第百一話 聖女
幻想種の王を封じた聖女の名はソフィア・アズライト。
ドーガの口からその名を聞いたとき、真っ先に俺の脳裏をよぎったのはかつての許嫁アヤカ・アズライトの姿だった。
かたや鬼界で幻想種の王を封じた聖女。かたや帝国屈指の名家の長女。この両者の家名が同じ「アズライト」であることを偶然と考えるのは難しい。
アズライト家は表で帝国を牛耳り、裏で光神教を操ることで、大陸を表と裏の両面から支配しようとしているのではないか。そして、アヤカはその陰謀を成就させるために御剣家に送り込まれた間諜なのではないか。
俺は反射的にそう疑った――が、すぐにかぶりを振ってその疑いを払い落とす。さすがに考えすぎだ、と思ったのだ。
アズライト家は三名門の一角として名を馳せているが、同じ三名門であるカーネリアス家やパラディース家、さらには皇家の目がある中で、三百年にわたって鬼界とのつながりを保ち続けてきた、という推測はいかにも無理がある。
それに、アヤカがどれだけうまく立ち回ったところで剣聖の目を盗めるとも思えない。やはり考えすぎだろう。
……逆に言えば、今挙げた連中が全員グルだったら陰謀でも何でもやりたい放題なわけだが、そのあたりはここであれこれ考えていても答えは出ない。
どのみち、鬼界で光神教徒に扮する以上、聖女のことはきちんと調べなければならないのだ。アズライト家について考えるのはそれからでも遅くないだろう。
手始めに、俺はドーガから渡された光神教の経典に目を通した。ソフィア・アズライトは鬼人族からも聖女と称えられるような人物だ。光神教内部では、より深く崇拝されているであろうことは想像に難くない。
当然、経典には聖女に関する情報が山ほど載っているに違いない。
この推測――というほど大したものではないが、とにかく俺の予想どおり、経典には聖女の偉業がこれでもかとばかりに記されていた。
その冒頭部分を要約すると次のようになる。
今をさかのぼること三百年前、大陸は幻想種の王たる蛇と、蛇に率いられた幻想種の群れによって滅亡の危機に瀕していた。
この殺戮の波濤に呑み込まれた都市は一夜のうちに瓦礫と化し、死者の身体から流れ出た血は大河となって地表を覆ったという。
多くの国が滅び、多くの人が死んだ。あらがいようもない滅びを前に、人々が絶望に打ちひしがれ、戦うことを諦めたとしても、それは仕方のないことであったろう。
だが、滅びを受けいれる者たちがいる一方で、座して死を待つことをよしとせず、迫りくる災厄に抗おうとする者たちもいた。
幻想種に挑み、元凶たる蛇を葬って世を救わんと志した幻葬の志士たち。
彼らは種族の垣根を越えて手を取り合い、長く激しい戦いの末、ついに蛇を封印するに至る。
聖女ソフィア・アズライトはそんな志士のひとりであった……
経典の内容はまだまだ続いていたが、この時点で俺の知っている歴史とはずいぶんかけ離れている。
鬼ヶ島で教わった歴史では、三百年前の大戦は人間と鬼人の間で繰り広げられた戦いであり、そこに鬼神以外の幻想種は登場しなかった。
ふたつの種族の戦いは人間側の勝利に終わり、事の元凶たる鬼神は鬼門の奥に封じられた――それが過去の戦いの顛末である。
これに関してはカナリア王国の歴史も鬼ヶ島と同じことを記しており、俺が知っている歴史こそが大陸の常識であると考えていいだろう。
しかし、光神教が記した歴史では、三百年前に人間が戦った相手は鬼人ではなく幻想種であると述べている。そして、鬼門に封じられたのは鬼神ではなく蛇であるということになっている。
この違いは何によって生じたものなのか。
俺が知るかぎり、光神教は三百年前に人間を裏切って鬼人族の味方になった者たちのはずだ。その裏切りの歴史を隠すため、歴史を改竄した可能性はあるだろう。
ただ、鬼人族がこの改竄を受けいれるとは考えにくい。鬼人族にしてみれば、いかに自分たちの味方についてくれた者たちとはいえ、人間と鬼人の戦いをなかったことにしようとする光神教と共存しようとは思うまい。
