第八十七話 激闘と、蠢動と
類を絶した二人の戦士が激しい戦いを繰り広げている。地面で、空中で、ある時は力まかせに、時には技巧をからめて、飽くことなく激突を繰り返している。
両者がぶつかりあう都度、巨大な勁が衝突して大気が悲鳴をあげた。耳をつんざく擦過音。肌を焼く焦熱。吹きすさぶ風は時と共に激しさを増し、今や嵐さながらの様相を呈している。
その嵐の只中で、ウルスラ・ウトガルザは固唾をのんで眼前の戦闘に見入っていた。
戦いが始まってから、いったいどれだけの時間が経過しただろう。正確なところはわからないが、一刻(二時間)や二刻(四時間)でないことは確かだった。心装の柄を握るウルスラの手は石のようにかたく強張り、容易に動かない。
それだけの時間、休むことなく戦い続けているというのに両者――空とドーガの勢いは止まらない。止まらないどころか、時間を追うごとにますます激しく猛り立ち、互いに致命の一閃を繰り出して鎬を削り続けている。
ウルスラは声もなくその戦いを見つめていた。見る以外にできることがなかった。助太刀をしようと割って入れば、その瞬間に二つの力によって身体が千々に引き裂かれてしまうことが明白だったからである。
憑かれたように戦いに見入っているのはウルスラだけではない。隣にいるクライアもそうだし、鬼人の陣地では武装した鬼人たちが瞬きすら忘れたように神域の激闘を見つめている。おそらく、後方の御剣家の砦でも多くの旗士たちが空とドーガの戦いを注視しているに違いない。
――信じられない。
もう何度目のことか、ウルスラは胸中で同じ言葉をつぶやいた。その視線は主に空に注がれている。
通常、青林旗士が全力状態を維持しようと思えば半日が限界である。ましてやここは鬼界、ただ立っているだけで勁の消耗を強いる煉獄の地だ。この地で長時間にわたって全力状態を維持する困難さは言をまたない。
半日近くにわたって全力戦闘を継続している空の勁は間もなく限界に達し、これから先は減少していく一方――そのはずなのに。
ウルスラの視線の先で戦っている空に消耗の兆しはない。消耗するどころか、時と共に空の勁量は増し、勁質は高まり、勁圧は研ぎ澄まされていく。あたかもウルスラの予測をあざわらうかのように、空は半日近くが経過した今なお、その力を増大させ続けていた。
ソウルイーターという空の同源存在には、吸収なり略奪なり、敵の力を奪う能力がある。そのことをウルスラはディアルトから聞かされていた。だから、空がドーガの力を奪いながら戦っているというなら、今の状況にも一応の説明がつけられる。
しかし、ドーガもまた長時間にわたって空と同等の勁を維持し続けており、その闘気、精気が萎える様子はない。多量の力を吸い取られながら戦っている者の姿とはとうてい思えず、空がドーガの力を吸い取って戦いを継続している可能性は低い、とウルスラは判断した。
それはつまり、空は他者の力を奪うことなく己の勁のみで長時間戦い続けている、ということである。
力をセーブしながら戦っているわけではない。一撃一撃に高度の勁を込めて――それこそ必殺に等しい威力を常時吐き出しながら、長時間の全力戦闘を続けているのだ。これで吸収の能力まで発揮できたのなら、それこそ敵がいるかぎり永遠に戦っていられるのではないかとすら思える。
「ソウルイーター。とんでもない心装だね」
思わずそう声に出したウルスラは、すぐにけふけふとせきこんだ。気がつけば、喉がからからに乾いていたのである。口から出た声も自分のものとは思えないくらい掠れていた。
強張った手をほぐしながら腰の水袋を手にとったウルスラは、中に入っていた生ぬるい水を口に含んで渇きを癒す。
そして、ほう、と小さく息を吐いてから、あらためて眼前の戦闘に意識を集中させた。
ソウルイーターはとんでもない心装だが、それを苦もなく使いこなす空も同じくらいにとんでもない。
