第八十二話 鬼門の先で
鮮やかな朱色に塗装された巨大な鳥居。
それが三百年の間御剣家が守護してきた鬼門の外観だった。
鬼門が視界に入った瞬間、俺の心に感慨が湧かなかったといったら嘘になる。かつての俺は試しの儀を乗り越えて青林旗士になり、この門を守るために戦うことを念願としていた。それがまさか、こういう形で足を踏み入れることになろうとは。
だが、その感慨も鬼門に近づくにつれて淡雪のように溶けていった。怖気を震うような魔力が鬼門から湧き出ていたからである。
それは冷気のように俺の足元に這い寄り、じわじわと肌を伝って上へ上へと這いあがってきた。以前、この島で対峙した鬼神の魔力に似ているが、それだけではない。鬼神の魔力はたしかに強烈ではあったが、こんな得体のしれないおぞましさを感じたりはしなかった。
これはマナやオドといった既存のくくりにおさまらない原初の力だ。自分とはどうあっても相容れないものだと本能レベルで理解できる異質性。気がつけば全身の毛穴がひらき、ねばつく汗が噴き出していた。
俺はこれと同じものを、あるいはきわめて近しいものを知っている。脳裏に浮かぶのはティティスの最深部で見た底知れぬ大穴――龍穴だった。
なるほど、あのときクライアが鬼門の名前を口にしたのはこういうわけか、と内心で独りごちる。
はじめて龍穴を発見したとき、クライアは鬼門の名を出した後に意識を失った。きっと、クライアも今の俺と同じことを感じたのだろう。
鬼門と龍穴、このふたつは根底に共通する力を抱えている。同一と断言することはできないが、間違いなく同質の力である、と。
「……空殿、どうかなさいましたか?」
少し後ろを歩いていたクライアが控えめに問いかけてきた。もしかしたら、俺のわずかな動揺を感じ取ったのかもしれない。
その声でハッと我に返った俺は、つとめて平静な口調で応じた。
「なに、さすがは世界の災いを封じ込めている門だけあって薄気味悪いな、と思っただけだ――ウルスラ、このまま通ってしまってかまわないんだよな?」
「うん。旗将の許しは得ているから問題ないよ」
そのウルスラの言葉どおり、鬼門を守る一旗の旗士たちは俺たちを制止しなかった。ただ、そこかしこから鋭い視線を浴びせられたのは仕方ないことだろう。なにせ、島抜けという大罪を犯したクライアと、勘当されたかつての嫡子がそろって鬼門に入ろうとしているのだから。
少し意外だったのは、俺に向けられる視線に侮りや蔑みがあまり感じられなかったことである。まったくないわけではないが、それよりも興味や観察の視線の方がはるかに多い。
気のせいか、好意的なものもちらほらあったように思う。こっそりウルスラに聞いてみたところ、一旗は変わり者の旗士が多いが、実力者には素直に敬意を表するという。若いウルスラが多くの先達を尻目に十位に座っていることについても、実力相応だとして受けいれられているそうだ。
常日頃、この薄気味悪い魔力に耐えながら鬼門の内部で戦っているだけに、良い意味で実力主義が根付いているのかもしれない。
そんなことを考えながら、俺は鬼門に足を踏み入れた。
その途端、目まいにも似た強い衝撃に襲われて、思わず足を止める。
強いていうなら、それはクラウ・ソラスに乗って空へ急上昇するときの感覚に似ていた。同時に、高空でクラウ・ソラスの背から飛び降りて、地上へ落下するときの感覚にも似ていた。
矛盾した感覚がぴたりと重なって全身をわしづかみにする、表現しがたい違和感と不快感。そのあまりの気持ち悪さに視界が揺れ、膝をつきそうになる。
俺はぐっと奥歯を噛みしめて膝を折るのをこらえた。クライアとウルスラが見ている前で情けない姿を見せるわけにはいかない。ともすれば折れてしまいそうな両膝を叱咤しながら、俺はその場に立ち続けた。
その感覚が正確にどれだけ続いたのかはわからない。数秒だったような気もするし、もっと長く続いたような気もする。
気がついたとき、俺の眼前には鬼ヶ島とはまったく異なる光景が広がっていた。
真っ先に目に飛び込んできたのは赤錆色の空である。
後で知ったが、これは朝焼けなり夕焼けなり、時間によって移ろう空の変化ではなかった。この濁った赤色こそが鬼門の内側における「晴天」なのである。
太陽もあるにはあるが、陽炎のようにぼんやりとかすんでいるだけで、地上に陽射しを投げかけてくることはない。直視してもまったく目が痛まないあたり、太陽というより月のようである。
これではろくに服も乾かないだろうと思いながら、俺は視線を上空から地上へと移す。
鬼門を守るためにつくられた御剣家の砦は、柊都に比べればずっと小さく狭かった。この砦にいるのは青林旗士のみであり、住民がいないのだから当然といえば当然の話だったが、その分建造物は軍事に特化した物が多い。
