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第八十六話 竜虎激突


 窮奇きゅうきという同源存在アニマの名を口にするや、ドーガの身体がみるみる変化しはじめた。


 筋骨隆々(きんこつりゅうりゅう)とした体躯はそのままに、黒、金、白の三色の獣毛が縞模様しまもようを描きながら鬼人の肌を覆っていく。見開かれた双眸そうぼう黄玉トパーズのように爛々(らんらん)と輝き、面頬めんぼおからのぞく口には人の物ではありえない牙がのぞいていた。


 虎に酷似こくじしたその姿を見て、ふと過去の記憶がよみがえる。


 呪いや病で獣化する人間は虎人ワータイガー狼人ワーウルフと呼ばれるが、俺は心装を会得して間もない頃、この狼人ワーウルフと戦ったことがある。


 あのとき対峙した狼人ワーウルフは人間としての理性をほとんど失っており、唇の端からダラダラとよだれをこぼす血に飢えた獣にすぎなかった。


 それに比べたら、眼前のドーガの姿は神々しくさえある。力を肉体であらわすタイプの心装は変異型と呼ばれるが、ドーガはこれにあたるのだろう。


 特筆すべきは、心装を出すことで爆発的に膨れあがったけいが今なお完璧に制御されていることである。その証拠というべきか、心装を顕現させてなおドーガの周囲は驚くほど静かだった。


 地面が割れるわけでもなく、突風が吹くわけでもなく、大気がきしむわけでもない。それでいて、けいの圧力だけは物理的な圧迫感をおぼえるほどに研ぎ澄まされている。


 ぞくり、と背筋が震えたのは高揚によるものなのか、恐怖によるものなのか。俺がそれをたしかめる前にドーガが動いた。



「おおおおお!!」



 瞬きひとつの時間すら要さず、鬼人の巨躯が肉薄してくる。地面を蹴る音は野山を駆ける鹿のように軽いのに、こちらに向かって突進してくる迫力は象のそれだ。


 かたく握りしめられたドーガの右拳に武器は握られていなかったが、籠手こてをはめた拳それ自体が破城鎚はじょうついのごとき威力を秘めていることは瞭然りょうぜんとしていた。



「――ッ!」



 砲弾のごとき正拳突きをソウルイーターの刀身で受けとめる。鋼鉄と鋼鉄をこすりあわせたような激しい擦過さっかおんが耳を焼き、物凄まじい衝撃が心装を通じて襲いかかってきた。


 とっさに足を踏みしめていなければ、今ごろは地面と平行になって宙を飛んでいただろう。


 俺とドーガは至近距離で向かい合い、刀と拳による異色の鍔迫つばぜりあいを演じる。


 ソウルイーターの刀身は、鋼鉄はもちろんのこと金剛石アダマントでさえ斬り裂くことができる。その刃とせめぎ合いながら、ドーガの籠手には傷ひとつ付いていなかった。この事実は俺の攻撃がドーガのけい防壁シールドを打ち破れていないことを意味している。


 舌打ちのひとつもしたかったが、正直、それどころではなかった。けいで全身を強化してなお敵の膂力りょりょくは俺を上回っており、踏ん張っているかかとが悲鳴をあげている。この重圧は鬼ヶ島で戦った鬼神に優るとも劣らない。


 そう思った瞬間、視界の端でドーガの左腕がかすむような速さで動いた。右拳みぎこぶしの圧力はそのままに、左の拳で俺の脇腹をえぐろうというのだろう。


 けいがたっぷり込められた拳を食らえば、悶絶もんぜつ程度で済まないのは火を見るより明らかである。そう考えた俺は反射的に右ひじを下げて敵の一撃を防いだ――いや、防いだつもりだったのだが。



「ぐぅ!?」



 バキリ、と右ひじの関節が音をたてて砕けたのがわかった。脳天をつらぬくような鋭い痛みに思わず苦悶の声がもれる。


 とっさに後方に飛んでドーガと距離をとった俺は、顔をしかめて自分の右腕を見た。


 けいで身体を強化している点では俺もドーガも違いはない。けいの扱いについて向こうが上なのは間違いないが、それでも勁量けいりょうではこちらが優る。膂力りょりょくの差を踏まえても攻撃を相殺そうさいできると判断していたし、実際に相殺そうさいできた感覚はあった。


 それなのにドーガの殴打はこちらの防御を突破してきたのである。いや、突破してきたというより、透過してきた、といった方が正確かもしれない。攻撃自体は止めたのに、その攻撃によって生じた衝撃波によって関節を砕かれた――そんな感じだった。


 だらんと垂れ下がる右腕。左手はいまだにソウルイーターの柄を握ったままだが、片腕ではドーガの猛攻に対処することは難しい。向こうもそう考えたのだろう、ここが先途せんどとばかりに距離をつめてこようとしている。


 その動きに気づいたのだろう、クライアがせっぱつまった様子で声を発した。



「ソラ殿!」



 声まで蒼白にして叫ぶクライアに対し、俺は「動くな!」と短く言葉を返す。それはもちろんクライアに向けたものだったが、無言で動く気配を示したウルスラへの呼びかけでもあった。