両者の激突は始まったときと変わらない――いや、始まったとき以上の激越さを呈しているが、その内容は少しずつ変化してきている。少なくとも、ウルスラの目にはそう映っていた。
当初、空はあえて敵の攻撃を身体で受けとめ、直後に反撃を繰り出すという戦法に終始していた。肉を斬らせて骨を断つという言葉そのままに、である。
それは勁の防御を貫通してくる勁打という技に対抗するための戦い方であり、その戦い方自体は今も変わっていない。だが、反撃に移るまでの時間が、少しずつ、けれど確実に短くなっていた。
目にもとまらぬ速さで激突を繰り広げている両者だ。反撃に至る時間が短くなっているといっても、実際に短縮されているのは瞬きひとつにも満たない時間だけである。だが、それでもたしかに空はドーガの勁打に対応しつつある。幾度も幾度も敵の勁打を受ける中で、浸透してくる勁を防ぐコツをつかんだのだと思われた。
これはソウルイーターの力のみでは成しえない、使い手の技量である。
対峙している相手にしたら、たまったものではないだろう。底知れぬ体力と魔力を背景に負傷を恐れず躍りかかってくる敵手。どれだけ攻撃しても即座に回復され、ならばと攻勢を強めれば、それを糸口にして奥義を解析されてしまう。
戦えば戦うほどに自分だけが消耗し、技術を丸裸にされる戦いの行きつく先は、避けようのない敗北である。ウルスラであれば絶対に戦いたくない相手だった。
――まあ、そんな空と楽しげに戦っている時点で、あのドーガという鬼人も十分に規格外なんだけど。
視線の先では、ドーガがこれまで以上に勁を高ぶらせて空に挑みかかっている。度重なる衝突ですでにドーガの鎧は四散し、顔を覆っていた面頬も外れている。上半身をあらわにした鬼人の虎面には、楽しくてたまらないと言わんばかりの深い笑みが刻まれていた。
その姿はウルスラの記憶にある四ツ目の鬼人とは重ならない。だが、父を殺した鬼人がこのレベルの敵である可能性は十分にある。
ウルスラは今なお戦い続けるふたりに鋭い視線を送りながら、心装の柄を握る手に力を込めた。
◆◆◆
空とドーガが激しい戦いを繰り広げていた同時刻。
中山に反旗をひるがえした崋山の残党は大興山と呼ばれる古戦場に集まり、やがて来る中山との戦いに備えて牙を研いでいた――表向きにはそういうことになっている。
だが、その実情は惨憺たるもので、士気はお世辞にも高いとはいえず、武具や糧食にも不足をきたし、日々襲い来る魔物を退けるだけで手一杯のありさま。将兵の多くは中山との戦いよりも今日を生き抜くことに汲々としており、西都を取り戻すなど夢のまた夢といった状況だった。
もともと大興山に集まった崋山の旧臣の数は多くはなかったが、惨状に耐えかねて逃げ出す者が続出したせいで、ただでさえ少なかった人数はさらに減少の一途をたどっている。西都でドーガが洞察したとおり、このままいけば崋山軍は中山と戦うまでもなく立ち枯れるであろう。
ただ、そんなせっぱつまった状況にありながら、崋山の残党はまだかろうじて統率を保っていた。これは組織の中核となる者たちが健在だからである。
それは反乱の旗頭であるギエン王の遺児ヤマトのこと――ではなかった。ヤマトの姉であるランでもない。ヤマトはまだ八歳の子供であり、ランにしても十代半ばの少女でしかない。母親の身分が低いこともあり、ここ大興山で幼い姉弟に与えられた役割は将兵を束ねる神輿、それ以上でも以下でもなかった。
崋山の残党を統べているのはカササギという人物で、かつて崋山十六槍のひとりに数えられた武人である。カササギは崋山という国ではなく、ギエンという個人に忠誠を誓っていた壮年の人物で、ランやヤマトに対しては一応の敬意を見せるものの、その敬意は形式の枠を超えるものではない。
