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第七十七話 空とウルスラ


「――そう。僕の知らないところでそんなことがあったんだね」



 鬼門へ向かう道すがら、空とクライアの口から事の次第を聞いたウルスラは深々と息を吐いた。


 上官である淑夜しゅくややディアルトからある程度の話を聞いていたとはいえ、そのほとんどは推測か、もしくは事実の表面を撫でただけのもの。深いところは知りようがなかったし、島を出てからのクライアの行動に至ってはまったくわからなかった。


 アヤカをはじめとした同期生たちと話をしようにも、ウルスラには青林旗士としての務めがある。鬼人族が鬼門に対する攻勢を強めている昨今、鬼門を守る一旗の旗士が私的に使える時間は無いに等しい。友人の身を案じながらも身動きが取れない日々が続いていたのである。


 それだけに、クライアの無事な姿を見ることができた喜びは大きかった。


 ウルスラは心からの感謝を込めて、空に頭を下げる。



「空、なによりも先に君にお礼を。僕の友人を助けてくれてありがとう」


「どういたしまして――と言いたいところだが、俺は友情だの親切心だので行動したわけじゃない。きちんと対価はいただくから、礼を言う必要はないぞ」



 そう言うと、空はからからと軽薄そうに笑った。以前の空であれば、まずしなかった笑い方であり、まず浮かべなかった表情である。


 ウルスラは目を細めて空を見やった。


 別段、今の露悪的な態度を真に受けたわけではない。空の態度が照れ隠しのたぐいであることは察している。


 ただ、対価という言葉は気になった。


 今回、空はクライアの命を助けただけにとどまらず、鬼門の向こうに消えたクリムトを探しだすため、人脈を駆使して帝都におもむき、皇帝から認印指輪シグネットを賜ったという。


 ウルスラは島外の事情にうといが、それでも空の人脈や行動力が人並み外れたものであることは理解できる。


 それだけの尽力の対価として、空はクライアに何を求めたのか。それがあまりに過大なものであれば、ウルスラとしても黙っているわけにはいかない。


 むろん、クライアのために何もできなかったウルスラには、実際に行動した空を責める資格はない。ただ、クライアに課せられた対価を肩代わりすることはできると思うのだ。


 ウルスラがちらとクライアをうかがうと、その視線に気づいた白髪はくはつの友人は穏やかな微笑を返してきた。そして、小さくかぶりを振る。ウルスラの密かな危惧に気づき、心配は無用であると伝えているのだろう。


 それを見て、ウルスラは自分の心配が杞憂であることを悟った。空とクライアの間にどういうやりとりがあったにせよ、今のクライアの顔を見れば心配する必要はないと思える。


 ウルスラはほっと安堵の息を吐いたが、同時に、クライアの落ち着きぶりが少し気になった。


 ――こんなに穏やかなクライアを見るのは久しぶりだ。


 クリムトのこともある。もっと憔悴しょうすいしていても不思議はないのに、今のクライアからはどこか余裕のようなものが感じられる。


 先ほどディアルトと対峙していたときも、クライアは緊張感をおぼえながらも平常心を保っているように見えた。以前のクライアならば、畏敬する兄を前に、もっとおどおどした態度をとっていたに違いない。


 何かがクライアの心のやわらかい部分を守っている――そう考えたウルスラは、それまでとは違った目でクライアの様子を観察した。


 ウルスラの目にうつる空とクライアの距離はとても近い。別段、手をつないで歩いているわけではないが、つなごうと思えば簡単につなげる距離である。


 空の邪魔にならないよう控えめに、それでいて可能なかぎり空の近くを歩いているクライアを見れば、どちらがこの距離を望んでいるかは明白だ。


 そして、そこまでわかれば後は問うまでもない。クライアを支えているのは空への信頼、あるいは親愛であろう。

 

 ――助けられた感謝が高じて思慕につながった、ということなのかな? 


