第八十四話 名を聞こう
空が心装を抜いた瞬間、ウルスラはすさまじい重圧にさらされた。
両肩に鉛を載せられた、などという表現では追いつかない。見えざる巨大な槌で全身を打ち砕かれたような衝撃だった。
頭がつぶれ、身体がひしゃげ、飛び散った己の血が防壁を赤く染める。そんな光景さえ幻視した。
「くぅ……!」
思わずうめき声がもれる。
空の近くに立っているだけで、猛火にあぶられているように肌がひりつき、心臓が早鐘を打つ。額からにじみ出た汗が、たちまち玉となって頬をすべり落ちていった。
己が気圧されているのがはっきりと自覚できる。
大気さえ音を立てて震えていた。遠雷の轟きにも似たその音は、あたかも鬼界そのものが空に怯えているかのようで、ウルスラは驚愕に打たれながら眼前の同期生を見やる。
――これほどまでとは。
御剣家を追放された空が、大きな力を得て戻ってきたことは理解しているつもりだった。他者から話を聞き、実際に言葉を交わして、こと戦闘に関しては五年前の空と別人である、と確信してもいた。
だが、己の理解も確信もひどく底の浅いものだったことを、ウルスラは否応なしに悟らされる。
視界に立っているのは本当にあの御剣空なのだろうか。もっといえば本当に人間なのだろうか。そんな疑問さえ脳裏をよぎる。
それほどに空の力は強大だった。いっそ異常といってもいいほどに。
ウルスラは第一旗の旗士として、旗将ディアルト・ベルヒや副将九門淑夜と幾度も戦場を共にしている。
ともに双璧とうたわれる御剣家の最高戦力だが、ウルスラはあの二人を前にしても、ここまで気圧されたことはなかった。
身体の芯から凍りつくような本能的な畏れ。天敵を前にした被食者のように、あるいは神を前にした信徒のように、身体が硬直して動かない。
気がつけば、眼前で空の姿が変化しようとしていた。黒衣をまとった人間から、黒鱗をまとった幻獣へと……
「ウルスラ!」
「わぁ!?」
不意に横合いから強い調子で名前を呼ばれ、ウルスラは我に返る。
慌てて声のした方を見れば、クライア・ベルヒが真剣な面持ちでウルスラを見つめていた。その顔が強張っているのは、ウルスラ同様、空の勁の圧力に耐えているからだろう。
ウルスラとの違いをあげるとすれば、クライアの表情には畏怖の影が見えないことだった。
「気をしっかりもってください。空殿の勁は重い。意識を飛ばされてしまいますよ」
「……ん、そうだね、ありがとう。正直、ちょっともっていかれそうだった」
クライアに返答してから、ウルスラはあらためて空を見やる。
当然というべきか、そこに立っていたのは人間の空だった。今しがた垣間見た異形の変化は、畏怖の感情が引き起こした幻覚だったのだろう。
そう思いつつ、ウルスラは声をひそめてクライアに問いかける。
「クライアはよく平気だったね?」
「平気というわけではないですよ。ただ、ウルスラよりは空殿の力に慣れていますから」
なにしろ命がけの斬り合いをした相手である。その後も半ば強制的に稽古に付き合わされたのだから、慣れたくなくとも慣れざるをえない。
ただ、今の空の力は以前にクライアが戦ったときより一回りも二回りも大きくなっているので、その意味では「慣れた」という言葉は少し語弊があるかもしれない。
クライアとてウルスラ同様に驚いてはいた。だが、ウルスラと異なり、以前の空を知っているクライアは、空の力がどれだけ大きくなろうとも、根っこの部分は変わっていないことを知っている。少なくとも、クライアはそう感じている。
だから、力の大きさに驚くことはあっても、畏れることはない。
何もかもを喰らう力をもって、敵であったクライアの絶望を喰ってくれた優しい竜に、どうして畏れを抱く必要があるだろう。
今、クライアが空に抱いている感情は感謝だけだった。
と、そうこうしているうちに彼方の敵陣で動きが見えた。鬼人たちも空の存在に気がついたに違いない。
つけくわえれば、御剣家の砦の内部でも騒ぎが起きていた。双璧をも凌駕する巨大な勁が至近に出現したのだ。手練そろいの一旗の旗士たちも泰然と構えてはいられないのだろう。
