払って依頼するという形をとればよい。
空に労を強いるかわりに、ウルスラからもきちんと利を提供するのだ。
空はクライアを助けた理由について「友情や親切心のためではない。対価はきちんといただく」と言っていた。クリムトを助けたことでクライアの望みはかなったわけだから、ここでウルスラがクライアと同等の対価を示すことができれば、空の協力を得ることができるかもしれない。
――問題があるとすれば、それはウルスラが空の納得する対価を提示できるか、である。
ウルスラは右手で前髪をいじる。
クライアが空の助力を得るためにいかなる対価を示したのか、ウルスラは直接聞いたわけではない。だが、クライアの置かれた立場や、空に対する言動などを見ていれば、おおよその見当はつく。
端的に言えば、全て、であろう。
剣士としての全て。
女性としての全て。
島抜けという最大級の罪を犯し、誰ひとり頼れる者のいない状況で、クライアは己の全てを捧げるかわりに空の助力を求め、空はそれに応じた――少なくとも、ウルスラはそのように判断していた。
膝枕をしたり、常に一歩後ろに控えていたり、空に心を許しきったクライアを見ていると、そうとしか思えない。
空の方からそれを強要したというなら、ウルスラとしても思うところはある。しかし、クライアの言動を見るかぎり、弟のために心ならずも我が身を捧げたという悲愴感は感じられない。それはもう欠片も感じられない。
クライアやクリムトのために何もできずにいたウルスラは、自分がクライアの代わりに空に対価を払うことも考えていたのだが、今となっては余計なお世話だったと理解している。
ちなみに、身代わりになる意思があったという意味では、クライアと同じ対価を払う覚悟はすでについているとも言える。言えるのだが――ウルスラは髪をいじっていた手を己の頬にあてた。空装使用の影響で身体に血が不足しているはずなのに、頬はそれとわかるくらいに熱を帯びている。
きっと、今の自分は林檎のように頬を赤くしているのだろう、とウルスラは思った。
以前、同じことを考えたときには起こらなかった反応である。
以前と今と何が違うのか、その自覚がないわけではないだけに戸惑いが強い。
無意識のうちに指で唇をなぞっていることに気づいたウルスラは、慌てて唇から手を離した。そして、先刻と同じように、はふ、と気の抜けた息をはいた。