第九十四話 カガリVS蔚塁
自らの邪魔をした相手が中山四兄弟の末弟であると気づいた蔚塁は、すぐさまカガリを斬る決意を固めた。
崋山の反乱の背後に光神教がいたことを、西都のアズマ王に知られるわけにはいかないからである。
「疾ッ!」
蔚塁が地を蹴ってカガリに肉薄する。風を裂いて迫りくる剣閃を、カガリは間一髪で躱した。
続けざまに放たれた二刀目、三刀目も同じく間一髪で躱すカガリを見て、蔚塁は喉の奥をくっと鳴らす。笑ったわけではない。それは蔚塁の高揚をあらわす仕草だった。
今の三連撃はすべてカガリを殺すつもりで放った攻撃だ。様子見や牽制ではない。その本気の攻撃をすべてぎりぎりで躱されたのなら、それはもう間一髪ではなく紙一重と表現するべきだろう。
見切られているのだ、ようするに。
自分の子供どころか孫であってもおかしくない年齢の少年が、己の攻撃を見切った。その事実に蔚塁の心は自然と浮き立つ。
もとより「方相氏の長たる己こそが最強である!」などとうぬぼれていたわけではない。眼前の少年が己以上の才能を備えていても何の不思議もない。蔚塁は本心からそう考えており、むしろそうであることを望んだ。己以上の使い手との戦いは、蔚塁がさらなる高みに至るために必要なものだからである。
――かつて、御剣式部という稀代の神才に敗れ、その敗北に奮起して今の己に至ったように。
蔚塁はカガリの反撃を予想して数歩退いたが、カガリは追撃をしかけてこなかった。後ろにいるランを守ってのことか、それとも他に思惑があってのことかはわからないが、どうあれ動かぬのなら好都合である。
「呪ッ!」
蔚塁は極限まで短縮した詠唱で、敵の魔力を封じる結界術式礙牢を展開した。通常の術式ではカガリ相手に効果が薄いとみて、直前の攻撃の最中、カガリの周囲に結界強化のための印を刻んである。
それらの行動はすべて奏功し、カガリは先のクリムトに数倍する強力な結界に囚われた。
自身を縛る不可視の縛鎖に気づいたカガリは、かすかに眉根を寄せつつも、へえ、と言いたげに口の端を吊りあげた。そこに先刻のクリムトのような驚きはなく、むしろ余裕さえ感じられる。
別段、術が不発だったわけではない。カガリがあらかじめ策を用意して、結界を無効化したわけでもない。
礙牢は正しく効力を発揮している。カガリは魔力を封じられており、本人もその状態を正しく認識して、まずいことになったと思っていた。
ただ、カガリはそれらの事実の上に「楽しい」「面白い」という感情を置いており、それがこの場における余裕となってあらわれているのである。
蔚塁はそのことを正確に読み取った。戦闘中でなければ苦笑まじりにカガリの才を称賛したであろう。
どれだけ追い詰めても、どれだけの窮地におちいっても、その状況を楽しめる者は手ごわい。窮地を楽しむ心は余裕を生む。そして余裕は視野を広め、緊張をほぐし、活路を切りひらく力となるのだ。
経験を重ね、あるいは訓練を積んでその境地に至るのではなく、生来の気質でそこに至ることができるのなら、それはもう立派な才能であろう。
このままカガリを斬るのは惜しい、と蔚塁は思った。人間、鬼人を問わず、蔚塁は才ある若者を惜しむ。
だが、蔚塁はすぐに己の感情を押さえ込んだ。今さらこちらが剣を引いたところでカガリは止まるまい。なにより、方相氏の長としての己が、蔚塁に「斬る」以外の選択肢を許さなかった。
鬼界において黒狼カガリの名を知らない者は、生まれたばかりの赤子くらいのものだろう。
鬼界を制覇した中山四兄弟の末弟。齢十五にして武勲殊功は数知れず。ことに崋山との争覇戦では鬼界最強をうたわれる次兄ドーガをも上回る功績をうちたて、中山の覇業に貢献している。
個人の才のみならず、軍将としての才もあわせもっており、それまでドーガひとりの才に寄りかかりがちであった中山軍はカガリを得たことで飛躍的に作戦行動力を高めた。
特定勢力の伸長を望まない光神教は、中山と崋山の戦力を慎重におしはかり、戦況がどちらか一方に傾くことのないよう腐心していたのだが、その計算を根底から打ち壊したのがカガリである。
十三歳になるや、待ってましたとばかりに戦場に躍り出たカガリの活躍と成長は光神教の計算を軽々と上回った。具体的にいえば、中山の統一までおおよそ十年、どれだけ幸運が重なっても五年はかかると見込んでいた光神教上層部の計算に対し、カガリは二年という結果で答えたのである。
むろん、すべてがカガリひとりの力で達成されたわけではない。光神教が中山の国力、特にカガリ以外の兄弟の力を測りきれていなかった部分も大きいだろう。しかし、カガリがいなければ中山の覇業がこれほど早く達成されることはなかった、という点において光神教の上層部は見解を一致させていた。
ここでカガリを討つことができれば、中山の勢力をおおいに殺ぐことができる。場所は反乱軍の総本陣であり、斬ったところで光神教が疑われることはない。配下を置いて突出したカガリが崋山兵に討たれた。人々はそう判断するだろう。
今の状況はカガリを討つ千載一遇の好機だった。今さら剣を引くことなどできるはずもない。
蔚塁は礙牢で魔力を封じたカガリめがけて、疾風のごとく躍りかかる。
