第九十三話 蔚塁VSクリムト
方相氏の長を名乗る蔚塁という老人を前に、クリムトは奥歯を噛んで相手の重圧に耐えていた。
別段、向こうは意図的にクリムトを威圧しているわけではない。威圧するどころか剣すら抜いていない。
にもかかわらず、クリムトの身体は鉛の鎧でも着せられたかのように重かった。悪寒が蛇のように足元から這いのぼり、両足にからみついて離れない。
自分が眼前の老人に気圧されていることを、クリムトは認めざるをえなかった。彼我の力の差は歴然としており、戦う前から敗北を悟ってしまう。この感覚は義兄ディアルトを前にしたとき、あるいは当主式部を前にしたときと酷似していた。
――ほんの一瞬、脳裏に黒髪の同期生の顔がよぎったが、クリムトは顔をしかめてその幻影を払い落とす。
その顔を見た蔚塁は、クリムトが己を警戒していると考えたのだろう、敵意を排した声で淡々と話し始めた。
「御剣家の臣下であるおぬしがどうして振斗と戦うことになったのか、聞かせてもらえぬか? 振斗が無礼を働いたというなら、長としてわしが詫びよう」
「……」
クリムトが無言でいると、蔚塁はやはり淡々と言葉を続ける。
「おぬしが意図して方相氏の前に立ちはだかったというなら、やはり長としてわしが戦おう。いうておくが、そこな未熟者の剣が儺儺式の本領であるとは思うてくれるな。こやつは才こそあるが、儺儺式使いの中では最も若く、経験浅き者ゆえ」
それを聞いたクリムトは反射的に眉をひそめる。
正確な年齢はわからないが、振斗は明らかに三十歳を超えている。おそらく四十歳に近いだろう。その年齢の剣士が最も若く、経験の浅い使い手だというのであれば、他の儺儺式使いは振斗よりもさらに高齢ということになる。
ひとりの剣士を育てるために二十年、三十年かかる剣術では、青林八旗のように多くの剣士を揃えることは難しい。くわえて、儺儺式を修得した時点で三十歳、四十歳になっているのだから、剣士として働ける実働期間は短くならざるをえない。
振斗がひとりで行動していたこと、長を名乗る蔚塁が単独で姿をあらわしたことを考えても、儺儺式の使い手は相当に数が少ないと思われる。それこそ、両手の指で数えられる程度の数しかいないのではないか。クリムトはそう推測した。
と、ここでようやく動揺がおさまったらしい振斗が声を張り上げる。
「蔚塁様、お待ちください! そのような小僧の言葉に耳をかたむけてはなりませぬ!」
そう叫ぶや、振斗は蔚塁に向けて自身の計画を語り出した。
崋山の反乱をエサとして中山軍をおびき出し、その後背を御剣家に討たせるという振斗の策謀を聞いた蔚塁は、他者が視認できない角度でほんの少し眉を吊りあげる。
本来、方相氏および光神教が御剣家と通じている情報は極秘も極秘、知られたら即座に相手を始末しないといけないレベルの機密である。
この場にいる者たちはすでにそのことを知っているとはいえ、戦いの物音を聞きつけた崋山兵がやってくる可能性を考えれば、振斗の行為は迂闊としか言いようがない。
この時点で蔚塁の決断の秤は一方に大きく傾いたが、すぐに行動に移らなかったのは、青林旗士であるクリムトの立ち位置を確認しておく必要を認めたからである。
いかに方相氏の長といえど、青林旗士をほしいままに斬るわけにはいかない。光神教にとって御剣家の存在は大きいのだ。
だが、振斗の話を聞き終えた蔚塁は、自分が無駄な時間を費やしたことを悟った。振斗は根本的な部分で勘違いをしているのだ。
「愚か者」
「……は?」
「我らとのつながりは御剣の当主にとって一子相伝の秘事だ。軽々に配下にもらすはずがない。ましてや、あの式部がこのような若者に秘事を明かすなど、万に一つもありえぬことである」
蔚塁の指摘に、振斗は戸惑ったように目を瞬かせる。
ややあって、慌てたように口をひらいた。
「し、しかし、現にクルトはここにおりまする! 崋山が反乱を起こしたこの時期に、青林旗士がたまさか大興山にやってくるなど偶然にしては度がすぎておりましょう。式部の命令以外に考えられませぬ!」
「まったくの偶然とはいわぬ。おそらく、何らかの形で式部の意思がからんでいよう。だが、それは秘事を明かさずとも出来ること。かえりみよ、振斗。この若者の言動は本当に秘事を知る者のそれであったのか?」