 そうしている間にもソウルイーターによる復元で砕かれた右ひじを治した俺は、具合を確かめるように一回、二回とひじを動かした。


 それを見た虎面の鬼人は、こちらへ躍りかかろうとしていた動きを急停止させる。確実に砕いたと思ったひじを、俺が苦もなく動かしたことに驚いたのだろう。


 ドーガは眉間に深いしわを寄せ、射るような視線で俺を見据えた。



「術の詠唱も神への祝詞のりともなしに、勁打けいだによって微塵みじんに砕いた骨を瞬きの間に癒すとはな。汝は本当に人間なのか?」


「その言葉、そっくりそのまま返す。なんだ、その勁打けいだというのは? けいの守りをすりぬけて身体に入りこんできたぞ、気色悪い」



 それは別に返答を期待しての問いではなかったが、ドーガは真顔で答えを返してきた。



勁打けいだ浸透しんとうけいとも呼ばれる格闘術である。けいをまとった拳を至近から打ちこむことで、防具越しに敵の肉体を破壊する技よ。打ちこまれたけいは無形のつちとなって敵の肉を裂き、骨を砕き、臓腑を潰す」


けいをまとった拳を、ね」



 ふん、と鼻で息をはきながら、脳裏で相手の言葉の意味を考える。


 拳にけいをまとわせるだけなら俺にもできるが、それでドーガを殴ったところで向こうの分厚いけいに阻まれておしまいであろう。


 ただけいをまとわせるだけでは意味がない。おそらくは殴打の瞬間に指向性を持たせたけいを放出するのではないか。


 これまでも幾度か述べてきたが、けいとは個人の魔力(オド)のことである。そこから推測するに、勁打けいだとは超至近距離から肉体を介して打ちこむ攻撃魔法なのだと思われる。


 これを実現させるにはよほどに巧くけいを操らなければならない。今の俺にはそんな細かく精密な制御は不可能だが、ドーガにはそれができるのだろう。初撃を防がれたときにも感じたが、けいを操るドーガの技術はおそろしく高い。


 状況を把握した俺は、思わず舌打ちをしていた。今の言葉を言い換えれば、俺がどれだけソウルイーターで斬りつけてもドーガの防御を破ることはできず、一方で、ドーガの攻撃は俺の防御を無視して身体に届く、ということである。


 むろん、ただ斬りつけるだけでなく、きちんと勁技けいぎを使えば相手の防御を破ることも可能だろうが、勁技けいぎを放つ隙を狙われるのは避けられない。


 傷はソウルイーターの力で治るにしても、負傷にともなう痛みがないわけではないのだ。攻撃を受けとめるたびに骨やら関節やらを砕かれていてはたまったものではなかった。


 それに、こちらの回復能力を知った以上、ドーガは回復しようのない部位を狙ってくるに違いない。胸や頭に一撃をもらって心臓や頭蓋を砕かれてしまえば、いかにソウルイーターといえども復元するのは不可能だろう。


 こういうときは向こうの拳を食らわないように距離を置いて戦うのが定石である。だが、眼前の鬼人はそんな逃げ腰の戦い方が通じる相手ではない。なによりも、俺はそんな戦いがしたくて強敵を求めたわけではない。


 ――となれば、俺が採れる選択肢はただひとつ。


 知らず、口の端が吊りあがる。


 勁打けいだを打たせないように逃げまわるのではない。むしろその逆、こちらから接近戦をしかけて好きなだけ打たせるのだ。勁打けいだが攻撃魔法の一種であると仮定すれば、魔力が尽きれば打てなくなる道理である。


 俺はとにかく致命傷だけは避け、他の傷は受ける端から治していく。むろん、隙があればこちらから勁技けいぎを叩きこむことも忘れない。そうしてドーガにけいの消耗を強いれば付けこむ隙も見いだせるだろう。


 いうなれば消耗戦だ。こちらの利点である勁量けいりょうを生かすにはこれが最善であろう。苦痛については気合を入れて耐えるべし。


 そんなことを考えながら、俺は足を前に踏み出す。


 それを見て、それまで俺の一挙手一投足に目を配っていた虎が、こちらの意図を察したようにニヤリと笑った気がした。




◆◆◆




 ――ほう、削り合いを選んだか。



 後ろに下がるのではなく前に出てきたそらを見て、ドーガは内心で、面白い、と笑う。


 それは決して嘲笑ではなかった。同胞たちに鬼人最強とうたわれているドーガであるが、本人はまだまだ自分の強さに満足していない。中山王家の次男はまだ二十代の半ばであり、老練はもちろん円熟を迎えるのも早すぎる。


 常に高みを目指しているドーガにとって、自分の技をまともに食らいながら、じることなく、退しりぞくことなく、真正面から挑みかかってくる相手というのはそれだけで貴重だった。


