第百五話 秘剣
耳を焦がすような擦過音は敵がウルスラの一刀を受け流した音だった。
敵――鬼面の剣士が持つ刀は鏡のごとき光沢を放つ業物であったが、それでも心装と真っ向から打ち合えば耐えられるものではない。
それがわかっていたから、鬼面の剣士はウルスラの攻撃を受けとめず、受け流したのである。
瞬時の判断力と、その判断を正確に実行に移せる技量は凡人の持ち得るものではない。達人と呼ばれる者でもそうそう同じことはできまい。
単純に技量だけを見れば、自分はこの敵に及ばない。ウルスラはただ一度の打ち合いで彼我の力量差を正確に把握した。
しかし、その事実がウルスラの動きを鈍らせることはなかった。もとより、この敵が視界に入った瞬間から自分が格下であることはわかっていたからである。
――父ウルリヒ・ウトガルザを無傷で血だまりに沈めた相手が、自分より弱いわけがない!
ウルスラは鬼面をつけた侵入者を瞬きのうちに父の仇と断定していた。
何も四ツ目の仮面を見て判断したわけではない。むしろ、仮面は傍証にすぎなかった。
ウルスラが侵入者を父殺しの下手人だと判断した理由は、侵入者を取り巻く空気にある。
冬の朝、まだ日も明けやらぬ時刻に身を置いたような冷然たる気配。水面に映る月のように、目には映っていても実体はそこにはない朧な姿。血に塗れた刀をたずさえ、倒れ伏す父のかたわらに立っていた仇の記憶が、侵入者のそれとピタリと重なったのである。
気がついたときには心装を抜いて斬りかかっていた。
他の者たちは侵入者の気配の薄さで反応が遅れたが、ウルスラにとって戦意や敵意の有無は関係ない。父の仇と同じ気配をまとった相手がそこにいれば、それだけで動くことができた。父の仇を討つために積み重ねてきた年月がそれを可能にした。
逆に言えば、侵入者が父の仇と異なる気配をまとっていれば、ウルスラもまた出遅れていただろう。
侵入者の側にしてみれば、こんな相手がいることは想定外だった。それゆえ、奇襲をしかけたにもかかわらず、ウルスラに機先を制されてしまう。初撃はかろうじて受け流したとはいえ、強烈な剣勢に押されて身体が流された。
目に勁烈な光を満たしたウルスラが次撃を放とうと踏み込んでくる。
――速い。
侵入者は内心でつぶやいた。これでは礙牢を展開させる隙がない、と。
その思考を断ち切るように、ウルスラの凛とした声が侵入者の耳朶を打つ。
「幻想一刀流 中伝――閃耀!」
次の瞬間、光のごとき神速の斬撃が侵入者に襲いかかった。
◆◆◆
ウルスラの斬撃を受けた鬼面の侵入者が、勢いに抗いきれずに扉の外まで押し出されていく。あるいは、奇襲を防がれたことで狭い室内での戦いに見切りをつけ、みずから外に出たのかもしれない。
ウルスラはすぐさま侵入者の後を追って外に出た。こちらをまったく見ようともせず、目を怒らせて敵を追う姿は間違いなく激怒している者のそれである。
ウルスラが怒っている理由は、敵の仮面を見れば容易に推測できた。
もちろん、俺はのんびりとウルスラの様子を観察していたわけではない。ウルスラのおかげで初手の遅れは取り戻せたのだ。すぐにウルスラの後を追い、ふたりで敵に対処しようとした。
その動きが途中で止まった理由はふたつ。
ひとつはウルスラが助太刀を欲しているとは思えなかったこと。
もうひとつは、寒気がするような飛翔音が複数、急速に接近してくることに気づいたからである。
ヴヴヴヴヴ! と鼓膜をかきむしるように響き渡るその音が、玄蜂の翅の音であることは明白だった。
ここは山砦の最も奥まった場所にある建物だ。侵入者がこの部屋に現れた直後、魔物が殺到してきたのは偶然ではないだろう。
大興山に来る途中、ドーガは玄蜂について「死に際に悪あがきをする。臭いをつけられると四方の仲間が報復のために殺到してくる」と述べていた。
それを考えると、あの侵入者はまず独力で玄蜂を倒し、死に際の魔物にあえて臭いをつけられたのだろう。そうすれば、仲間の仇を討つために他の玄蜂が集まってくる。その状態で大興山に向かうことで中山軍の注意を魔物に引きつけ、みずからは混乱の隙を縫って本陣に乗り込むという寸法だ。
狙いは中山軍を率いるカガリの命か、それとも捕虜になったランとヤマトの救出か。
侵入者の目的がどうあれ、俺たちは無関係のはずだが――いや、侵入者がウルスラの父親の仇なのだとすれば、一概にそう言い切ることはできないか。向こうが御剣家と関わりのある相手である可能性は十分にある。
もちろん、あの侵入者がウルスラの父親とは無関係である可能性もあるのだが、そのあたりはここで俺があれこれ考えても答えは出ない。今、とりいそぎ俺がやるべきことは――
「心装励起」
間もなく殺到してくる玄蜂の群れの撃退である。
ソザイに対して「大人しくしている」と言った舌の根も乾かないうちに、という感じだが、降りかかる火の粉は払わねばならない。ウルスラを援護する意味もある。ソザイに文句があるなら、まず魔物をここまで接近させた中山軍に言ってもらおう。