問われた振斗は反射的に口をひらいたが、そこから声が発されることはなかった。あらためて振り返ってみれば、クリムトの言動に違和感をおぼえたこともあったのだろう。
その反応を見た蔚塁は小さく息を吐く。振斗の承認欲求の強さを知る蔚塁は、大興山で何が起きたのかを完璧に近い精度で推測した。そして、クリムトの行動が御剣家の命令の外にあることも見抜く。
蔚塁はじっと振斗の目を見据えて言葉を続けた。
「愚にもつかぬ優越感で目を曇らせ、口をすべらせ、秘事をもらした。挙句に剣で後れをとるとは、ほとほと呆れたぞ、振斗。おぬしの軽挙が、浄世の大願を崩す蟻の一穴になることもありえたのだ。そも、おぬしはいつから独断で御剣家を動かせる身分になった?」
「う、蔚塁様、私は命令を遂行するために……!」
「たしかにおぬしには崋山の残党を束ねるよう命じたが、許可なく『外』に出る権限を与えたおぼえはない。ましてや、聖下の許しも得ずに御剣家を動かす権限など。四十になる前に儺儺式を修めた才を愛でるあまり、わしはおぬしを甘やかしすぎたようだ」
静かに告げる蔚塁を前に、振斗はガクガクと身体を震わせる。その額からは滝のような汗が流れ、荒い息遣いが夜闇に響く。
四十路に近い成人男性が、叱られた子供のように縮こまる姿は傍から見ればひどく滑稽であった。
しかし、クリムトは笑わなかった。笑えなかった。どれだけ言葉は静かでも、蔚塁の言葉が内包する刃のような重圧はごまかしようがない。ただ聞いているだけのクリムトでさえ、全身に冷や汗がにじみ出てしまう。
――いつの間に抜き放ったのだろう、蔚塁の手には冷たい輝きを放つ刀が握られていた。
クリムトがそのことに気づいた次の瞬間、ごとり、と鈍い音がして振斗の頭が床に転がり落ちる。
抜く手も見せずに振斗の頸を断ち切った蔚塁は、自らが斬り落としたものに一瞥もあたえず、クリムトに向き直った。
夜の闇を凝集したような深く、暗い眼差しに射抜かれたクリムトは、反射的に心装を構える。
だが――
「ぐ……!?」
見えざる巨人の手で身体をわしづかみにされたように、全身がきつく締めつけられる。手も足も動かず、呼吸さえままならない強烈きわまる重圧。
直後、クリムトの手に握られていた倶利伽羅が溶けるように宙に消えた。抜刀状態を維持するだけの勁を封じられたのである。
それが蔚塁の術式によるものであることは火を見るより明らかであった。
同じ術式であっても、振斗のそれとは精度が違う、密度が違う、濃度が違う。完璧に勁を封じ込まれた今のクリムトは、初歩の勁技さえ使うことができない。
ただ、仮にクリムトが全力を出せたとしても、次に繰り出された蔚塁の一刀はしのげなかったであろう。
まるで体重のない者のように、風を思わせる速さでクリムトとの距離を詰めた蔚塁が刀を振るう。敵意はなく、戦意もなく、勁の滾りも感じさせない無の一刀。それなのに防げる気がしない。躱せる気がしない。
「――儺儺式絶刀、転」
その蔚塁の声を耳にした瞬間、クリムトは自らの首が宙を飛ぶ光景を幻視した。反射的に右腕で頸部を守っていなければ、間違いなくそれは現実の光景になっていたであろう。
閃光のごとき蔚塁の斬撃が、クリムトごと夜闇を断ち切る。
わずかに遅れて大量の血しぶきが舞い散り、びしゃびしゃと音をたてて床に赤い染みをつくった。その血しぶきの源となっているのは、斬り飛ばされたクリムトの右腕である。
『クルト!!』
それまでクリムトの邪魔をするまいと、固唾を飲んで状況を見守っていたランとヤマトの口から同時に悲鳴があがる。
クリムトはといえば、そんなふたりに声を返す余裕もなく、斬り飛ばされた右腕の傷口をおさえながら蔚塁と距離をとった。今さら多少の距離をとったところで、眼前の老人から逃れられるはずもないのだが、クリムトは激痛に耐えながら活路を探す。その間、悲鳴はおろか苦痛の声ひとつもらさなかった。
それを見た蔚塁が静かに口をひらく。
「右腕一本を犠牲にして首を守ったか。それ以外に今の一刀をしのぐ方法がないことは明白であるが、それをためらいなく実行に移せる剣士は多くない。若いながらに見事な胆力よ」
