第百七話 葉見ず花見ず
彼岸花と呼ばれる植物には奇妙な特徴がある。
通常、植物には種から芽吹き、葉を茂らせ、花を咲かせ、実をつけるという成長周期がある。
もちろん、これはすべての植物に当てはまるものではなく、異なる周期を持つ種も存在するのだが、彼岸花はそういった例外的な種の中でもさらに特異な周期を持つことで知られていた。
その特徴とは「葉が茂るより先に花が咲き、花が散った後に葉が茂る」というもの。花は葉を見ることができず、葉は花を見ることができない――葉見ず花見ずとは、この特徴からつけられた彼岸花の別称である。
ウルスラの同源存在たる雷花は彼岸花の化身である。必然的に、空装も彼岸花の在り方に色濃い影響を受けていた。
通常、植物が葉を茂らせるのは陽光によって栄養をたくわえるためだ。このたくわえられた栄養をもとにして花が咲き、実をつける。
しかし、彼岸花はこの順序が逆になる。「葉によって栄養をたくわえる」という原因より先に「花が咲く」という結果が生じるのだ。
この特異な成長の仕方を斬撃に転化したのがウルスラの空装だった。
すなわち「刀を振るう」という原因より先に「刀で斬られた」という結果を生じさせる反転剣技。それがウルスラの空装の正体である。
一度放てば相手の防御を無視して敵を斬り裂く必中剣技は、蔚塁の推測どおり、何の制約もなしに放てるものではなかった。
空装の対価は使用者の血である。死者の血を吸って咲くという俗説そのままに、雷花は宿主の血を吸って妖しの斬撃を放つ。
雷花が欲する血の量は全身の血液の二割を超え、これは人間にとって致死量に近い。
青林旗士といえど人間であるには違いなく、短時間で大量の血を失えば死に至る。一度空装を行使したウルスラは、良くて半死半生、悪ければその場で命を落とす。運よく生き残ったとしても戦闘継続は困難であり、二度目の使用に至っては必ず死ぬと断言できる。
ウルスラにとって、空装は文字通りの意味で最後の切り札なのである。
また、制約は斬撃の距離、威力、精度にも及んでおり、ウルスラが蔚塁の聖喰を我が身で受けた理由もここにあった。今のウルスラの力では、空装の有効範囲はせいぜい刀身二本分。確実に敵を捉えるためには限界まで引きつける必要があったのである。
相打ち覚悟で放った決死の一刀は、狙いあやまたず父の仇をとらえ、深々と斬り裂いた。
――だが、それだけだった。敵の命を奪うには至らなかった。
こふ、とウルスラの口から血が吐き出される。
視線の先では鬼面の剣士がゆっくりとこちらに近づいてくるところだった。その足取りは重く、かなりの手傷を負わせたことは間違いなかったが、それでも致命傷には至っていない。
ウルスラはギリっと奥歯を噛みしめる。この遭遇があと三年、いや、二年遅ければ、敵の心臓を直接斬りつけてやったのに、と口惜しく思う。残念ながら、今のウルスラではそこまでの精度は望めない。
そうしている間にも敵は距離を詰めてくる。
どうやらウルスラの次撃を警戒しているらしく、歩みはひどく慎重だったが、それに乗じるだけの余力はすでにウルスラにはない。視界は霧でも出たようにかすみ、身体は板金鎧を着せられたように重く、左肩からは焼けた鉄串を突き立てられているような激痛が繰り返し襲ってくる。心装を手放さずに立っているだけで精一杯だった。
無言で立ち尽くすウルスラ。血の気を失ったその顔と、かすかな身体のふらつきを見てとって、敵もウルスラが戦闘力を失ったことに気づいたようだ。
それで余裕を取り戻したのか、それともウルスラが口をきけるうちに訊ねたいことがあったのか、はじめて鬼面の剣士は声を発した。
「見事な一刀であった、若き旗士よ。我が名は蔚塁。そちらも名乗るがよい。言い残すことがあれば聞き届けてつかわす」
その声にはいささかの乱れもなかった。ウルスラには及ばないまでも、かなりの手傷を負っているはずなのだが、声音からそのことを読み取るのは難しい。
驚くべき胆力といえた。達人と評するに足る剣技といい、常のウルスラであれば、たとえ敵であっても最低限の敬意は示したであろう。
だが、眼前にいるのは父の仇だ。ウルスラは当然のように相手の問いを無視しようとしたが、不意にある衝動に駆られ、反射的に口をひらいていた。
「……ウルスラ・ウトガルザ。かつて貴様が殺したウルリヒ・ウトガルザの娘だ」
その返答はたしかに相手の意表を突いたようだった。蔚塁と名乗った剣士の言葉が止まり、驚きとも戸惑いともつかない気配が鬼面の向こうから伝わってくる。
ややあって発された蔚塁の言葉は、奇妙に平坦な響きを帯びていた。
「――そうか、あのときの幼子か。この身を父の仇と恨み、仇討ちのために長き年月を剣の研鑽に費やしたのだとすれば、転に反応できたことも得心がいく」
「認めるのか、自分が仇だと」
「認めよう。この身のみを仇と信じ、父の後を追うがよい。それが仇討ちのために生涯を費やした汝への、せめてもの手向けである」
それを聞いたウルスラは相手の言葉に違和感をおぼえたが、蔚塁はそれ以上言葉を続けようとはしなかった。
次の瞬間、もはや問答は無用とばかりに蔚塁が動く。
踏み込みと斬撃はほぼ同時。ウルスラの血に塗れた刀身が視界一杯に迫り、避けようのない死の気配が全身をわしづかみにする。
瞬きひとつの時間が過ぎた後、自分の頭と胴は泣き別れしているに違いない。ウルスラはなんとか抗おうとしたが、身体はぴくりとも動かない。
――ならば、せめて目だけはそらすまい。最後の瞬間まで仇の顔を睨み続けよう。
ウルスラはそう思い、実際にそのとおりにした。
だから、見逃すことはなかった。黒衣をまとった同期生が自分と蔚塁の間に割って入ってくる、その瞬間を。