第百八話 面影
突然、目の前に城壁がそびえたった――その瞬間、蔚塁が抱いた感覚を強いて言葉にすれば、そういうものになる。
それほどに黒衣の青年から放たれる戦意は重厚だった。
先ほど玄蜂を蹴散らしていたもうひとりの心装使い。向かい合っているだけで肌がひりつく重圧。今も滾々とあふれ出ている勁は濃密でその底を知らず、勁量、勁質、いずれもウルスラをしのいでいる。
この青年は先に戦った中山の王弟カガリに優るとも劣らない武威の持ち主だ。それはつまり、蔚塁の生涯で五指に入るレベルの強敵であることを意味する。
何者だ、などと問うたりはしない。そんな悠長な真似が許される相手ではない。
カガリと同等ということは、蔚塁の礙牢が効かない相手ということを意味する。先手を取る以外に勝ち目はない。
蔚塁は瞬きひとつにも満たない時間でそれだけの思考を働かせた。
そして、ウルスラめがけて放った聖喰をそのまま青年への攻撃に転じ、紫電の一閃を叩き込む。
蔚塁を斬るよりウルスラをかばうことを優先した青年は、この攻撃への対応が遅れた。左手に握った心装ではなく、己の右手で蔚塁の斬撃を受けとめようとする。
あるいは、青年は蔚塁の攻撃への対応が遅れたのではなく、素手で十分に防ぎ得ると判断したのかもしれない。これほどの勁の使い手だ。身体を覆う防壁強度は金剛石にも匹敵しよう。
もしそうであれば蔚塁にとっては得難い幸運、相手にとっては致命的な誤断といえた。どれだけ分厚い勁で身体を鎧おうとも、聖喰を防ぐことはできないからだ。
事実、蔚塁の一刀は濃密な勁で覆われた青年の右手をたやすく斬り裂き、深々と断ち割った。蔚塁の刃は肉を裂き、骨を割り、右の肘を砕き割る。
今や青年の右肘はほとんど皮だけでつながっている状態だった。むろん、剣を振るうことなど出来るはずもなく、剣士としての力は半減したと見ていいだろう。
少なくとも蔚塁はそう考え――相手の目を見て、己の考えが誤っていたことを悟る。
青年の双眸には驚愕も苦痛も憤怒もない。そこにあるのは、ぞっとするほどに研ぎ澄まされた戦意だけだった。
同時に、蔚塁は間近で見た青年の顔に無視しえぬ特徴を見出す。その口からかすかに「式部」という声がもれた。
次の瞬間、青年の口がぱかりとひらかれ、砲声のごとき大喝が発される。
「喝ッ!!」
「ぐ――ッ!」
それは勁砲と呼ばれる声による勁技だった。
蔚塁の刀が自由に動けば、聖喰で不可視の砲撃を斬り裂くこともできただろう。しかし、相手の腕を断ち割った直後に勁技を浴びせられては防ぎようがない。
――こちらの先手を心装で弾き返すのではなく、あえて素手で受け止めたのはこのためか!
青年は己の勁を過信したのではなく、明確な計算のもとに右腕を捨てたのだ。
蔚塁がそのことに思い至った瞬間、鋼鉄の塊を叩きつけられたような衝撃が全身に走り、顔を覆っていた鬼面が砕け散る。
蔚塁はへたにその場でこらえようとせず、逆に自分から後方に飛んだ。そうすることで少しでも勁技の衝撃をやわらげようとしたのである。
その判断はこの場における最善手であったが、それでも叩きつけられた圧力は蔚塁の全身を軋ませた。ただでさえウルスラの一刀を浴びて深手を負っていたところに、この衝撃である。とうてい耐えられるものではない。
蔚塁は口から血をまき散らしながら宙を飛び、そのまま砦の壁面に叩きつけられた。わずかな間をおいて、かふ、とさらに大量の血が口から吐き出される。
大量の出血は意識の混濁を招き、蔚塁はそのまま意識を失いそうになる。だが、完全に意識を失う寸前、蔚塁は不甲斐ない己に喝を入れ、半ば無理やり顔をあげた。
視線の先には右手で心装を握った青年の姿が映し出されている。左手ではない。今しがた、蔚塁がほとんど断ち切ったはずの右手で心装を握っている。
方相氏の長は、ばかな、と内心でうめいた。
だが、それで現実が変わるわけでもない。
青年はそのまま心装を振るい、勁技を放った。蔚塁に向けてではなく、空中から殺到してきた玄蜂に向けて。
斬り裂かれた玄蜂が体液をまき散らしながら宙を舞う。青年の動きも、勁技の威力も、深手を負った者のそれではない。蔚塁が勁技で吹き飛ばされ、壁に叩きつけられたごくごく短時間のうちに、青年はあの深手を癒してのけたのだ。
おそらくは同源存在の能力によるものだろうが、だとしても何という出鱈目さか。
蔚塁は血にまみれた唇を笑みの形に歪める。
カガリといい、ウルスラといい、あの青年といい、どうして年齢に見合わない使い手たちがこの時期、この場所に集ったのか。偶然なのだとすれば、自分は――光神教はずいぶんと運がない。蔚塁はそう思い、場違いなおかしさにとらわれたのである。
と、ここで先刻の建物からさらにひとりの剣士が姿をあらわし、青年と共に玄蜂と戦い始めた。こちらもかなりの手練れであることは明らかであったが、それよりも蔚塁の目を引いたのは新手の剣士の容姿である。
遠目にもあざやかな白の髪。それは先ごろ蔚塁がこの地で斬り捨てたクルトという名の青林旗士と酷似していた。
その事実が蔚塁に亡き振斗との会話を思い起こさせる。
『し、しかし、現にクルトはここにおりまする! 崋山が反乱を起こしたこの時期に、青林旗士がたまさか大興山にやってくるなど偶然にしては度がすぎておりましょう。式部の命令以外に考えられませぬ!』
『まったくの偶然とはいわぬ。おそらく、何らかの形で式部の意思がからんでいよう。だが、それは秘事を明かさずとも出来ること。かえりみよ、振斗。この若者の言動は本当に秘事を知る者のそれであったのか?』
何らかの形で式部の意思がからんでいる――自らが口にしたその言葉と、眼前の光景が重なりあったとき、蔚塁の脳裏に閃光が走った。
「……そうか。そういうことか、式部! すべては貴様が描いた絵図面……であれば、要となるのは、あの……ぐぅ!?」
自らの着想に思わず身体を起こそうとした蔚塁は、しかし、果たせずにそのまま床に崩れ落ちた。積み重なった疲労と、度重なった負傷は、蔚塁から自力で立ち上がるだけの力さえ奪っていた。
視界が闇に覆われていくのを感じた蔚塁は、今に至るもなお己の前に立ちはだかる御剣式部のことを思い、心のうちを無念で染めた。