第八十三話 四ツ目の鬼人
中山軍は砦の東、小高い丘の上に布陣していた。
距離はかなり離れており、本格的な攻勢をしかけてきたというよりは、この砦の動きを監視している風である。
それでも鬼人たちの動きに惰気は感じられない。
林立する軍旗は将兵の士気の高さを示すように翩翻とひるがえり、防柵の内側で動きまわる兵士の動きはきびきびして無駄がなかった。
数は一千に届くか届かないかといったところで、軍の規模としては小さい方である。この程度の数なら、大国であるアドアステラ帝国はもちろんのこと、帝国よりずっと小さいカナリア王国でも簡単に動員することができる。もっといえば、イシュカ一都市で動員することも可能であろう。
この事実から鬼人の王国のおおよその国力を読み取ることができる。
もちろん、あの一千ほどの部隊が単なる先遣隊であり、後方には数十倍の規模の主力部隊が控えている可能性もある。ただ、荒れはてた鬼界の様子をみれば、この地における生活の苦しさは容易に推察することができる。鬼人の王国に何千、何万という大軍を編成する力があるとは考えにくい。
おそらく、丘上の部隊は鬼人の主力部隊であろう。当然、それを率いる将帥は鬼人族にとって重要人物であるはずだ。
砦の防壁上に立って鬼人たちの様子を観察していた俺は、ここまでは予想どおりだ、と内心でひそかにうなずいた。
そして、隣で同じように鬼人たちの様子を確認しているウルスラに目を向ける。
――鬼門に攻め寄せてきている鬼人の軍勢の指揮官を捕らえ、アズマという鬼人の王と交渉する。
その案をクライアとウルスラのふたりに明かしたとき、俺はクライアはともかくウルスラからは反対されると思っていた。
普通に考えれば、あまりにも敵の力を軽んじた案だからである。オウケンや鬼神を倒して調子に乗っている、と思われても仕方ない。
もちろん、俺は鬼人の力をあなどってはいない。たとえば、あのときに少しだけ言葉を交わしたカガリという少年。あの少年からはオウケンとはくらべものにならない力の拍動が感じられた。一度は倒した鬼神にしても、依代になる鬼人や周囲の環境でいくらでも力は増大するだろう。鬼人の力を軽んじることなどできるはずもない。
それでも俺があえて上記の案を採ったのは、ひとつにはベヒモスを喰ったことで以前より大きく力を増したからである。今ならば、カガリとやりあっても互角以上の戦いができるに違いない。
もうひとつの理由だが、これはクライアに関することだった。
クライアは俺の前では落ち着いた振る舞いを見せているが、裏では弟を案じて焦燥に身を焦がしていることは想像にかたくない。そんなクライアに恩を売るためには、できるかぎり早くクリムトを見つけ出さねばならない。仮に死という最悪の結果が待っていたとしても、俺がクリムトを見つけるために最大限の努力をしたのだ、と示しておくことには意味がある。
敵将を人質にとって王と交渉する、という少々あらっぽいやり方を選択したのはそのためだった。
ただ、そのあたりのことをウルスラに察しろ、というのは無理な話であろう。というか、察されても困る。
なので、ウルスラが反対してきたら、鬼界に跋扈しているという「幻想種に匹敵する魔物」を倒して、今の俺の力量を証明してみせようか、などと考えていた。これもこれで俺が鬼界にやってきた理由のひとつなので、別段寄り道をするわけではない。
ところが、俺の案を聞いたウルスラは、はじめこそ驚いたように目をみはったものの、その後は特に反対するでもなく、落ち着いた面持ちでこちらの案を了承した。俺が鬼人の軍勢に突っ込むとなったら、同行者であるウルスラも大なり小なり危険にさらされると思うのだが、そのことを気にする様子もない。
むしろ、どことなく俺の案に乗り気であるようにもみえた。いろいろと気になったので、直接たずねてみたところ、ウルスラは蜂蜜色の髪をかきあげながら次のように応じた。
「もちろん言いたいことがないわけじゃないよ。いくら空が強くなったといっても、もうちょっと慎重に行動した方がいいとは思ってる。けど、空が急いでいるのはクライアと、それにクリムトのためだってこともわかるから」
だから、僕がつべこべ言って無駄な時間をついやすべきじゃないって思っただけだよ。
ウルスラはそう言って微笑んだ。
その穏やかな笑みを見れば、眼前の同期生が俺の行動を過剰なくらい好意的にとらえているのは明白である。
