第九十二話 クリムトVS振斗
「どういうつもりだ、クルト?」
仮面を外した振斗が険しい顔で問いかけてくる。両眼から放たれた視線は針のように鋭くとがり、クリムトの顔に突き刺さっていた。
クリムトは唇の端を吊りあげて応じる。
「答えるまでもないだろう。お前の茶番に付き合うのはここまでということだ」
「ほう、面白い。貴様は式部の命令に背くというわけだな?」
それを聞いたクリムトは思わず、くくっと失笑してしまう。いまだに御剣家が自分の命令で動いている、と思い込んでいる振斗が滑稽だったのである。
それを見た振斗は自分に向けられた侮蔑の感情を正確に読み取り、眼差しを吊りあげた。そして、憎々しげに吼える。
「いいだろう。もう一度貴様に儺儺式の絶技を味わわせてやる。今度は手加減ぬきでだ。みずからの不遜を冥府で悔いるがよいわ、小僧!」
この時点で振斗は、ランを殺してヤマトに恨みを植えつけるという計画を棄てていた。
振斗にとって重要なのは中山軍が来襲するまで反乱を維持すること。姉弟を殺してそれを中山軍の仕業に見せかけ、カササギをはじめとした崋山将兵を焚きつける、という手もとれるのである。
旗頭を討たれたことで崋山軍が瓦解してしまう恐れもあるが、そうなったらすべてはクルトの、ひいては御剣家の責任ということにしてしまえばよい。これは言い逃れではなく単純な事実であり、光神教の本殿で『嘘看破』にかけられても問題はなかった。
ふたたび四ツ目の鬼面をかぶった振斗は、剣を持たない手で印を結ぶ。
――祓いたまえや大儺公 疫鬼を千里の外へ
――清めたまえや小儺公 境に在りし穢悪きを
――乞い願わくは我もまた 五種の兵持ちて追い走らん
祝詞にも似たその言葉は方相氏独自の呪文。世に知られる魔法、魔術と異なり、悪魔の術式を改変したものではなく、あくまで人間の魔力で練られる術式である。
このことからもわかるとおり、方相氏は人の身で悪鬼妖魔を打ち払うことを理念とする戦闘集団だった。方相氏に属する者たちは、心装はもちろんのこと、悪魔の術式を改変した攻撃魔法、精霊の力を借りる精霊魔法、神の奇跡をもたらす神聖魔法といった、人外の力を頼る術式を忌避している。
人外の存在に頼った力は、真の意味で人間のものにはならない。くわえて、人外の力に頼って戦う者の多くはその力に呑まれてしまう。そうやって「人でなし」となった者たちを討つこともまた方相氏の役目だった。
人外の力に頼らないという方相氏の理念は、そのような歴史の中ではぐくまれたのである。
自分たちは人間の守護者であり、それゆえに人間が生まれながらに持つ膂力、魔力、精神力を鍛え上げ、磨き上げて魔を滅さなければならない――それが方相氏の掟となった。
むろん、口でいうほど簡単なことではない。ことに方相氏を苦しめたのが鬼――鬼人族との戦いである。
鬼人との戦いは心装との戦い。同源存在を宿すことなく鬼人を討つことの困難さは言をまたない。いったいどれだけの戦士が鬼人との戦いで倒れたか、正確な数は誰にもわからなかった。
それでも方相氏は諦めることなく対策を練り、研究を重ね、研鑽を積み、ついに心装封じの秘術を修得するに至る。
それが振斗が唱えた呪文である。術者自身を起点として発動する結界術式『礙牢』。その効力は、結界の範囲内にいる者の魔力を極限までけずりとるというものだった。
この礙牢を元にして編み出された戦闘術こそ儺儺式である。儺儺式とは幾百幾千の屍の果てに方相氏が編み出した鬼人殺しの剣なのだ。
儺儺式の使い手である振斗は、十年以上の年月をかけて礙牢を会得し、さらに十年以上の年月をかけて儺儺式を修めた。その振斗にとって、クリムトのような青二才が奥義を修得できる幻想一刀流など、論ずるにも値しない子供剣術にすぎない。
生まれ持った己の力を極めることを放棄し、易きに流れた半端者の剣など恐るるに足らぬ。
絶対的なまでの自信をもって、振斗は飛鳥のごとくクリムトに躍りかかった。
雷光のごとく突き出された剣尖がクリムトの眉間を襲う。クリムトは横に躱すことも、後ろに退くこともせず、これを真っ向から受け止めた。