しかし、現に鬼人族と光神教は鬼界で友好的な関係を築いているように見える。それはつまり、光神教の歴史と鬼人族の歴史に差異はないということだ。
その証拠にドーガは聖女のことを称え、蛇の存在についても常識のように語っていた。光神教が語る歴史と鬼人族の歴史が食い違っているのであれば、あんな態度はとらないだろう。
こうなると、光神教が恣意的に歴史を改竄した可能性はごくごく低い。少なくとも、俺はそう判断した。
もちろん、両者が同じ歴史を語り継いでいるからといって、それが真実であるとは限らない。光神教は同胞を裏切った罪を隠すため、鬼人族は人間に敗れた事実を匿すため、互いに示し合わせて偽りの歴史を後世に残した可能性は否定できない。
実際、クライアやウルスラは大なり小なりそう受け取ったようである。
ただ、俺は皇帝アマデウス二世から、かつての大陸で幻想種が多く出現していたことを伝えられている。その意味で「都合の悪いことを隠すために歴史を改竄したのではないか」という疑いを向ける相手は、鬼界の外にこそ存在した。
『鬼門の秘密が解き明かされたとき、人の世は大きく揺れることになろう』
過日のアマデウス二世の言葉が脳裏をよぎる。あの言葉が歴史の改竄を指していたのかは分からないが、仮にそうだとすれば、皇帝は改竄の事実を知っていたことになる。
先ほどの仮定――三名門や皇家、御剣家がグルであったなら陰謀も何もやりたい放題、という言葉がにわかに現実味を帯びてきた気がした。
それからしばらくの間、俺たちはドーガに話を聞いたり、経典を読むなどして光神教に関する知識を深めていった。
そうして半刻(一時間)ほど経ったとき、部屋の扉が叩かれ、ひとりの鬼人が姿を見せる。見覚えのある顔は間違いなく中山王アズマのものだった。
この訪問は予定になかったらしく、ドーガは驚いたように立ち上がって兄を出迎える。
「兄者、何か変事でも出来いたしましたか?」
「うむ、変事というわけではないのだが、今しがたカガリから使者が来た。大興山の一件は片付いたとのことだ」
「それは重畳にござる。さすがはカガリというところですな。しかし兄者、部外者がいる場で国の密事を口にするのはお控えくだされ」
そう言って、ドーガは聞き耳をたてている俺をじろりと睨む。
俺はつつっと視線をそらせて無実をよそおった。アズマはそんな俺をちらと見やったが、こちらを咎めようとはせず、かわりに困ったように頬をかいてドーガを見た。
「そなたの申すことはもっともなのだが、報告の中に少々気になるところがあってな。彼らに確認を取りたかったのだよ」
「気になるところ、と仰いますと?」
「うむ。カガリは敵の本陣で崋山の姉弟を保護したらしい。どうしてそういう仕儀に至ったのかは、西都で自分の口から説明すると申している。それはよいのだが、姉弟の側仕えに門番の若者がいたらしくてな。こちらがかなりの深手を負っているので、至急、西都一の医者を寄こしてくれとのことなのだ」
それを聞いたドーガは傍目にもわかるほど露骨に顔をしかめた。国王に向けるにはふさわしくない顔だったが、たぶん、話にツッコミどころが多すぎてそんな表情になったのだと思われる。
一方、事情を知らない俺は今の会話の内容をほとんど読み取れなかった。だが「門番の若者」という言葉はさすがに理解できた。
鬼人族がいう門番とは御剣家のことだ。大興山というのは鬼界の地名のことだろうから、俺たち以外に鬼界に入り込んでいた青林旗士がいたのである。
そして、王であるアズマがわざわざ確認のために足を運んだということは、その旗士は俺たちが捜しているクリムトと良く似た特徴を持っていたと考えられる。たとえば、クライアと同じ白髪紅眼であった、とか。
それでなくても、この時期に鬼界に入り込んだ青林旗士がそうそういるとも思えない。
深手を負っているという点が気になるが――どうやら、思いのほか早く、かつての同期生と再会することができそうだった。