第百四話 再会(後)
魔物の襲撃が報じられ、山砦全体が騒然とした空気に包まれていく。
襲って来たのは玄蜂。大興山に来る途中に見かけたとおり、人間ほどの大きさもある蜂型の魔物である。
玄とは黒を指す言葉であり、玄蜂の身体はその名のとおり黒一色だ。黒光りする甲殻から透き通った翅を伸ばして飛翔する姿は、蜂というより羽付き蟻を連想させる。
強靭な顎は人の四肢をたやすく食い破り、壺のように膨れあがった腹部には致死性の毒が充満している。玄蜂は針によって毒液を敵の体内に注入する他、時には針から噴射して敵に直接毒液を浴びせかけることもあるという。
一度浴びれば皮膚を焼き、肉を溶かし、骨を腐らせる猛毒。そんな攻撃手段を持つ魔物が群れを成して襲って来たのだから、中山軍が驚き騒ぐのも無理はない。
なお、玄蜂は殺した敵を噛み砕き、押しつぶし、丸めて肉団子にした後、巣に持ち帰って子供たちのエサにするらしく、営巣期には積極的に他の生き物を狙う。辺境の村が一夜にして無人になった例もあるらしく、その意味でも恐るべき魔物といえた。
で、そんな魔物に襲われている現状で俺とウルスラは何をしているのか?
答え――椅子に座ってお茶を飲んでます、はい。
「閉じ込めるような真似をして申し訳ありませぬ、お客人方」
俺たちに向かって申し訳なさそうに口をひらいたのはソザイだった。
白髪の老鬼人はまっすぐに俺の目を見て言葉を続ける。
「光神教徒に扮した貴殿らが心装を抜いて魔物と戦えば、兵たちも貴殿らの正体に気づいてしまいましょう。そうなれば、陛下やドーガ様のなさりように不満を抱く者もあらわれるはず。僕といたしましては、そのような事態は避けたいのです」
だからここで大人しくしていてくれ、ということらしい。ちなみに、ここはクリムトの病室のすぐ隣であり、クライアは壁一枚を隔てた隣室で弟の看病をしている。
俺はソザイの言葉に黙然とうなずいた。
正直に言えば、魂喰いの機会を奪われるのは面白くない。だが、ソザイの言うとおり、ここで心装を抜けば厄介なことになるのは目に見えている。クリムトの一件で力を貸してくれた返礼だと思えば、多少の不自由は許容できた。別段、縄で縛られたわけでもないし。
それに、ソザイがこうして俺たちと同じ部屋にいるのは人質のためである、ということも分かっていた。中山はこの機に乗じて俺たちを騙し打ちするつもりはなく、また、魔物への囮に利用する気もない。もしドーガらがそのような振る舞いをしたら自分を斬れ――その意思表示としてソザイはここにいるわけだ。
これも俺が相手の言い分を呑んだ理由のひとつだった。
――さて、相手の要望に従うと決めたのはいいが、これからどうしたものか。ソザイが手ずから作ったという蕎麦茶はうまかったが、ここで延々とお茶を飲んでいても仕方ない。
しばし考えた末、俺はソザイに一つの質問を放った。クリムトの右腕は再びつながるのかどうかについて。
問われたソザイは難しい顔で腕組みをする。
「傷口の膿は取り除きましたし、断たれた腕はカガリ様が腐らぬよう処置してくださっておりました。ですので、単につなげるだけなら可能でござる。問題はつなげた腕が再び動くようになるか、ですが――こればかりはやってみないことには何とも。申し訳ござらんが、僕の腕では『必ず治してさしあげる』と請け負うことはできませぬ」
自身の力不足を詫びるようにソザイは頭を下げたが、俺は眼前の鬼人を責めるつもりはなかった。一度切り落とされた腕を元通りにするのが難しいことくらい俺にもわかる。
『血煙の剣』特製ポーションといえど、断たれた腕を元通りくっつける効果までは期待できない。俺の血を直接患部に塗ったところで同じだ。傷の断面を治癒してしまい、かえって接合を阻害してしまう可能性さえある。
クリムトは命が助かっただけ儲けものというべきだろう――まあ、クライアの気持ちを考えると、何とかできるものならしてやりたい、という気持ちもないではないのだが。
俺がそんな風にあれこれ考えていると、その沈黙をどう受け取ったのか、ソザイが神妙な顔で言葉を続ける。
「完治を望むのであれば、人の技術ではなく神の御業にすがる他ありますまい」
「それは神官の奇跡、ということですか?」
「さよう。光神教の本殿におわす教皇聖下であれば、失った手足を取り戻す『復元』の奇跡も行使できまする。むろん、簡単にお会いできる方ではございませぬし、仮に会えたとしても相応の対価が必要になるでしょうが……」
地獄の沙汰も、神の奇跡も金次第。このあたりは鬼門の中も外もあまり変わらないらしい、と俺はこっそり考える。
――しかし、『復元』か。