 ウルスラはおとがいに手をあてて考えこむ。


 普段であれば他人の恋路を詮索せんさくするような真似はしないし、そもそも関心を向けることもないのだが、クライア・ベルヒの友人として、そしてアヤカ・アズライトの友人として、眼前の光景に無関心ではいられない。


 視線は、自然に空へと向けられた。


 先刻せんこく口にした「あまりの変わりように驚いた」という言葉に嘘はない。今の空はごく自然に前を向き、胸を張り、しっかりと足を踏みしめて歩いている。強い自信に裏打ちされた堂々たる姿は、島を追放される以前の「御剣空」には決して見られなかったものだ。


 こうして近くを歩いているだけで、空の中に強大なけい充溢じゅういつしていることがうかがえる。その一事をとってみても、かつての同期生がいちじるしい成長を遂げたことは明らかだった。


 過日、アヤカから聞いた空の活躍――試しの儀で土蜘蛛を一蹴し、島に侵入した鬼人たちを叩き斬り、ついには現界した鬼神をも討ち滅ぼした功績は間違いなく本当のことなのだ。さらに言えば、その以前、鬼人の少女をかばってゴズとクリムト、クライアを退け、竜種をほふったという話も事実だったのだろう。


 父を鬼人に殺されたウルスラにとって、空の行動は諸手もろてをあげて称賛できるものではない。ただ、それでも、空が望んだ力を手に入れたことは嬉しく思った。


 ウルスラの視界の中で、前を歩く青年の背中と、五年前の少年の背中が重なっていく。


 五年前の空は弱く、未熟であり、青林旗士の棟梁とうりょうとして仰ぐに足りるか、と問われれば首を横に振るしかなかった。


 ただし、ウルスラはそのことで空を軽んじたことはない。誰よりも自分の弱さを自覚しているのが空であることを知っていたからである。


 弱い自分を変えるため、空が懸命に努力していたことも知っている。ウルスラ自身、頼まれて空の稽古に付き合ったこともある。


 結局、島にいる間に努力が実ることはなかったが、それでも真摯しんしに稽古に打ち込む御剣空のことが、ウルスラは決して嫌いではなかった……



「――空」



 知らず、ウルスラは空の名を口にしていた。


 怪訝そうに振り返った空が声をかけてくる。



「なんだ?」


「あ、いや、その……て、手合わせをしないか? もちろん、全部が終わってからって意味だけど」


「えらく唐突だな、おい」



 呆れたように言う空を見て、ウルスラはわずかに顔を赤くする。


 たしかに唐突だった、と思う。意識せずに相手の名前を呼んでしまった気恥ずかしさのせいで、我ながら妙なことを口走ってしまった。


 ウルスラはすぐに前言を取り消そうとしたが、空の応諾おうだくの返事はそれよりも少しだけ早かった。



「別にかまわないぞ」


「……え、いいの?」


「おぼえているかどうか知らないが、俺が島にいたころ、稽古に付き合ってもらったことがあっただろう? 今度はこっちが付き合う番だ」



 それを聞いて、ウルスラは目を瞬かせる。



「稽古のこと、空もおぼえていたんだね」


「ああ。何もできずに一方的に叩きのめされたこともしっかりおぼえてるぞ」



 わざとらしくジト目を向けてくる空に対し、ウルスラはこちらもわざとらしく肩をすくめてみせた。



「恨みがましい目で見ないでほしいな。手加減無用って言ったのは空じゃないか」


「たしかにそうだな。よし、じゃあ今回もそれでいこう。最近は心装ありの全力戦闘で戦える相手に飢えてるんだ。ついでに、負けた方は勝った方の言うことをなんでも一つ聞く、というのはどうだ?」


「なんでも、かい?」


「なんでも、だ」



 そう言うと、空は意味ありげにニヤリと笑った。



「そちらが勝ったら、クライアの対価をチャラにすることもできるぞ?」



 どうやらクライアだけでなく、空もまたウルスラの危惧を見抜いていたらしい。空の言葉からそのことを察したウルスラは苦笑をこぼす。



「それはぜひともお願いしたいな。ところで参考までに聞くけど、そちらが勝ったら何を要求するつもりなんだい? あまり破廉恥はれんちなことは勘弁してもらいたいのだけど」



 それはウルスラなりの冗談だった。


 自分の身体が異性の注目を集めるものであることは認識しているが――正確にはアヤカとクライアの二人に口をすっぱくして認識させられたが――空がそういう目で自分を見ることはない、とウルスラはごく自然に信じていた。