「……お褒めにあずかり光栄、とでも言えばいいのか……?」
クリムトが激痛に耐えながら言い返すと、蔚塁ははじめて顔に微笑をひらめかせた。
「この期に及んで減らず口を叩く負けん気の強さも嫌いではない。クルトといったか、おぬし、何か言い残すことはあるか? あるなら言うておけ。式部に伝えて、おぬしの遺言を家族のもとに届けてつかわす」
「は……余計なお世話だ……ッ」
一瞬、脳裏に姉の顔がよぎったが、クリムトは自分の意思でその顔を遠ざけた。蔚塁の申し出に心が揺れなかったといえば嘘になるが、自分を殺した相手に情けを請うような真似はクリムトの誇りが許さない。
自分の配下を平然と切り捨てるような人間が、敵であるクリムトとの約束を律儀に守るとも思えなかった。
クリムトの返答を受けた蔚塁は気を悪くした様子もなく、あっさりとうなずく。
「ならば、わしにできるのはこれ以上苦痛を長引かせぬことだけだ」
さらば、と短く告げて蔚塁はクリムトに歩み寄り、刀を振り下ろした――いや、振り下ろそうとした。
だが、その刀身はクリムトの頸を断ち切る前に宙で制止する。
クリムトと蔚塁の間に割って入ったランが、蔚塁の刃を身体で止めようとしたからである。
蔚塁は右の眉をあげてランを見た。その表情にはわずかながら戸惑いがある。
方相氏の長である蔚塁は、当然のように鬼人を斬ることにためらいはない。とはいえ、年端もいかない少女、しかも剣士でもない相手を好きこのんで斬る趣味はなかった。
「退くがよい。さもなくば、おぬしから斬る」
「退きません!」
蔚塁の警告を、ランは即座にはねのける。毅然として、というわけではない。足は震えているし、必死に蔚塁を見返す眼差しは恐怖で揺れている。それでも、ランはその場から動こうとはしなかった。
「その者は光神教徒ではなく、門を守る人間の剣士だ。三百年前、おぬしら鬼人族を裏切って鬼界に閉じ込めた張本人であるぞ」
「だとしても、クルトは私と弟を守ってくれました! あなたたち光神教から、私たちを守ってくれたんです! 私たち崋山王家は決して恩を忘れません!」
「……そうか」
ランの懸命な声を聞いた蔚塁は、説得の無益さを悟って小さくため息を吐く。
どのみち、秘事を知ったという意味では姉弟も始末の対象である。蔚塁としては、ふたりを光神教の本殿に連れていって教皇にあずけることも考えていたのだが、ここまで光神教に隔意を持っているようでは、おとなしく蔚塁についてくることはないだろう。
またしても振斗の浅慮が祟った、と蔚塁は内心でぼやく。配下にめぐまれない己の不運がうらめしかった。この点、見どころのある若者を多く抱える式部が羨ましくさえある。
ともあれ、この場でとれる手段は決まっていた。崋山王家があくまで恩に殉じるというのなら、蔚塁は方相氏の長としてやるべきことをやるのみである。
「よかろう。ならば、その恩に殉じて逝くがよい、崋山の姫」
そういって蔚塁がランの細首を断ち切ろうとしたときだった。
――不意に、蔚塁が床を蹴って素早く後方に飛びすさる。直後、凄まじい勢いで飛来した飛礫が、それまで蔚塁の頭部があった空間を引き裂いた。
飛礫とはようするに小石のことだが、十分な技術と十分な勁を用いて弾き飛ばされた飛礫はたやすく人の身体を砕き割る。もし蔚塁が避けなければ、飛礫は確実に頭蓋を砕き割っていただろう。
飛礫はなおも止まず、後方に下がった蔚塁めがけて二度、三度と続けざまに襲いかかる。その都度、蔚塁は後ろに飛んで飛礫を躱し続けた。
結果、蔚塁とランの距離は大きく開く。それを見てもう十分と思ったのだろう、蔚塁を襲っていた飛礫が止まった。
いったい何事が起きたのか。わけもわからず目を瞬かせていたランは、いつの間にか自分と蔚塁を結ぶ直線上にひとりの少年が立っていることに気づく。
灰色のざんばら髪に赤銅色の肌。双眸はありあまる戦意を宿して勁烈に輝き、額からは天を突くように一本の角が突き出ている。
顔に若さと英気をみなぎらせている少年が着ている戦袍の色は黒。すなわち中山軍のものである。
「……黒狼カガリ。はやここまで来ていたか」
蔚塁の言葉を聞いた鬼人の少年――カガリは、にやりと不敵に笑ってみせた。