俺は腕を組んで考える。失った四肢さえ蘇らせる『復元』の奇跡は、大陸では法神教の教皇ノア・カーネリアスしか使えないとされている神域の神聖魔法だ。ソザイの言葉が事実だとすれば、光神教の教皇はあの隻眼の神子に匹敵する奇跡の使い手ということになる。
これを知れば、クライアは間違いなく光神教の教皇に会いに行こうとするだろう。たしか、西都でドーガから聞いた話によれば、ハクロという中山の王弟は光神教の司教であるとのことだった。
であれば、中山経由で教皇にクリムトの治療を頼む、という手もあるだろう。
正直、クリムトひとりのためにそこまでしてやる義理はない。しかし、俺としても光神教の教皇には興味があるのだ。三百年前にいったい何があったのか。それをもっともよく知っているのは当事者である光神教であり、さらには光神教の頂点に座る教皇であろうから。
そう考えた俺が、ソザイに向けて口をひらきかけたときだった。
「あ、あの……!」
横合いから緊張に満ちた声を投げかけられ、そちらに顔を向ける。
そこにいたのは、これまでずっと押し黙って話を聞いていたヤマトという鬼人の子供だった。
この少年、崋山の王子だという話だが、偉ぶったところはまるでなく、人間である俺に対しても丁寧な言葉づかいを崩さない。どうやらクリムトのことをとても慕っているようで、その仲間である(と思っている)俺に対しても好意的だった。
俺とクリムトの本当の関係を知ったら、まったく逆の感情を向けられるだろうな。そんなことを思いつつ、向こうの呼びかけに応じる。
「どうかしたかい?」
「あの、クルト……い、いえ、クリムト殿を光神教に診せるのは、止めた方がいいと思います!」
「んん? それはどうして?」
ヤマトの唐突な物言いに驚いて問い返す。
すると、鬼人の少年は何かを言おうと口をひらきかけたが、その口から言葉が発されることはなかった。
ヤマトはためらうように口を閉ざし、俺とソザイ、それに先刻から黙ったままのウルスラの顔をうかがう。
「あの、皆さんはカガリ殿から何も話を聞いていないのですか? 光神教について」
「光神教について? いや、これといって何も聞いていないけど」
ヤマトに応じてからソザイを見やると、こちらも怪訝そうに首をかしげていた。
「僕も何もうかがってはおりません、ヤマト殿。察するに、光神教についてカガリ様から口止めされている事がおありのようですな?」
この問いにヤマトは「はい」とも「いいえ」とも答えかねたのか、困り顔で黙ってしまう。まあ、それはそれで答えを言っているも同然なのだが、十歳に満たない子供にそのことに気づけ、というのは無理な話であろう。
ヤマトの反応を見たソザイは眉間にしわを寄せ、問いを重ねようとする。はっきりとは聞いていないが、光神教の教皇のことを「聖下」と呼んだことから、おそらくソザイも光神教徒なのだろう。カガリが光神教徒である自分をはばかって伝えなかった事実があるとすれば、虚心ではいられまい。
自分よりはるかに年上の相手に険しい顔で問いただされ、ヤマトが怯えたように肩を縮める。姉のランがいれば柳眉を逆立てたに違いないが、ランはクライアと共にクリムトの看病中であるため、この部屋にはいない。
ウルスラは先刻から傍観者を決め込んでいる。
ここは俺が制止するしかあるまいと考えたとき、不意に部屋の扉が音もなくひらかれた。
――大興山の砦は反乱のために急遽つくられたものであり、いたるところに急造の粗さが見て取れる。扉の建て付けなどはその最たるもので、開閉のたびにギイギイと耳障りな音をたてていた。
その扉が音もなくひらかれたのである。そして、扉をくぐって室内に入ってきた人物がいた。
冴え冴えとした白刃を携えた鬼面の剣士。
驚くべきは、その気配の薄さだった。室内にいる者たちに声をかけず、剣を抜いて踏み入ってきた時点で敵意を持っているのは明白なのに、殺意も戦意も感じない。感じることができない。
そら恐ろしいほどの静謐さは『無』を体現した者のそれだった。
ヤマトはもとより、俺もソザイも鬼面の人物に対して反応が遅れた。室内に入ってきた相手が剣を抜いているのを見て、ようやく危機感が刺激されて戦闘態勢をとるが、とうてい敵の初撃には間に合わない。
絶望的なまでの初動の遅れ。
その致命的な失態が俺の命を奪うに至らなかったのは、ただひとり、失態を回避した者がいたからである。
「心装励起!!」
ウルスラが叫ぶような声で心装を顕現させる。寸前までの穏やかな傍観者の顔はすでになく、その顔には再会してから初めて見る――いや、過去の記憶も含め、俺が生まれて初めて見る激情が満ち満ちていた。
「咲け、雷花!!」
抜刀と斬撃はほぼ同時。ウルスラは蹴り砕かんばかりの勢いで床に踏み込み、敵に向けて必殺の斬撃を浴びせかけた。
敵――父を殺した鬼人と同じ、四ツ目の鬼面をかぶった相手に向かって。