第百二話 再会(前)
鮮やかな紅毛を風になびかせて、霊獣が荒野をひた走る。
目指すは西の方、大興山。炎駒と呼ばれる赤毛の麒麟は車上に五人を乗せながら、いささかの疲労も見せずに駆け続けていた。
乗っているのは西都に来たときと同じ面子――俺、クライア、ウルスラ、ドーガにくわえてもうひとり。
「いやはや、こうして戦車に乗って荒野を駆けるのは幾年ぶりでありましょう。亡き先王陛下の御者として戦陣を駆けた日々が思い出されまする」
そう言って懐かしそうに過去を想起したのは、額から一本の角を生やした鬼人の男性だった。
学者を思わせる細面。一見したところ華奢に見えるが、その実、鍛え上げられた痩身。頭髪は白一色に染まり、手足は細く節くれだっていて、全体的に鶴を思わせる風貌をしている。
その人物は笑いながら言葉を続けた。
「ぼっちゃまもずいぶんと御の腕が上達なされたようで。ふふ、もう僕が教えることは何もございませぬな」
「沼沢を進むこと平地のごとし、と謳われたそなたの妙技にはまだまだ及ばぬよ――それはさておき、ぼっちゃまはやめぬか、ソザイ。あと数年で三十路を迎える者に向ける言葉ではあるまい」
「おお、これは失礼つかまつった。このソザイ、陛下やドーガ様の襁褓を替えたこともございますゆえ、ついつい子供扱いをしてしまいまする。なにとぞご寛恕をたまわらんことを」
ソザイと呼ばれた鬼人は、そう言うと揺れる車の上で見事な礼をしてみせた。
もっとも、すぐに礼を解いて呵々と大笑するあたり、今のやりとりは気心の知れた者同士の冗談なのだと思われる。
ドーガは困ったようにぼりぼりと頬をかくだけで、それ以上は何も言わない。鬼人族最強の武人も、自分のおしめを替えてくれた相手には強く出られないようだ。
ともあれ、このソザイという鬼人族の老人が五人目の同行者だった。
ソザイは中山国の典医、つまり宮廷付きの医者のひとりである。
当人が述べていたように、もともとは中山の先王に仕えていた人物で、アズマやドーガと共に没落した中山を支えてきた重臣なのだという。
ドーガいわく、その気になれば宰相なり元帥なりを務めることもできる功績の持ち主らしいが、亡き先王の遺児である四兄弟全員が成人し、それぞれに才腕を振るい始めたことで自分の役割は終わったと判断し、政治や軍事の一線から身を引いたらしい。
もともとソザイは医者として先王に仕えていたそうなので、その意味では己の本分に立ち返ったともいえる。
大興山のカガリから「西都一の医者」の派遣を求められたアズマは、このソザイにドーガ(と俺たち)をつけて送り出した、というのが今に至る顛末だった。
聞くともなしに鬼人たちの会話を聞いていた俺は、ここで隣のクライアに視線を移す。
クライアは睨むように西の方角を見据えており、俺の視線にも気づいていない。重傷を負ったクリムトのことを案じているのは一目瞭然だった。
緊張をほぐすために何か声をかけるべきか、とも考えたが、今のクライアに何を言っても言葉が右から左へ流れるだけだろう。
先刻からウルスラが何も言わないのも同じ理由からだと思われる。
それからしばらく、俺たちは互いに無言で西の方角を見つめていた。その沈黙が破れたのは、行く手に濛々と立ち込める砂煙が見えたときである。
何事かと思って目を凝らすと、砂塵の向こうでいくつもの巨大な影が激しく交錯しているのが見て取れた。
どうやら二種類の魔物――地を這う魔物と、空を飛ぶ魔物が、それぞれ群れを成して互いを攻撃しあっているようである。砂煙は両者の戦いによって巻き上げられたものだったわけだ。
地を這う魔物の身体からは八本の脚が伸びており、鼓膜をかきむしるような叫び声も聞こえてくる。『叫、叫、叫!』と。
聞きおぼえのある叫喚を耳にして、俺はぼそっとつぶやいた。
「あれは土蜘蛛か」
それは以前、試しの儀で相対した魔物の名。巨大な蜘蛛という見間違いようのない姿形と特徴的な叫び声。まず間違いあるまい。
土蜘蛛は蠅の王や蛇の王と同程度の力を持っており、イシュカあたりに出現すれば街中が上を下への大騒ぎになるに違いない。ただ、今の俺にとっては苦労せずに倒せる相手だ。これはクライアやウルスラ、ドーガらにとっても同様であろう。
見たところ土蜘蛛の群れは五体ほどで構成されているが、これも大した問題にはならない。戦車に乗っている五人が一体ずつ倒せば済む話であり、何なら俺がまとめて始末してもいい。