――本来、これから敵陣に討ち入ろうというのだから、御剣家には事情を説明しておくべきだった。空の攻撃を御剣家のそれと勘違いした鬼人たちが、一斉に砦に攻めかかってくる事態も考えられるからである。
だが、空はそれをしなかった。御剣家の言うがまま、ウルスラという同行者を受け入れたのだ。これ以上向こうに行動を掣肘される筋合いはない、と言って。
その言葉に嘘はないだろうが、空にこの判断をさせた理由のひとつは自分だとクライアは思っている。
ディアルトが柊都にいる今、砦の全権を握っているのは九門淑夜。九門家の当主は温厚篤実な人柄で知られており、空に対しても悪意や敵意を見せていないのだが――クライアは島抜けをする際、その淑夜と剣を交えてしまっている。
淑夜がクライアに、そしてクライアを連れてあらわれた空に好意的である理由はない。空はそう判断して、御剣家を出し抜く形で行動しようとしている。きっと、後々このことで自分が不利益をこうむる可能性を考慮した上でそうしている。
クライアにしてみれば、自分の行動がまたしても空に迷惑を強いたことになる。今すぐにでも詫びたいところなのだが、それをすればきっと空は鼻で笑って否定するだろう。弟を案じているクライアにこれ以上の負担をかけないために。
何を勘違いしているんだ、とうそぶく空の声、表情までがあざやかに想像できて、クライアは思わず口元をほころばせてしまう。
と、それを見たウルスラが驚いたような、戸惑ったような顔をしていることに気づき、クライアはあわてて表情を引き締める。
そのときだった。
「いくぞ」
短い一言を残して、空が敵陣へ向けて駆け出していった。高速歩法を用いた疾走は文字通り目にもとまらぬ速さで、瞬きひとつの間に大きく距離をあけられてしまう。
このままでは置いていかれる。そう思ったクライアは急いで己の同源存在に呼びかけた。
「出ませい、倶娑那伎!」
遅まきながら心装を出したクライアは、防壁上から宙に躍り出て、そのままかろやかに着地する。その後、鬼界の干からびた大地を蹴って先を行く空の背を追いかけた。
すぐ後ろにウルスラの気配を感じながら、クライアは空の意図に思いをおよばせる。
今の空であれば、このまま足を止めることなく敵陣に躍りこみ、心装を振り回して当たるを幸い敵の将兵をなぎ倒す、という戦い方をすることも可能であろう。
だが、鬼人の将をとらえて敵の王と交渉するのが眼目である、と空は言っていた。となれば、むやみに血を流すことは避けるのではないか。
最善は敵将との一騎打ちに持ちこむことである。
敵将がたった三人でやってきた空たちをくみしやすしと侮ってくれれば、十分に可能性はある。逆に、取るにたりぬと軽く見られて、配下の兵に鏖殺を命じられてしまうかもしれないが。
いずれにせよ、クライアがするべきことは、空の動きをよく見て、遅れずについていくことだ。そのことをあらためて胸に刻みこむ。
と、クライアの視界の中で空が足を止めた。
敵陣を指呼の間にのぞむ位置。やはり問答無用で敵に斬りこむ意思はなかったのだ。そう考えたクライアは己も足を止め、空と同じように敵陣を見る。
――その瞬間、全身が総毛立った。
視線の先にはひとりの鬼人が立っている。大きい。雲をつくような大男が、黒光りする東方製の鎧兜を身につけてこちらを見据えている。
クライアが知る中で最も大柄な人間はゴズ・シーマであるが、この鬼人はゴズよりもさらに大きいと思われた。
熊を思わせる大きく太い手足、巌のようにごつごつとした両肩、大樹の幹を思わせる太い首。筋骨隆々とした肉体は、着ている甲冑をはじき飛ばさんばかりに膨れあがり、見る者に強い威圧感を与える。
面頬――顔面や首を守る防具――をつけているため、容姿や表情はわからないが、その事実はこの鬼人の実力を見抜くのに何の障害にもなりはしない。
自分が恐るべき雄敵と対峙していることをクライアは悟った。
その雄敵がゆっくりと口をひらく。低く、重く、それでいて不思議とよくとおる声が、クライアの耳朶を震わせた。
「中山王アズマが弟ドーガである。名を聞こう、我らが同胞の腕輪をはめた人間よ」