繰り出す剣技は儺儺式最大の奥義 転。
礙牢で相手の心装を封じ、転で頸を斬り落とす。それは蔚塁にとって鬼人殺しの基本にして必殺の型である。この型を磨き上げることで蔚塁は数多くの鬼人を斬り、方相氏の長まで登りつめた。
それは相手が黒狼であっても変わらない。カガリに肉薄しながら蔚塁はそう考えていた。
だが。
――ぶちり、と。
何かが引きちぎれる感覚を鋭敏に感じ取った蔚塁は、ほとんど本能的に足を止める。今まさに敵に躍りかかろうとしていたところを、無理やり急停止したのだ。あまりに無理な動きに身体中の関節が悲鳴をあげたが、蔚塁は意に介さなかった。それどころではなかったのだ。
蔚塁は射るような視線でカガリを見据える。儺儺式使いの感覚は、ぶちり、ぶちり、と響く音ならざる音を今もはっきりと捉えている。
それはカガリを縛る見えざる縄が、一本ずつ引きちぎられていく音だった。縄がちぎれる都度、カガリから湧き出る勁の量は増加を続けている。
――礙牢を破ろうとしておるのか。何の細工もなく、ただ己の勁にまかせて。
蔚塁はカガリの行動をそのように解した。その試みが成功しつつあることは、眼前のカガリを見れば明らかである。
カガリが完全にこちらの術式を打ち破る前に斬るべきだ。蔚塁はそう考えたが、その考えを実行に移すことはできなかった。すでにカガリの勁は心装を出すのに十分な域まで達していたからである。
まだ礙牢は完全に破られたわけではなく、効力は残っている。にもかかわらず、カガリから湧き出る勁は天に沖するほどに高まっている。その事実はカガリが内に秘めた勁がどれだけ膨大であるかを言外に物語っていた。
――これだから天与の才というものは始末に負えぬ。
自分が三十年、四十年とかけて鍛え上げ、磨き上げてきたものを、わずか十五歳の少年が数年の鍛錬と生まれ持った才のみで乗り越えていってしまう。凡百の才能とは一線を画する本物の才能を前に、蔚塁は苦笑をひらめかせた。
が、その苦笑はすぐに静かな戦意に取って代わられる。繰り返すが、カガリはまだ十五歳の少年だ。今後成長するにつれて、今以上に強くなり、その存在は中山にとっても、鬼人族にとっても極めて大きくなっていくだろう。
眼前の鬼人は間違いなく浄世の大願を妨げる存在になる。この機に乗じて何としても斬らねばならぬ。蔚塁はそう決意し、刀を構え直す。
その蔚塁の敵意を感じ取ったのか否か、次の瞬間、心装を励起するカガリの声が蔚塁の耳朶を打った。
実のところ、カガリは蔚塁が考えているほど事態を把握しているわけではなかった。
カガリが大興山に潜入したのはつい先刻のこと。これから砦の造りを調べ、ランとヤマトの居所を突きとめようと考えていた矢先にランの叫び声を聞いたのである。
その声にしても最初は誰のものかわからなかった。ただ、叫びの中に崋山王家という言葉を聞きつけたカガリは、もしやと思って声のした方に向かい、そこで今にも斬られそうになっているランを見た。
とっさに飛礫を放ってランを助けたカガリだったが、ランを斬ろうとした相手を見て内心で戸惑う。
そこにいるのが人間の老人だったからだ。
カガリは蔚塁の顔を知らず、もちろん方相氏の長であることも知らなかったが、相手が光神教徒であることはわかった。蔚塁の額に角はない。鬼界に人間がいる以上、その者は間違いなく光神教徒なのである。
光神教徒が反乱軍の砦にいて、しかも崋山の姫を斬ろうとしていた。その事実をどのように判断するべきか、カガリは判断に迷う。
反乱軍に敵対しているわけだから、中山から見れば味方である。少なくとも敵だと断定する要素はない。そう考えたカガリは様子見を選択した。中山の王弟が味方である光神教徒を斬り殺したとなれば、のちのち大きな問題になりかねない。それを警戒した格好である。
向こうはカガリの名を出した上で攻撃してきたのだから、そこまで配慮する必要はなかったかもしれないが、それをいうならカガリも三度にわたって飛礫を放ってしまっている。そのこともカガリに慎重な判断をうながした一因だった。
結果、カガリは蔚塁の攻撃に対して反撃を控えていたわけだが、それでも敵意をおさめない蔚塁を見たカガリは、もはやこれ以上の様子見は不要であると判断する。
蔚塁が礙牢で魔力を封じてきたときは、かつて見たことのない術式と、図抜けた力量を持った敵と戦える期待に自然と口角が上がった。
あいかわらず状況はよくわからなかったが、細かいことは眼前の相手を倒した後、ランにたずねればよい。なんならランの後ろに倒れているもうひとりの人間にたずねてもいいだろう。
ちらとそちらを見やったカガリは、ここではじめてクリムトの白髪に気づき、かすかに眉根を寄せる。特徴的なその姿は、先に鬼ヶ島に潜入したときの記憶に触れるものがあった。
――ま、そのあたりは後で確かめればいいか。
クリムトは右腕を斬り飛ばされて息も絶え絶えの様子であり、背後から斬りかかってくる余力はない。そう判断したカガリは、いったんクリムトのことを脳裏から追い払い、蔚塁に意識を集中させた。
そして。
「心装励起――喰らい尽くせ、饕餮!」
眼前の強敵を屠るため、自らの力を解き放った。