相手の視線にむずがゆさをおぼえた俺は、ぽりぽりと頬をかくことで良心のうずきをごまかした。
ま、まあ俺がベルヒの姉弟を助けるために頑張っているのは事実なのだ。その根底に同源存在持ちの供給役を欲する気持ちがあるのはたしかだが、今の時点で罪悪感にさいなまれる必要はないだろう、うん。
そんな風に内心で言い訳していると、不意にウルスラの声が一段低くなる。
「それに、鬼人と戦うのは青林旗士として望むところだよ。僕個人としても鬼人は父の仇だ。その意味でも空を止める理由はない」
静かな、それでいて深い意志を感じさせる声が耳朶を揺らす。
かなたの鬼人たちを見据えるウルスラの視線は鋭くとがり、その顔には仄暗い陰影がたゆたっている。
そんなウルスラの声と表情が、俺の記憶の一部を刺激した。
今のウルスラの言葉を、俺は聞いたことがある。まだ島を追放される以前、共に稽古をしていたときにウルスラ本人の口から伝えられたのだ。たしか、あのときウルスラが口にしていたのは――
「四ツ目の鬼人、だったか。お父上の仇は」
それを聞いたウルスラはびっくりしたように俺を見る。パチパチと目を瞬かせる同期生の顔に、寸前まであった影は見当たらなかった。
「空、僕の話をおぼえててくれたんだ。あれから何年も経っているのに」
「いや、悪い。今の今まで忘れていた。ウルスラを見てたら、ふっと思い出したんだ」
「そっか。でも、思い出してくれたってことは、ちゃんと僕の話を聞いててくれたってことだよね。それだけでもありがたいかな。僕の話を聞いた人はたいてい与太話だと切って捨てて、とりあってくれないから。柊都に鬼人が出るはずはない、まして四ツ目の鬼人なんて聞いたこともないってね」
寂しげにかぶりを振る仕草は、見かけこそ大きく変化していたが、かつてのウルスラとまったく同じものだった。
――ウルスラの父である先代司寇は、十年以上前に柊都のウトガルザ邸で斬殺されている。
任務で血を流し過ぎるとして評判のよくなかった人物であるが、青林旗士としては名うての使い手だった。さもあろう、強くなければ青林旗士の犯罪を取り締まる司寇という役職が務まるはずもない。
その先代司寇が、ほとんど一方的に斬り立てられた状態で発見されたとき、御剣家ではかなり大きな騒ぎが起きた。
殺された場所は柊都の内部であり、殺された人物は多くの旗士に恨まれていた司寇。犯人は青林旗士に違いない、とは誰もが思うところであった。
結局犯人は見つからず、事件は未解決のまま終わるのだが、あのころ家中にただよっていた不穏な空気は子供心におぼえている。
俺が口にした「四ツ目の鬼人」というのは、父親が殺されたときにウルスラが目撃したという犯人の姿だった。
夜半、不審な物音で目を覚ましたウルスラはおそるおそる庭へと踏み出し、そこで血まみれになって倒れ伏す父親と、これも血まみれの剣を持って冷然とたたずむ犯人の姿をたしかに見たのだという。
だが、今しがたウルスラが口にしたように、この証言は大人たちに取り合ってもらえなかった。当時、鬼門の守りは破られておらず、外部から侵入者が入り込んだ形跡もなかった。また、ウルスラ以外に件の鬼人を見た者もあらわれない。父親の死体を目の当たりにした娘が、動転して幻を見たのだ、という結論が導き出されたのはやむをえないことだったろう。
だが、ウルスラは自らが見たものを疑わず、忘れなかった。いつか父の仇をとるために、と剣の道に邁進するかたわら、四ツ目の鬼人に対する情報を集め続けた。
先に述べたように、俺とウルスラは一時期稽古を共にしていた。実力のかけ離れた者同士の稽古は、俺はともかくウルスラにとっては利点が薄い。にもかかわらず、ウルスラが俺の求めに応じてくれたのは、父を殺した犯人の手がかりを得るためだった。
御剣家の嫡子である俺ならば、他の者たちが知らない情報を持っているのではないか、と期待したわけである。仮に俺が何も知らなかったとしても、今後当主の座につけば、一般の旗士には触れることのできない情報に触れることができるようになる。そのために今のうちに恩を売っておく、という思惑もあったと思われる。
まあ後者に関しては、当時からすでに俺の立場は危うかったので、ウルスラとしては駄目で元々くらいの気持ちだったのだろうけれど。
と、ここで不意にウルスラが語調を変え、何かを振り払うようにふるふるとかぶりを振った。
