第七十四話 野心
ギルモア・ベルヒは苛立っていた。
原因は今しがた届けられた報告にある。その内容は、皇帝から認印指輪を授けられた御剣空が、クライア・ベルヒをともなって対岸の港街に姿を見せた、というものだった。
空がクライアと共にやってくること自体はギルモアの予測の内にあった。だが、認印指輪に関しては予測どころか想像すらしておらず、ギルモアは唸るように息を吐き出す。
今の空は皇帝の勅使に等しく、御剣家は相応の礼節をもって出迎えなければならない。
クライアの免罪を条件に空を従わせるつもりだったギルモアにしてみれば、計算違いもはなはだしかった。
「小僧め。一体いかなる手品を使いおったのか」
クライアが島抜けをしたのはつい先日のことである。二人が鬼ヶ島に来るまで時間的余裕はほとんどなかったはずなのに、どうやって皇帝との謁見にこぎつけたのか。
ギルモアでさえ、この短期間で皇帝と謁見することは難しい。御剣家の重臣といえども皇帝から見れば陪臣――臣下の臣下にすぎない。謁見する相手が皇太子なら何とかなるだろうが、それも今日まで皇太子のために働いてきた実績があればこそである。
帝国内では無位無官、実績皆無の空が、短時日のうちに皇帝と謁見し、あまつさえ信任の証である認印指輪を授けられるとはとうてい信じがたい。
偽物ではないか、という疑いが生じるのは必然だった。しかし、皇家の認印指輪は最高級の金剛石をけずってつくられる。その上、魔法付与によって魔法的に真贋を判別できるようになっており、贋作をつくるのは不可能といってよい。
「つまりは本物ということであるな」
再び唸るように息を吐き出したギルモアは、渋面になって腕を組んだ。
認印指輪が本物であるならば、次に考えるべきは空の目的である。
空に関する報告は、一足先に海を渡ってきた港の役人からもたらされたのだが、その中で空が何のために鬼ヶ島にやってきたのかは触れられていなかった。
目的も確認せずに島への乗船券を発行するなど、本来あってはならないことである。だが、なにしろ向こうは皇帝の認印指輪を持っている。役人たちは言われるがままに動くしかなかったのだろう。
空の目的で真っ先に考えつくのは、皇帝を動かしてクライアを無罪にしたというものだが――これはまずありえない。
基本的に領地を持つ貴族は、自領における司法権、立法権を皇帝から認められている。領内を治める法をつくり、法に背いた者を処罰する権利を持っているのだ。皇帝が貴族の頭ごしにこれをいじることは、その貴族の体面、権利を踏みにじることと同義であり、君臣の信頼関係を根こそぎ打ち壊す悪手といえた。それこそ帝国への反乱、他国への寝返りにつながってもおかしくない。
凡百の中小貴族が相手なら、アドアステラ皇帝としての威権で反抗を押さえ込むこともできようが、御剣家相手にそれをするほど皇帝は愚かではないだろう。クライアが無罪になることはありえない、とギルモアが判断したのはそういう理由があってのことだった。
ただ、懸念もある。
ギルモアは司徒として御剣家で権勢を振るっており、その役割の中には対外的な折衝も含まれる。その中でギルモアはリシャール皇太子に接近していた。
これは次代の帝国において自身と御剣家をより高みに導くための布石なのだが、皇帝から見れば、御剣家が老いた己をないがしろにして若い皇太子に取り入っている、と映るだろう。
空がそのあたりを突いて皇帝を説いたのだとしたら――皇帝がクライアを無罪にするために動いた可能性も否定できない。
ギルモアが空の立場であれば、皇太子におもねるベルヒ家の排除を皇帝に進言するだろう。そして、御剣家を皇太子支持から皇帝支持に引き戻すことを約束して皇帝の後ろ盾を得るのだ。
そこまで考えたギルモアは音高く舌打ちした。
「小僧が考えつくことではない。誰ぞ知恵をつけた者がおるな。ゴズ・シーマか、あるいはモーガン・スカイシープか」
真剣な顔でギルモアはひとりごちる。自身、多くの政敵を陰謀で蹴落としてきたベルヒの当主は、己を陥れようとする陰謀に対して常に強い警戒心を抱いている。そして、その警戒心は時にありもしない幻をつくりだすことがあった。
「疑心、暗鬼を生ず」の言葉どおり、今ギルモアは「ベルヒ家に敵意を持つ家中の何者かが、御剣空と通じて自分を追い落とそうとしている」という陰謀を幻視している。