その証拠に重要な軍議をひらいてもヤマトたちは声もかけられない。大興山の一画に建設された砦の一室で、姉弟そろってじっとしていることだけを求められていた。
――まったく、末期症状もいいところだ。
大興山を取り巻く状況を俯瞰して、現状を一言でまとめてみせたのは、崋山の姉弟に護衛役として近侍している青年である。
周囲からクルトと呼ばれるこの人物は特徴的な白髪紅眼の持ち主で、鬼人族が集った大興山にあっては数少ない人間のひとりだった。具体的に述べれば、今現在、この地にいる人間はクルトを含めてふたりしかいない。本来、鬼人の集団に人間の居場所があるはずはないのだが、ふたりはいずれも光神教の信徒ということで崋山軍の中に席を得ていた。
「……まったく、俺はこんなところで何をしているのだか」
今度は心の中で思うだけでなく、実際に口に出してつぶやくクルト。それを耳にとめたヤマトが不思議そうに問いかけてきた。
「クルト、何か言いましたか?」
幼さに見合わぬ丁寧な言葉づかいをする主に対し、クルトは言葉すくなに応じる。
「は。外から妙な気配を感じまして――もしかしたら魔物が近づいているのかもしれません。確認してきますので、この場を離れる許可をいただきたい」
それを聞いたヤマトは一瞬眉を曇らせた後、たずねるように姉の方を見る。
ランはじっとクルトに視線を注ぎながら口をひらいた。
「先日のように砦の中に入り込まれたら一大事です。クルト殿、手数をかけますが確認をお願いします」
「承知。それでは」
短く返答したクルトは踵を返して姉弟の部屋を出る。そして、そのまま砦の中を歩いて防壁の上に出た。
崖のように切り立った斜面につくられた砦は、背後からの攻撃を気にすることなく、前方と左右に守りを集中できる利点を持つ。その三方にしても地形は険しく、決して頑丈とはいえない砦の防柵でも十分に敵を防ぎとめることができるだろう。
まさに難攻不落――と言いたいところであるが、魔物にとっては足場の悪さなど大した障害にはならない。勁を用いて宙を駆ける青林旗士にとっても同様である。
「青林八旗ならこんな砦、半刻(一時間)とかからず落とすことができるだろうな」
クルト――クリムト・ベルヒはそういってニヤリと唇の端を吊りあげた。吊りあげて、すぐにその虚しさに気づいて口元を引き締める。
姉クライアを牢獄から救い出すべく、鬼人の王アズマをねらって鬼界に足を踏み入れたクリムトが、こうして崋山の残党の中で活動しているのはもちろん理由あってのことである。
結論からいってしまえば、クリムトははじめからアズマ王を討つつもりはなかった。いかに姉を助けるためとはいえ、長期にわたる行動が不可能な鬼界にあって、どこにいるとも知れない鬼人の王を討てると考えるほどクリムトの判断力は鈍っていない。
クリムトは今回の任務にあたり、兄ディアルトから少なくない数の魔力回復薬を与えられていたが、それだって必要量にはとうてい足りない。首尾よくアズマ王を討てたとしても、それであの義父が素直に姉を解放してくれるとも思えなかった。
では、クリムトは何のために鬼界にやってきたのか。
それは先の鬼ヶ島襲撃において、鬼人たちが用いていたという姿隠しの神器を手に入れるためである。
一旗の精鋭が鵜の目鷹の目で見張っている鬼門を、多数の鬼人が気づかれることなく通り抜けられる魔法の品。それがあればベルヒ家の地下牢から姉を救い出すこともたやすい。
助け出した姉をベルヒ家の目の届かない場所まで連れていくときも、神器はおおいに役に立つだろう。青林旗士にとって島抜けは大罪であり、これを成功させた者は御剣三百年の歴史の中でひとりも存在しないが、そもそも抜け出たことさえわからないのだから追手も後を追いようがない。
過日の襲撃の後、神器の存在を耳にした瞬間から、クリムトは喉から手が出るほど神器が欲しかったし、実際に手に入れるべく考えをめぐらせていた。