 それが自分と対等以上の強者つわものであれば、なおのことそうである。


 この時点で、空に対するドーガの好悪のはかりは一方に大きく傾いた。


 くわえて、出陣前の兄アズマの言葉がある。まだ見ぬそらに対し、アズマが期待を抱いていたことをドーガはもちろん忘れていない。


 ドーガ自身は人間に対して根強い不信感を抱えており、和を講ずる必要を認めていない。もう少し正確にいえば、仮に講和を結んだとしても、人間たちは自分たちに利があるとみればすぐに盟約を破ってくるに違いなく、労力をついやして講和を結ぶ意味がない、と思っている。


 ただ、そう思う一方で、先に西都でアズマが口にした言葉――やいばではなく言葉ことばで人間たちと向き合わねばならぬ、というあの言葉が胸に残っているのも事実だった。


 ――わしは迷っているのか。


 ドーガは自問する。


 アズマは空に期待しているとはいったが、戦う際には危険を冒して生け捕りにせよ、とは命じていない。ゆえに、ここで空を殺しても兄の命令に背くことにはならない。激しく反抗してきたので生かして捕らえることができなかった、と報告すれば、アズマは疑うことなくドーガを信じるだろう。


 そうするべきだ、と誰かが心にささやいてくる。その野太いささやきが、自分の声であることをドーガは自覚していた。


 眼前の人間と兄を会わせてしまえば、何か決定的なものが変わってしまうという予感がある。今ここで空を殺してしまえば、その予感は現実になることなくついえるであろう、という確信もある。


 そこまで考えたとき、ドーガは不意に己の中にある感情の正体に気づいた。目を見開いて、低い笑い声をもらす。



「くく……そうか、わしは迷っているのではない。恐れているのだな」



 空の力を恐れているのではない。恐れているのは空がもたらすであろう変化の方だ。


 空からは鬼人に対する蔑視が感じられない。腕輪を託した外の鬼人の存在が、門番たちとはまったく異なる価値観を植えつけたに違いない。


 そんな空に対し、アズマが好意を抱くことは火を見るより明らかである。おそらく、空との出会いはアズマの融和的な考えを今以上に助長するだろう。


 問題はそれによって生じる他の鬼人たちの反感である。今の時点で人間との融和を考えている鬼人など、それこそアズマひとりだけだ。ドーガ自身、アズマの言葉だからこそ耳をかたむけたが、実際にアズマが人間との融和に向けて動き出したとき、不満を抱かないとは言い切れない。


 常日頃アズマと接しているドーガでさえそうなのだから、それ以外の臣民たちの感情は推して知るべしであろう。


 それらの不満が行きつく先は王位の交代である。そして、アズマに不満を抱く者たちが担ぎ出すのはドーガをおいて他にない。


 空と兄を会わせることは、自分と兄の対立につながりかねない。その予感がドーガに恐れを抱かせているのである。


 自分を惑わせていた感情の正体に気づいたドーガであったが、面倒なことに「そんなことは起こりえぬ!」と断言することはできなかった。


 兄に逆らうつもりは微塵みじんもない。王位を欲したことなど一度もない。ただ、人間に礼をていする兄を見たくない、というのはぬぐうことのできないドーガの本心だった。


 人間たちが兄の前にひざまずく――そういう関係ならば共存も受け入れよう。だが、人間が兄と対等に接するのは我慢ならない。ましてや、人間たちが兄をひざまずかせることなどあってはならぬ。


 もし、兄が融和のためにそれらを受けいれようとしたならば、自分は兄をただすために立ち上がるかもしれない――そこまで考えたドーガは、錯雑さくざつとした己の思考をもてあましたように、鼻から大きく息を吐きだした。


 王のすぐ下の弟であり、王に優る勇名を持つ中山王家の次男の機微きびは、なかなか他者には理解しづらい。同じ弟である三男ハクロ末弟カガリでも、本当の意味でドーガの思いを理解することはできないだろう。


 こういったことを考えるのは今回がはじめてではない。少ないながらも、これまでも似たようなことはあった。そうしたとき、ドーガは精魂尽き果てるまで戦って戦って戦い抜き、心と身体を空っぽにすることにしている。そうすれば余計なことを考えずに済むからだ。


 相手はたいてい中山領内で暴れる魔物であったが、今回に関しては目の前に恰好の相手がいる。


 ドーガはあらためて眼前のそらを見やった。


 大きく口角を吊りあげた顔は荒々しい戦意に満ち、身の内より湧き出るけいは嵐のごとくたけり立っている。その姿は本気になったときのカガリを彷彿ほうふつとさせ、底知れぬ力の胎動たいどうを感じさせた。


 ドーガは空にならうようにニィと口角を吊りあげると、ドスン、と重々しく一歩を踏み出す。


 人間との関係、融和の是非、空を兄のもとに連れていくべきか否か。そういったことは今は脇に置いておこう。それらはこの戦いが終わったときにでも考えればよい。今はただ、眼前の相手に勝つことだけを考える。


 もしかしたら、この戦いの中で答えを見出すこともできるかもしれない――そんなことを考えながら、ドーガは空におどりかかる。


 それが三日三晩続くことになる激闘の始まりであった。



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