クリムトたちが戦っているのはさして広くもない砦の通路である。横に避けるほどの幅はなく、かといって後ろにさがれば無防備なランたちが振斗の視界にさらされる。正面から受け止める以外の選択肢はなかった。
双方の剣が激突し、鼓膜をかきむしるような耳障りな擦過音があたりに響きわたる。振斗の刺突の勢いにおされ、危うく剣を弾き飛ばされそうになったクリムトは、小さく舌打ちして下肢に力を込めた。
そのクリムトめがけて振斗は猛烈な勢いで刺突を繰り出ていく。いずれも速く、鋭く、それでいて重い攻撃であり、受けとめるたびにクリムトの手に強いしびれが走る。
重厚な圧力は細剣ではなく槍による攻撃を受けていると錯覚するほど。他にどれだけの欠点があろうとも、剣士としての振斗の実力はまぎれもなく本物だった。
「ハハハ! ずいぶんと苦しそうだな、クルト! 先ほどまでの威勢はどこへやった?」
クリムトを嘲弄するように振斗は笑声を放つ。むろん、その間も攻撃の手を緩めることはしない。
すでに振斗は勝利を確信しており、鼠をいたぶる猫のごとき心境でクリムトを追い詰めていく。
追い詰められた鼠は猫をも噛むものだが、クリムトにはそれさえできぬ。礙牢によって魔力を封じられたクリムトは、心装はおろか勁技さえろくに使えないからだ。
むろんというべきか、礙牢はひとたび発動すれば絶対に破ることのできない術、というわけではない。人間ひとりの魔力で発動する術式にそこまで絶対的な効力は望めない。
だからこそ、振斗をはじめとした儺儺式の使い手たちは、この術式を極限まで練り上げるのである。術式が内在する限界を少しでも高く引き上げるために。
振斗は十年以上の月日をかけてこの結界術を修得した。異なる表現を用いれば、ひとつの術式を極めるためにクリムトの人生の半分以上を捧げたのである。振斗を中心として展開する精緻にして強固な結界は、断じてクリムトのような若造に破れるものではない。少なくとも、振斗はそう信じて疑わなかった。
「同源存在などという胡乱な力に頼るから、いざその力を失ったときに何もできぬ! たやすく手に入れた力はたやすく失われるのだ! この金言を胸に冥府に旅立つがいい、クルトよ――儺儺式棘刀、千峰刃!!」
過日、クリムトの胸をえぐった儺儺式の奥義を振斗は再び放つ。以前は殺さぬように手加減したが、その必要がなくなった今はもちろん全力だ。
瞬きのうちに繰り出された無数の刺突をさばききれず、クリムトの剣が宙高くはじき飛ばされる。
これでクリムトに手向かう術はなくなった。蜂の巣のごとく身体を抉りとられ、無残な屍をさらすクリムトを幻視して、振斗は唇の端を吊りあげる。
その嘲笑は、しかし、長くは続かなかった。
ガシリ、と。
繰り出した剣尖をクリムトが素手でわしづかみにしたからである。むろん、そんなことをしてただで済むはずはなく、クリムトの手から派手に血しぶきが飛び散ったが、白髪の剣士は眉ひとつ動かさなかった。
それを見た振斗はクリムトに奥義を止められた驚きと、それが何の意味もなさないという嘲りを溶け合わせた顔で吐き捨てる。
「ふん。それで私の剣を防いだつもりか? このまま剣を押し込んでしまえば、貴様は何もできぬ」
「そう思うなら、そうすればいい」
「いわれずとも! つまらぬ虚勢を張るでないわ、小僧!」
言葉どおり、振斗は全身の力を込めて剣を押し込んでいく。反撃の警戒はしなかった。剣を失い、魔力を封じられたクリムトにできることなど何もない。
そのはずなのに。
「――ぬ」
剣がぴくりとも動かない。どれだけ力を込めて押し込んでも、クリムトの膂力で阻まれてしまう。
そんなはずはない、と振斗は内心で思った。魔力を封じるということは、勁を封じるということだ。今のクリムトは勁技はもとより基本的な身体強化すら使えないはず。
それなのに、どうして自分は己の剣ひとつ自由に動かすことができないのか。振斗がその疑問の答えにたどりつくより早く、剣を握る手に異変が起きた。
「痛ッ!?」
まるで自分が剣ではなく炎を掴んでいるような灼熱の激痛。
その熱の源が刀身を握りしめているクリムトであることに気づいたとき、振斗の背に氷塊がすべりおちた。
紅い双眸が燃えるような輝きを放ちながら振斗を睨み据えている。