問題はどうやって手に入れるかである。侵入した鬼人たちが身に付けていたはずの神器はほとんど発見されなかった。鬼人たちが今際の際に破壊したのか、姿なき回収者がいたのか、いずれにせよ御剣家の手に渡った神器は数えるほどしかない。
その数少ない神器も御剣家の蔵に入れられ、一介の旗士であるクリムトが手を出すことはできなかった。神器欲しさに蔵荒らしをするのは自殺行為以外の何物でもない。
それゆえ、クリムトは鬼界の中で神器を発見する道を選んだのである。
手がかりなんてものはなかったが、それでも敵の王の命をとることに比べればまだマシだと考えて、クリムトは鬼界に足を踏み入れた。
その結果、紆余曲折を経て、こうして崋山の残党に入りこむことができたのは幸運だったというべきだろう。
だが、この幸運はクリムトひとりの力でつかんだものではない。
前述したようにクリムトは光神教の信徒として鬼人たちに受け入れられているが、クリムトはこの地に来るまで光神教の教義どころか名称さえ知らなかった。
当然、信徒を騙って鬼人たちの中にまぎれこむことは不可能である。クリムトを光神教の信徒だと証明してくれたのは、大興山にいるもうひとりの光神教徒だった。
クリムトにとっては恩人ともいえる相手だが、感謝の気持ちはさらさらない。何故かといえば――
「こんなところで何をしている、クルト?」
傲然とした声と共に姿をあらわしたのは、今まさにクリムトが脳裏で思い描いていた人物だった。
名を振斗といい、年の頃は三十代の後半で、着ている物こそ神官らしいローブだったが、がっしりとした逞しい肉体は疑いなく戦士のそれである。
振斗はカササギに並ぶ崋山軍の中心人物のひとりで、資金や糧食の調達を一手にまかされている。大興山の崋山軍が飢え死にせずにいられるのは振斗と、振斗の後ろにいる光神教のおかげといってよかった。
もっといえば、そもそもカササギら崋山の旧臣たちに反乱をそそのかしたのも振斗ら光神教徒たちである。何故クリムトがそんなことを知っているのかといえば、振斗自身が得々と語ってくれたからだった。
「貴様にはヤマト様の護衛を命じていたはずだが、なぜこんなところで油を売っている? 式部の配下は子守のひとつもできぬのか?」
「すぐに戻る。それより、御館様の名を呼び捨てにするな。前にもいったはずだ」
「ああ、いっていたな。だが、呼び捨てにして何が悪い? 貴様ら御剣はしょせん我ら方相氏の従者にすぎん。本来、式部めは私の前にぬかづかなければならない身分なのだ。むろん、貴様もな」
嘲弄と傲慢をとけあわせた声音で振斗はうそぶく。
これに対し、クリムトは無言で眉根を寄せた。
今の言葉からもわかるとおり、振斗は御剣家のことを知っている。そして、クリムトが当主の命令を受けてこの地に来た、と誤解している。この誤解があるからこそ、振斗は顔も名前も知らなかったクリムトのことを鬼人たちの前で光神教徒だと保証してくれたのである。
恩を売ったという自覚と、自分は御剣家の上に座る人間であるという認識が、クリムトに対する振斗の傲慢な態度としてあらわれていた。
クリムトとしては幾重にも忌々しいことだったが、振斗から得られる情報はクリムトにとって無視できないものばかり。特に光神教とのつながりは間違いなく御剣家が長年隠し続けてきた秘事である。
これは神器とは異なる意味で姉を助ける切り札になる――その確信が、本来短気なクリムトに常ならぬ忍耐力を与えていた。
ただ、それでも直情的なクリムトのこと、完全に内心を隠しとおすことは難しい。クリムトの表情ににじみ出た敵意に気づいたのだろう、振斗はふんと鼻で笑った。
「どうした、何か言いたげだな。なんなら、また稽古をつけてやってもよいぞ。貴様らが使うまがい物とは違う本物の滅鬼の技、もう一度その身で受けてみるか?」