眼前の光景に問題があるとすれば、それは土蜘蛛の強さや数ではない。王クラスの魔物である土蜘蛛が五体もいるにも関わらず、『敵』に対してまったく歯が立っていない、その事実こそが問題だった。
ようするに土蜘蛛は負けている――いや、狩られているのである。蟻を思わせる甲殻と、水晶のごとき翅を持った蜂型の魔物によって。
ここで白髪の鬼人が眉をひそめながら口をひらいた。
「ふむ、玄蜂ですか。このあたりに棲息しているという話は聞いておりませなんだが、いずこかの辺境から出張ってまいったようでござる」
ソザイが言うと、ドーガがこちらも顔をしかめてうなずいた。
「あの数の土蜘蛛を襲ったところを見るに、営巣のための食糧集めであろう。兵を出して付近の山々を調べなければならんな。早めに巣を潰さねば、このあたりを通りかかる鬼人を襲いかねぬ」
「御意。カガリ様のご要請がなければ、僕がこの場に残って任にあたるのですが」
「カガリの頼みがなかったとしても、長老殿に兵卒の真似事はさせられぬよ。そのときはわしが出よう」
ドーガはそう言うと、不本意そうに鼻からフンと息を吐きだした。
「かなうならこの場で一掃したいところだが……土蜘蛛にせよ、玄蜂にせよ、死に際に悪あがきをする。特に玄蜂に臭いをつけられると、四方の仲間が報復のために殺到してくるからな。怪我人のもとに魔物の群れを案内するわけにもいくまい」
「そうですな。カガリ様がいかなる意図で門番を治そうとしているのかは存じませぬが、伊達や酔狂で陛下に医人を望まれたわけではありますまい。ドーガ様がおっしゃるとおり、事情が明らかになるまでは戦闘を避けるのが賢明でございましょう」
おそらく今の会話は俺たちに聞かせるためのものだろう。こちらとしても強いて魔物と戦いたいわけではないので――いや、俺個人としてはとても戦いたいのだが、今の状況で魂喰いを優先させるほど飢えてはいないので、迂回を決めたドーガに文句を言ったりはしなかった。
土蜘蛛も玄蜂も眼前の敵と戦うのに忙しく、こちらにはまったく注意を向けない。これ幸いとドーガが操る戦車は危険地帯を後にする。
俺が若干の未練を残して後ろを振り返ると、壺を思わせる巨大な腹部を持った蜂の魔物が、土蜘蛛の一体に狙いを定めて今まさに毒針を突き刺したところだった。
その後は特にこれといった問題もなく、俺たちは大興山に到着する。正確に言えば、魔物に襲われたことは幾度かあったのだが、本気を出した麒麟の疾走についてこられる魔物は、少なくともこの道中では出てこなかった。
大興山には数百から成る中山軍が布陣しており、土煙を蹴立てて現れた戦車を警戒している風だったが、戦車を牽いているのが赤毛の麒麟だとわかった時点で警戒は霧散したようである。
報告はすぐさま将軍まで伝わったらしく、俺たちが陣内に入るのとほぼ同時に見覚えのある少年が姿を現した。
「おお、ドーガ兄! ソザイが来るのは予想してたけど、なんだって門に向かったはずのドーガ兄がここにいるんだ? それに、そっちの連中は――」
灰色のざんばら髪の少年が怪訝そうにこちらを見やる。その視線ははじめウルスラに向けられ、次いでクライアに移り、最後に俺の面上でぴたりと止まった。
その口から、へえ、と愉快そうな声が漏れる。
「驚いた。何が驚いたって、人間嫌いのドーガ兄が自分の戦車に人間を乗せてきたことに驚いた。しかも、よりにもよって空をね。ドーガ兄と空が顔を合わせれば、十のうち十まで殺し合いになると思ってたんだけど、いったい何があったんだい?」
「ふむ、まあ色々とあった、とだけ言っておこう。時がないゆえ、かいつまんで説明しておくと、この者たちは兄者のお情けで中山に滞在することを認められた。目的は人捜しで、おぬしが書状で知らせてきた門番がその捜し人かもしれぬ、と考えてやってきたのだ」
「捜し人……ああ、なるほど」
カガリがちらと視線を動かしてクライアを見た。正確に言えば、クライアの白い髪を見た。
そのままぼりぼりと頭をかいたカガリは、すぐに意を決したように大きくうなずく。
「そういうことなら、ここで勿体ぶるのは悪辣ってもんだな。いいぜ、事情を聞くのは後回しにして、ひとまずお仲間のところに案内してやるよ」
カガリはそう言うと、すぐに踵を返して歩き出した。そして、ついてこい、と言うように俺たちに向けてちょいちょいと手招きをする。
俺たちが後について歩き出すと、カガリは再び歩を進めながら短く告げた。
「今のうちに言っておく。あいつは右腕を切り落とされた上、鬼界の瘴気に蝕まれてひどい状態だ。心構えはしておいてくれ」