第百九話 それは炎のように
身体から血が流れ出ていくたび、己の中から熱が失われていくのがわかった。
かわりに身体を押しつつむのは冷たい痺れである。
冬場に長時間の水垢離をすれば、あるいは氷室の中に閉じこもれば、こんな感覚になるのかもしれない。
手足の先端から這いのぼってくるこの痺れが心臓に達したとき、自分は死ぬだろう――ウルスラはどこか他人事のようにそう考えていた。
ゆっくりと忍び寄ってくる死に対してウルスラが恐怖をおぼえないのは、自分の状態がすでに手遅れであることを理解し、覚悟を決めているからである。
五体満足の状態で放っても瀕死になる大技を、左肩を砕かれた状態で放ったのだ。これで未練や恨み言を述べるようでは士道不覚悟というものだろう。
むしろ、ウルスラは自分がまだ生きていることを不思議に思っていた。
――空がかばってくれたとはいえ、空装の対価で即死していてもおかしくなかったんだけど……もしかしたら、雷花が僕の知らないところで何かしていたのかな?
そう思ったが、この疑問に対する同源存在の答えはなかった。答える意思がないのか、答える余力がないのかはわからない。だが、疑問の答えがいずれであるにせよ、それでウルスラの結末が変わるわけではなかった。
ウルスラは小さく息を吐き出す。
繰り返すが、ウルスラに未練や恨み言を述べるつもりはない。空装を行使したことへの後悔もない。
そもそも、あのとき空装を使わなかったら、向こうの剣がウルスラを斬っていただけのことである。その意味でウルスラは最善の選択肢を選んだのだ。強いて悔いを挙げるとすれば、それは空装を行使した決断に対してではなく、空装をもってしても仇の命に届かなかった己の未熟に対してだった。
不幸中の幸いといえるのは、父の仇はおそらく空の手にかかって果てたはず、ということである。蔚塁と名乗った剣士は恐るべき手練だったが、それでも深手を負った状態で空とまともに戦えるとは思えない。その確信が死を間近にしたウルスラに大きな安堵をもたらしていた。
最後に身をていしてかばってくれたことも含め、空には一言なりと礼を述べたかったが、それはかないそうもない。
そのことを申し訳なく思いながら、ウルスラはいよいよ迫ってきた死の気配に己を委ねようとして――
「むぶ!?」
次の瞬間、遠慮も躊躇もなしに口内に異物を差し込まれ、くぐもった悲鳴をもらした。
その異物は焼けるように熱く、それでいてひどく柔らかく、かつて感じたことのない感触にウルスラは寸前までの覚悟を忘れて混乱する。
そのせいだろう。続けて流し込まれてきた得体の知れない液体を、ウルスラは反射的に飲み込んでしまった。その直後。
「――ッ!!」
あたかも炎を飲み込んだかのように、ウルスラの体内で灼熱が弾けた。
今まさに心臓に手をかけていた冷たい痺れは、胸奥で弾けた熱によって一瞬で焼却される。息を吹き返したように心臓が早鐘を打ち、生み出された熱い血潮が痺れを打ち払いながら身体の隅々まで駆けめぐる。
我知らず、ウルスラは四肢に力を込めていた。そして、先ほどまでは凍りついたように動かなかった手足が、指の一本にいたるまでしっかり動くことを確認する。
かっかと胸が熱くなり、みるみるうちに心身が活力を取り戻していくのがわかった。
死の淵から生の盛りへ導かれる心地よさは羽化登仙のそれであり、ウルスラは歓喜に身を震わせる。
自身を蘇生させたのが、直前に流し込まれた液体であることは明らかである。ウルスラは己を救った甘露が再び流し込まれるのを待ちきれず、自ら請うように舌を動かしていた。
そして、ほどなくして流れてきたそれを、今度は自分の意思でしっかりと嚥下する。何度も、何度も。
ウルスラがはっきりと意識を覚醒させたのは、それを五度ほど繰り返した後のことだった。
◆◆◆
「蔚塁が消えた? 本当か、空?」
様々なことが同時に起きた襲撃が一段落した後、俺の前に姿をあらわしたカガリは襲撃の首謀者である鬼面の剣士――蔚塁の所在を問うてきた。
カガリたち中山軍も、あの人物にはいろいろ聞きたいことがあるようだ。まあ、これだけの規模の襲撃なのだから、首謀者を取り調べようとするのは当然であろう。
こちらとしても、あの人物には問いただしたいことが山ほどある。ウルスラの父のことはもちろん、俺と剣を交えていた刹那、剣聖の名を口にした理由はぜひとも知りたいところだ。
当然、身柄は確保している、と言いたいところなのだが――
「ああ、本当だ。あの剣士を倒した時点で、まだ玄蜂はけっこう残ってたんでな。こっちは重傷者も出ていたから、捕まえるのを後回しにしていたら、いつの間にか」
俺はそう言って肩をすくめる。
言い訳になるが、蔚塁が気絶するまで俺はきちんと注意を向けていた。蔚塁が気絶した後、倒れたウルスラを守るために玄蜂の排除に集中していたら、姿が消えていたのである。
ウルスラによって重傷を負わされ、おまけに俺の勁砲を食らった直後だ。自力で逃げ出したとは考えにくい。隠れていた仲間がいたのか、あるいは玄蜂に襲われた可能性もある。
おそらく玄蜂を大興山に誘導したのは蔚塁である。であれば、玄蜂が気絶した蔚塁を狙う理由は十分にあるだろう。それでなくとも、意識を失った鬼人など魔物にとっては格好のエサだろうし。
こちらの話を聞いたカガリは残念そうにチッと舌打ちしたが、いないものは仕方ないと考えたのか、すぐに話を転じた。
「そうか。ま、何事もそうそう都合よくは運ばないってことだな。それはそうと、さっきずいぶんけったいな女の悲鳴が聞こえてきたけど、あれは何だったんだ?」
「……傷が深くて、少々意識が混濁していたらしい。特に問題はなかったから気にしないでくれ」
俺はそういって相手の興味を遮断する。
カガリはそんな俺を何やら面白そうな顔で眺めていたが、へたにつついても益はないと判断したらしく、悲鳴についてそれ以上問おうとはしなかった。