「とと、ごめんごめん。今は僕のことは関係ないよね。それでどうするの、空? すぐに鬼人たちに攻めかかるつもり?」
「ああ、時間をおく意味もないからな。クライアもかまわないな?」
それまで影のように黙って控えていたクライアに声をかけると、言うにや及ぶ、という感じで力強いうなずきが返ってきた。
それを見てウルスラが言葉を続ける。
「それなら今のうちに心装を抜いておこうかな。昔とほとんど変わっていないから、空には説明する必要はないと思うけど、敵陣で同士討ちなんてことになったら目もあてられないからね」
ウルスラはくすりと、いたずらっぽく微笑む。
そして笑いをおさめてから、静かに語りかけるように己の同源存在を顕現させた。
「――咲け、雷花」
言葉と同時にウルスラの勁が一気に膨れ上がり、彼女の手の中に一本の刀が現れる。
何の変哲もない造り。ただ、刀身だけが鮮やかに赤い。
ぞっとするほどの美しさ。
赤い刀といえばクリムトの心装 倶利伽羅が思い出されるが、ウルスラの心装に燃えさかる炎の激しさは感じられない。むしろその逆、冷たい静謐さが色濃くあらわれている。
それを血の色と評する者もいれば、秋の野山を染める紅葉にたとえる者もいるだろうが、いずれにせよ、ウルスラの心装には見る者の心を騒がせる美々しさがあった。
以前、ウルスラは自分の心装を指して、彼岸花の化身である、と言っていた。血にまみれたウトガルザの家を継ぐ自分にふさわしい同源存在である、とも。
彼岸花とは、その名のとおり彼岸の時期に咲く植物のことだ。放射状に広がる赤い花は艶やかで美しく、見る者に強い印象を与えるが、あまりに鮮やかな赤色は時に美しさより妖しさを際立たせる。死者の血を吸って咲く、などという俗説が存在するのはそのためだろう。
この花は墓地に群生していることが多く、このことも彼岸花に不吉な印象をあたえる一因となっているかもしれない。
ウトガルザの家は代々司寇として、多くの青林旗士の血を流してきた。殺されたウルスラの父も、任務を遂行する上で多くの死傷者を生み出して同輩たちに疎まれていた。その娘が会得した心装が、血と墓に関係が深い彼岸花だと知ったとき、周囲がどんな反応を示したかは想像にかたくない。
どこか自嘲するように彼岸花と己を重ねるウルスラに対し、俺はなんとこたえたのだったか。
記憶を探って当時のことを思い出していく。
彼岸花はその身に毒を含んでおり、これも不吉な花だと思われる理由のひとつなのだが、同時にこの毒はネズミやモグラを遠ざける効果も持っている。墓地で彼岸花を見かけることが多いのは、そういった生き物から土中の死者を守るため、人の手で植えられてきた歴史があるからだ。
俺はそのことを知っていた。教えてくれたのは母さんだったか、ゴズ、セシルの兄妹だったかはおぼえていない。もしかしたらアヤカだったかもしれない。
ともあれ、彼岸花には死者の安寧を守る墓守の役割もある。決して不吉なだけの花ではない――たしか俺はそんな言葉で、懸命にウルスラを励ましたのである。
今思えば、同源存在を墓守にたとえても何の励ましにもなっていないし、そもそもウルスラは俺の励ましなんて求めてはいなかっただろう。こちらの言葉にウルスラが何か返答をした記憶もない。
ただ、当時の俺はウルスラが気落ちしているように思えて、なんとか励まさねば、と思ったのである。その励ましにしても、口から出まかせを言ったわけではない。俺はウルスラの心装に対して、憧憬まじりの美しさを感じこそすれ、不吉な印象は抱かなかった。
そして、その印象は今なお変わっていない。
「あいかわらず綺麗な心装だな」
それは世辞のたぐいではなく、本心からの言葉だった。
これを受けてウルスラが微笑む。ここまでに見せてきた微笑とはどこか違う、ちょっとびっくりするくらい綺麗な笑みだった。
「ふふ、ありがと。さて、それじゃあ次は噂の鬼神殺しの心装を見せてもらおうかな。それとも、敵の陣を突くまでは伏せておく?」
「いや、ここで出しておくさ。ここで勁を高めておけば、敵を釣り出すこともできるかもしれない」
軽口を叩きつつ、右手を前に突き出す。
軽口とはいったが、実際、敵の指揮官がカガリなら喜び勇んで飛び出してくるだろう。以前に会ったとき、俺と戦いたいと何度も言っていたし。
そんなことを考えながら、俺は自らの心装を顕現させた。
――喰らい尽くせ、ソウルイーター。