「…………クルト、貴様」
「手加減していたのが自分だけだと思ったか? たしかに厄介な術式だが、この程度で俺の心装を封じ込めることなど出来はせん」
「ぐ……く! 剣から手を離せ!」
止まることなく高まり続ける熱に耐えかね、振斗が苦しげに叫ぶが、もちろんクリムトは相手の要望に応じなかった。
そうしている間にもクリムトの勁は高まり続け、それに応じてクリムトの身体から湧きおこる熱量も増加を続けていく。その勁量はいつものクリムトに比べれば半分の半分といったところだが、それでも心装を持たない剣士ひとりと戦うには十分すぎる。
繰り返すが、礙牢は人間ひとりの魔力で発動する術式であり、どうしても限界はできてしまう。どれだけ緻密に術を編もうとも、術者より敵の魔力が高ければ効力は鈍らざるをえない。
つまるところ、振斗はクリムトを過小評価したのである。あるいは己の力を過大評価したというべきか。いずれにせよ、それは振斗にとって致命的な失策となった。
「心装励起――焼き払え、倶利伽羅!」
「ぐあああああッ!!」
クリムトが心装を抜刀する際に吹き荒れる高熱と衝撃をまともに浴び、振斗は悲鳴をあげて吹き飛ばされる。クリムトは手に残った振斗の剣を遠くに放り投げると、倒れている振斗にゆっくりと歩み寄った。
クリムトは思う。
振斗は何やら得々と語っていたが、自分程度を押さえられないようでは儺儺式とやらも底が知れる。クリムトは黄金世代における序列は最下位であり、青林八旗の序列も七旗の七位。クリムトより上の旗士などいくらでもいるのである。
ただ、そう思う一方で、振斗が使った術式が厄介だといった言葉に嘘はなかった。心装を修得していない平旗士であれば勁技のすべてを封じられるであろうし、心装を修得したばかりの新米であっても同様だろう。
このような術式を編み出した時点で方相氏という集団はただものではない。そして、その方相氏と御剣家当主の間には何らかのつながりがある。それはこれまでの振斗の言動が証明していた。
そのあたりのことを振斗から聞き出す必要がある。事によったら、神器に頼ることなく姉を解放することができるかもしれない。クリムトがそう考えたときだった。
「――何をしておるのだ、振斗よ」
夜闇を震わせて、その声がクリムトの耳朶を震わせた。
声の主はクリムトの真横に立っていた。何の予兆もなく、何の気配もなく、まるで何もない空間から突如として湧き出したかのように、その人影はそこにいた。
ぞわり、と悪寒がクリムトの全身を駆け抜けた。全身の毛を逆立てたクリムトは、とっさにその場から飛びすさって人影と距離を置く。
人影はといえば、そんなクリムトに一瞥もあたえず、振斗に歩み寄っていった。
「計画にない動きを続けた挙句、報告もよこさない。すでに中山軍は大興山に向けて西都を発った。このままでは崋山に投じた時間と資金がすべて無駄になりかねぬ。そう思うて足を運んでみれば――」
その声に怒りは感じられなかった。蔑みも、嘲弄も、苛立ちも感じられなかった。あくまで冷静、あくまで沈着。クリムトに敵意を向けているわけでもない。
それなのに、どうしてこうも背筋が震えてしまうのか。
「まさか儺儺式の使い手が、己の子供でもおかしくない若者を相手に膝を折るところを見せられるとはな。重ねて問おう、振斗よ。おぬしは何をしておるのだ?」
クリムトの視線の先で、鬼面を失った振斗が蒼白になって震えていた。
震える唇が人影の名前をつむぐ。
「う、蔚塁様、私は、私が、いえ、御剣家が……そこにいるクルトめが……!」
回らぬ舌で懸命に釈明をしようとする振斗を見て、蔚塁と呼ばれた人物は小さくため息を吐いた。
振斗の狼狽ぶりを見て埒があかぬと判断したのか、蔚塁はおもむろにクリムトの方を振り向く。
ここではじめてクリムトは蔚塁の顔を正面から見た。
白髪白髯、人生の年輪が深々と刻まれた顔はどれだけ低く見積もっても五十歳を超えているだろう。だが、生気に満ちた顔に老いの影は感じられない。
老人は構える様子もなくクリムトを見て、またクリムトが手にしている心装を見て、静かに告げた。
「わしは蔚塁、方相氏を束ねる者。見知りおき願おうか、若き青林旗士よ」