心装で敵と戦う分には不要な設備であるように思うが、これはおそらく敵の術なり何なりで心装を使えない状況を想定しているのだろう。くわえて、もし心装使いが全員倒れてしまったときは、心装を使えない旗士たちも動員して鬼門を守らなければならない。そういった万一の事態を考えての防備だと思われた。
「ひとまず僕の部屋にいこうか。これからのことを相談しないとね」
そのウルスラの言葉に俺とクライアはそろってうなずく。
こうして俺は鬼門内部にはじめての一歩を記したのである。
◆◆
ウルスラは第一旗の十位ということで、兵舎の一画にけっこう大きな部屋を与えられていた。
その部屋に落ち着いた俺たちは今後の行動について意見を交わす。目的は消息不明になったクリムトの捜索。これは決まっているわけだから、残る問題は具体的な方策だった。
右も左もわからない鬼界――ウルスラたちは鬼門内部をこう呼びならわしているそうなので、俺もそれにならうことにした――でどうやったらクリムトを見つけ出すことができるのか。
もともと、鬼界は生身の人間が何の用意もなしに歩きまわれるような場所ではない。鬼門をくぐるときに感じた異様な魔力は、鬼界においてさらに濃くなっており、絶えず勁を高めて身体をまもっていなければならない。
これはクライアやウルスラ、さらに守備についている一旗の旗士たちも同様だった。
一旗の旗士が心装使いのみで構成されている理由のひとつはこれなのだろう。心装を会得するレベルの旗士でなければ、この地で戦うことはできないのだ。
くわえて、常に勁を高めていなければならないわけだから、鬼界にいる間は休息をとることもできない。一旗の旗士たちは定期的に柊都に戻って勁を回復させているとのことだった。
この枷があるために人間は鬼界に長居することができない。過去、御剣家が鬼界に逆侵攻しなかったのは――あるいは逆侵攻しても占領地を確保できなかったのはこのためであるという。
しかも、ウルスラによれば、しばらく前から鬼界各地で鬼神のものと思われる影響が強まっており、気候や土壌の汚染が進んでいるらしい。そんな状況であてもなくクリムトを捜しまわったところで、発見することはまず無理だろう。
ではどうするのか。
これについてはすでに俺に腹案があった。鬼界についてはあらかじめクライアから話を聞いていたので対策もとれたのである。
まず勁の回復についてだが、これは普通に回復薬使用で乗り切れる。これまでも幾度か述べたが、勁とは要するに個人の魔力のことであるから、魔力を回復すれば勁も回復するのだ。
ミロスラフが俺の血を用いてつくった『血煙の剣』特製の回復薬があれば、かなり長期にわたって鬼界で活動することができるだろう。そう考えて回復薬はそれなりの数を持ってきた。主な材料が俺の血なわけだから現地で作製することも難しくない。なんなら直接俺の血を飲むという方法だってある。
俺個人に関していえば、回復薬を飲む必要さえなかった。もともと俺の――というかソウルイーターの魔力は底なしであり、ヒュドラと三日三晩全力戦闘をおこなっても十分な余裕があった。あれからレベルも格段に上がっているし、そこらの魔物を斬って魂を喰えば勁の不足などいくらでもおぎなえる。
というわけで鬼界の行動限界についてはあまり考える必要はなかった。
次に肝心のクリムトを捜す方法だが、これについてもしっかり考えてある。
クライアの話によれば、クリムトは鬼人の王であるアズマを討つために鬼界に入ったという。であれば、アズマ本人に話を聞くのが一番てっとり早い。
クリムトはすでにアズマを襲撃したのか、していないのか。すでに襲撃したのだとしたら、その襲撃は成功したのか、失敗したのか。それらの事実が判明すれば、その後の消息もつかみやすいというものだ。
もちろん、人間が「すみませーん」と王宮の門戸を叩いたところで鬼人たちが応じてくれるはずはない。それ以前に、前述の行動限界のせいで鬼人の王がいる都市の場所さえ御剣家はつかんでいなかった。
王都の場所をさぐり、なおかつアズマに会って情報を聞くためには手づるが必要だった。
具体的にいえば、鬼人族の重要人物を捕虜にする。これはクリムトが鬼人たちに捕らわれていた場合、人質交換に利用するためでもある。
突飛な思いつきと思われそうだが、俺なりに熟慮してのことである。
先の鬼人族の襲撃は御剣家の戦力を把握するためのものだった。となれば、当然のように次に来るのは本格的な攻勢であろう。その軍を率いる指揮官を捕らえてしまえば、鬼人の王もこちらの話を聞かざるをえないはずだった……