第百十一話 真実と疑念
俺がクライアたちと病室に戻ったとき、クリムトは上半身を起こして水を飲んでいる最中だった。
右手を失い、左手一本で木椀を持つクリムトの隣では、木椀から水がこぼれないようにランがクリムトを支えている。
宿敵である鬼人への嫌悪感からか、それとも単なる気恥ずかしさからか、クリムトは若干顔をしかめていたが、ランを振り払おうとはしていない。
一方のランはと言えば、クリムトの態度に気づいていないわけではないだろうに、顔中で喜びをあらわしていた。もともと、この鬼人の少女は実に甲斐甲斐しくクリムトの世話をしていたが、その努力が報われたことを心底喜んでいるようである。
たぶん、クリムトもそれを感じ取っているから、ランのことを邪険にできないのだろう。それでも居心地の悪さはあるようで、俺たちの姿に気づいたクリムトは、どことなく安堵しているように見えた。
それを見た俺は、さて何と声をかけようかと言葉に迷う。なにせ、俺とクリムトが最後に顔を合わせたのは、ティティスの森で俺が向こうの腕をへし折り、姉を人質にとったときだ。
あの後、鬼ヶ島に帰郷した際にちらっとクリムトの姿を見かけてはいたが、まともに言葉を交わしたのはあのとき以来になる。クリムトが五体満足であれば、この場で殺し合いが始まってもおかしくなかった。
――まあ、俺を見て驚かないということは、クライアから大体の経緯は聞いているのだろうけど。
そんなことを考えていると、クリムトが持っていた木椀をランにあずけ、ゆっくりと口をひらいた。
「……世話になった、みたいだな……いちおう、礼は言っておく」
「はえ?」
思わず口から間の抜けた声がもれた。まさかクリムトの第一声が俺への感謝の言葉とは、いったい誰に予測できるだろう。
本気で意表を突かれて目を瞬かせていると、クリムトが舌打ちしそうな顔で俺を見た。
「なんだ……その、間の抜けた顔は……?」
「ああ、すまん。お前に礼を言われたのが、あんまりにも意外だったもんで」
包み隠さず本心を述べる俺。
それを聞いたクリムトは、今度ははっきり舌打ちの音をたてた。
「……お前に言いたいことは、山ほどあるが……それでも、姉さんはお前に救われたと言った……なら、感謝くらいするさ。もちろん、お前にやられた借りは、いずれ返すけどな……」
そう言うと、クリムトは苦し気にけふけふとせき込んだ。
ランが慌てたように持っていた木椀をクリムトに差し出し、クリムトの口につける。クリムトは一瞬それを払いのけようとしたようだったが、心配そうに己を見やるランの眼差しに気圧されたように、おとなしく椀に残っていた水を飲みほした。
そんなふたりのやり取りを無言で眺めていると、クリムトが険のある目つきで睨んでくる。
「……なんだよ?」
「いいや、別に何も?」
「……ふん」
クリムトは俺の態度に何か言いたげだったが、忌々しそうに鼻から息を吐きだすだけで、それ以上の追及はしてこなかった。
余計なことで力を使いたくない、と考えたのだろう。まだまだ体力が戻っていないことは、誰よりも本人が自覚しているだろうし。
「……姉さんから、いちおうの経緯は聞いてる……今のうちに、俺が知っていることを……伝えておく……」
そう前置きしてから、クリムトは鬼界での出来事を話し始めた。
今のクリムトは長話ができる体調ではなく、伝えられた内容はかなり端折られたものだったが、それでもクリムトの身に何が起きたかはおおよそ把握することができた。
俺が知っていたこともあれば、知らなかったこともあるが、やはり特筆すべきは光神教と御剣家が裏でつながっていた事実であろう。
方相氏という存在も初耳だ。先の鬼面の剣士がその長である、というのも驚いた。あの無の剣技の使い手が方相氏の長であり、どうやら剣聖とも知己であるらしい。となると、俺と対峙したときに「式部」と口走ったのは、俺の顔に父親の面影を見出したからか。
若干の腹立たしさをおぼえつつ、クリムトから聞いた情報を頭の中でまとめていると、不意にクリムトの上半身がぐらりと揺れた。
どうやら今の説明だけでかなり体力を使ったらしく、疲弊が色濃く顔にあらわれている。
ランとクライアがクリムトを寝かせにかかったので、俺とウルスラは病室から出ていくことにした。聞くべきことはだいたい聞けた。
クリムトの容態についてはあまり心配していない。どうあれ、意識は取り戻したのだ。ここからの回復は早いだろう、と予想がついたからである。
そんなことをあれこれ考えていると、病室の扉が開いてクライアが外に出てきた。俺たちの姿を見つけて歩み寄ってくるクライアに声をかける。
「クリムトについていなくていいのか?」
「ラン殿がいますので、大丈夫でしょう」
さして考える風もなくクライアは応じる。俺たちが大興山に来る以前からクリムトの面倒をみていた相手だから、クリムトへの害意を持っていないことは間違いないが、それでも鬼人は鬼人だ。
御剣家の掟に従い、盲目的に鬼人に斬りかかった頃のクライアであれば、弟の身を鬼人に任せるようなことはしなかっただろう。その意味ではクライアの価値観にもだいぶ変化が出てきているようである。
なお、俺とクライアが話をしている間、ウルスラはずっと黙ったままだった。もっと言えば、クリムトの話を聞いているときからずっと、ウルスラはうつむきがちに何かを考え続けている。
その沈黙は見る者に凄みを感じさせるもので、俺にせよ、クライアにせよ、ウルスラに声をかけることができず、黙って見つめることしかできなかった。
ウルスラの沈思の内容は、間違いなく光神教に関することであろう。
父の仇である蔚塁は方相氏の長であり、光神教の一員だった。そして、その光神教は裏で御剣家とつながっていた。
一口に「つながっている」と言っても、両者にどの程度の結びつきがあったかまでは分かっていない。クリムトの情報はそこまで詳細なものではなかった。
ただ、光神教と御剣家がそれなりの頻度で接触していたことは確実であるように思われる。
鬼人族と共存し、鬼界で暮らしている光神教。その光神教と接触していたからには、御剣家は鬼界についてもっと多くの情報をつかんでいたはずである。
だが、その情報は公にされていない。クリムトによれば、蔚塁は光神教と御剣家のつながりを「御剣の当主にとって一子相伝の秘事」と言っていたそうだから、へたをすると父式部しか知らなかったことになる。
――問題はここなのだ。
いかなる理由があって両者の間につながりができ、また、そのつながりが一子相伝の秘事になったのかは知らない。
だが、滅鬼封神の掟を掲げる御剣家において、鬼界との結びつきを隠し続けてきた御剣家当主の行いは、それを知らない旗士から見れば利敵行為に他ならない。
敵を利する行為は大きな罪であり、厳罰に処すべき犯罪である。
当主、剣聖といえども青林旗士のひとりには違いない。そして、青林旗士による犯罪が発覚したのなら、それを取り締まるのは司寇の役目だ。
そう。亡くなったウルスラの父親が就いていた司寇の役目なのである。
そして、ウルスラの父は仮借ない取り調べで同輩の旗士に恨まれるくらい、役目に熱心な人物だった……