 ウルスラの知る空は、色恋に関しては真摯しんしだったからである。


 五年前は許嫁であるアヤカ以外の女性には目もくれなかった。追放にともなって空とアヤカの関係はいやおうなく変化し、空の心に今なおアヤカが住んでいるのかはわからない。だが、仮にアヤカ以外の女性が住んでいたとしても、空はその女性に誠意を尽くすだろう。賭けに乗じてウルスラに手を出すような真似はしないはずだ。


 そんなウルスラの信頼にこたえるように、空は動揺する素振りもなく口をひらいた。



「心配しないでも、賭けにかこつけて女性に手を出すような真似はしな――あ」



 堂々と「しない」と言いきろうとしていた空は、しかし、不意に何かに気づいたように口を閉ざした。そして、ばつが悪そうにつつっとウルスラから視線をそらす。


 ウルスラは思わず半眼になって空を見た。



「……空? そこは気持ちよく『しない』と断言してほしいところなんだけど?」


「う、うむ、もちろんしないとも。するわけないじゃないかっ」



 ハハッ、とわざとらしい笑い声をあげる空を見て、ウルスラはこめかみに手をあててため息を吐く。


 少しだけ、空に対する認識を下方修正する必要があるかもしれない。そんなことを考えたとき、ウルスラは自分を見ているクライアの視線に気がついた。


 紅い双眸を大きく見開き、驚きをあらわにしているクライアを見て、ウルスラは怪訝そうに問いかける。



「クライア、どうかした?」


「えっと、どうかしたわけではないんだけど……その、ウルスラとそら殿は親しかったのですか? すごく自然に会話をしているように見えるのですが……」



 どこかおずおずとした様子でたずねてくるクライアに対し、ウルスラは首をかしげた。別段、親しげに振る舞っていたつもりはなかったのだ。


 ただ、確かに言われてみれば、五年ぶりに再会した相手に対して口数が多かったような気もする。


 日頃、他人と言葉を交わすことが少ない自分にしては、口がなめらかに動いていたことも確かだった。



 ――ウトガルザの家名を気にする必要がない相手、という点が大きいのかな?



 ウルスラは空に対する話しやすさをそのように解釈した。


 ウトガルザ家は古くから御剣家に仕えてきた歴史を持っている。初代から続くスカイシープ家や九門家には及ばないものの、たとえば今代で急速になりあがったベルヒ家などよりはずっと古参の家柄だった。


 付けくわえれば、四卿よんけいのひとつである司寇しこうの役職を、何代にもわたって独占してきた家でもある。


 だが、御剣家において名家、名門の名が挙げられるとき、そこにウトガルザの名が出されることは決してない。それどころか、ウトガルザの名を耳にした者の多くは、疎ましげに顔をしかめるのが常だった。


 これには司寇しこうの役職が深く関わっている。


 司寇しこうの役割は鬼ヶ島および御剣家の秩序を維持すること。その主な任務は犯罪者の取り締まりである。


 といっても、相手にするのは一般の犯罪者ではない。司寇しこうが取り締まるのは青林八旗に関わる犯罪であり、つまりは罪を犯した青林旗士こそが司寇しこうの取り締まる相手だった。


 軍隊内部の犯罪を取り締まる憲兵、と言えばわかりやすいだろうか。


 味方を疑い、味方を探り、味方を犯罪者として捕縛する権限を持つ青林旗士。一口に捕縛するといっても、追う者も追われる者も青林旗士なのだから、無傷で取り押さえることはなかなか難しい。司寇しこうが動いたとき、死人が出るのはめずらしいことではなかった。


 ことにウルスラの父である先代の司寇しこうは、有能ではあったが強引な手段をとることも多く、その過程でしばしば死傷者を出した。他者の恨みを買うことも多く、死神という陰口が半ば公然と語られていたほどである。


 父親が死んだとき、ウルスラはまだ小さかったが 数えるほどしか弔問者のいない寂しい葬儀だったことをおぼえている。


 そして、その数少ない弔問者の中に、アヤカ・アズライトと御剣空の姿があったことも、ウルスラははっきりおぼえていた……



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