俺がそう考えた直後、頭上からドシンガシンと激しい音が降ってきた。見れば、木造りの屋根が外からの圧力を受けて、めきめきと軋んでいる。どうやら玄蜂は屋根を打ち壊して中に入ってこようとしているらしい。
急造の砦の建造物では魔物の勢いに抗しきれないだろう。
「ヤマト!」
「空殿、何事ですか!?」
異変に気付いたランとクライアが緊張した面持ちで隣室から飛び出してきた。のんびりと説明している暇はないので、俺は行動をもってクライアの問いに答える。
「喰らい尽くせ、ソウルイーター」
心装を抜き放ち、頭上に向けて颯を放つ。ソザイやクライア、ランたちが止める間もない早業。
屋根は外から魔物に破られる前に、俺の勁技によって内側から爆散した。
◆◆◆
恐るべき勁の高まりを感じとった刹那、轟音と共に屋根が砕け散って勁の嵐が吹き荒れる。十を超える玄蜂が乱流に呑まれ、木の葉のように宙を舞った。
それを見た鬼面の侵入者――蔚塁は仮面の下で思わず顔をしかめる。
秘事を知った者たちを始末するべく、魔物を利用しておこなった再度の襲撃が失敗に終わったことを瞬時に悟ったのである。
まさか、カガリ以外に心装使いがふたりもいるとは誤算だった。蔚塁は内心でそうつぶやく。
光神教の秘密を知った者の中で警戒すべきはカガリのみ。そして、敵がカガリのみであれば、玄蜂を利用して死命を制することは可能である。蔚塁はそう判断していた。
拙速であることは十分に理解していたが、もともと儺儺式使いは数が少なく、大興山にやってきたのも蔚塁のみ。蔚塁が増援を呼ぶためには、西都よりもさらに東にある光神教の本殿に帰還する必要があった。
そこで教皇に事情を説明し、他の儺儺式使いを率いて取って返す、などと悠長なことをやっていれば、カガリがつかんだ情報はアズマの知るところとなり、中山全土に拡散されてしまうだろう。
そうなれば、すべては手遅れである。ゆえに、蔚塁は独力で事に当たらざるをえなかった。
蔚塁が玄蜂を集めている間、カガリがさっさと西都に戻ってしまうことも考えられたが、カガリもカガリで中山と光神教がつながっている物的証拠を探すはず、という読みが蔚塁にはあった。そのために数日は大興山に留まるであろう、と。
その読みを元にして玄蜂を集めた蔚塁の行動は、確たる根拠のない賭けに等しかったが、結果として読みはあたり、魔物と中山軍をぶつける試みは成功した。
後は混乱に乗じてカガリを探し出し、討ち取るだけ――そのはずだったのだが。
「はあああああ!!」
それを阻んだのが、今も激しく蔚塁に斬りかかってくる眼前の女剣士である。
蔚塁の切り札たる転に、寸毫の遅れもなく反応しただけで驚嘆に値するのに、その後、続けざまに繰り出してきた三つの勁技――閃耀、赫夜、炯雁はいずれも幻想一刀流の中伝に位置する技だった。
蔚塁は幻想一刀流を扱うことはできなかったが、知識としては知っている。その知識から判断するに、この相手は平旗士ではありえない。間違いなく上位旗士。それも、青林八旗を率いる旗将、副将クラスであってもおかしくない凄腕の使い手だ。
ここまで蔚塁は相手の連撃を完璧に防ぎとめていたが、逆に言えば、防ぐことしか出来ていない。相手の勁を封じ込める結界 礙牢を展開させる隙がなかった。
生身の人間が上位勁技を無傷でしのいでいる時点で、蔚塁の剣技が絶世と呼ばれる域に達していることは明白だったが、その事実はいささかも蔚塁の心を慰めない。
蔚塁は光神教の秘事を知った者たちを斬りに来たのだ。こんなところで名前も知らない旗士相手に時間を費やしている暇はない。
蔚塁は小さな呼気を吐き出し、内心で独りごちる。
なるほど、眼前の旗士は確かに強い。旗将、副将クラスであってもおかしくないだろう。
だが、言ってしまえばただそれだけだ。剣聖には、御剣式部には及ばない。
――つまり、恐れるべき何物もないということだ。
蔚塁の双眸に爛々たる輝きが満ち、射るような眼差しが眼前の敵手に向けられる。
儺儺式使いはただの人間。礙牢なしでは同源存在を宿した心装使い相手に後れを取ってしまう。それは否定できない事実だった。
だが、まったく戦えないわけではない。少なくとも、蔚塁は礙牢が効かない心装使いとの戦いを常に想定し、訓練を重ね、技を磨いてきた。
――儺儺式絶刀 聖喰
それは方相氏の技ではない。剣の聖を打ち破るために編み出した蔚塁個人の秘剣だ。転を陽とすれば、聖喰は陰の奥義。
青林旗士の頂点に立つ剣聖を討つための剣が、剣聖以下の旗士に通じぬ道理はない。
文字通り、目にも止まらぬ速さで放たれた斬撃は確実に眼前の敵をとらえ、斬り裂いた。
白刃を通して伝わる確かな手ごたえ。肉を裂き、骨を断つ感触に、蔚塁は内心で勝利を確信する。斬った、勝った、と。
だが、その確信は長続きしなかった。
次の瞬間、蔚塁の耳をやさしく撫ぜるように、敵のささやき声が耳の奥にすべりこんできたのである。その声は次のように述べていた。
――空装励起 葉見ず花見ず