過剰な疑いは、焦りの裏返しであった。陰謀を逆手にとられた敗北感もある。早急に手を打たなければ、今日まで苦心して築きあげてきた権勢が一朝にして潰え去ってしまうかもしれない。それはギルモアにとって絶対に容認できない未来だった。
――ギルモアには野心がある。御剣家において並ぶ者なき権勢を手に入れ、それを存分に振るいたい、という野心が。
権勢を振るう舞台は大きければ大きいほどよい。はじめは鬼ヶ島で。やがてはアドアステラ帝国で。ついには大陸全土で己の才腕を振るえたならば、それこそが男児の本懐というもの。ギルモア・ベルヒがこの世に生を受けた意義を天下万民に知らしめることができる。
ただし、ギルモアは御剣式部をおしのけて御剣家を支配する意思はない。下級旗士だった己を見出し、引き立ててくれた式部に対する忠誠は本物だった。ギルモアが望むのは、政治権力に関心を持たない式部の代理人として、御剣家の権勢を大陸にあまねく拡げることである。
皇太子に接近したのも、この野心の一環だった。皇太子や、皇太子の与党から戦力提供の要請があれば、最優先で四旗の旗士を派遣して彼らの歓心を買ってきた。
カナリア王国に慈仁坊を差し向けた件もこれに含まれる。
あれは「侵さず侵させず」の掟に抵触しかねない綱渡りであったが、ギルモアは頓着しなかった。
ギルモアにしてみれば、あの掟は己の野心を縛る鎖でしかなく、破ったところで何ら痛痒を感じない。むしろ、あのような古い掟は早々に捨て去るべきだと考えているし、時が来れば破却のために動くつもりだった。
御剣家の武力を外に用いることができるようになれば、あらゆる戦場を青林旗士が席捲することになる。三名門を退けて帝国の貴族諸侯を牛耳ることはたやすい。いや、三名門どころか、皇家になりかわってアドアステラ帝国を支配することも夢ではない。
ギルモアが忠誠を誓っているのは御剣式部であって、アマデウス二世ではない。むろん、リシャール皇太子でもない。機会さえあれば、そして式部の許しさえあれば、アドアステラ皇家を放逐して式部を帝の座に押し上げることをためらうつもりはない。
そうして式部を帝国に君臨させ、ギルモアはその下で万機を掌握するのである。
式部から御剣家を継ぐのは、ベルヒ家と昵懇の間柄であるラグナであり、剣聖の地位を継ぐのは我が子のディアルト。ベルヒ家の権勢は途切れることなく次代に受け継がれ、家祖であるギルモアの名は黄金の文字をもって歴史書に明記されることになるであろう。
――今はまだ、これらの計画は野心の域を出ない。実現するためには、なお多くの時間を必要とする。
だが、決して夢想や妄想の産物ではない。そう断言できるだけの権勢を、ギルモアは手に入れた。長い年月をかけて、手中に収めてきたのである。
ここからなのだ、すべては。
今になってしゃしゃり出てきた小僧に邪魔などさせぬ。
もともと、ギルモアは空とゴズ・シーマの結びつきを危険視しており、野心の障害となる前に早々に排除するつもりだった。
だが、先の鬼神との一戦後、式部が空に対して浅からぬ興味を抱いていることを知って、排除ではなく利用にきりかえようと考えた。
今回、嫡子であるディアルトの献策を用いたのも、その考えがあってのことである。
ディアルトの策の内容は、クリムトに姉の解放を示唆して鬼門に送りこみ、それをクライアに伝えることで島抜けに追い込んで、空のもとへ向かわせるというものだった。ベルヒ家の嫡子であり、第一旗の旗将でもあるディアルトは、この策にともなうすべての細工をほどこせる立場にいる。姉弟を使嗾することも、鬼門の守備を都合の良いように変更することもたやすい。
ただ、それも島の中にかぎってのこと。空がクライアを助けることについてギルモアは懐疑的だったが、これに対してディアルトは言った。ゴズやクリムトを痛めつけた空が、人質にしたクライアに対しては危害らしい危害を加えずに解放した。この一事を見ても、御剣空がクライア・ベルヒに情を抱いているのは間違いない、と。
ギルモアは熟考の末、この献策を採用する。
空がクライアを見捨てても、それはそれで恩知らずの養女と、反抗の気振りを見せる養子をまとめて始末する良い機会だ。
空がクライアを助けて鬼ヶ島にやってきたのなら、クライアの島抜けの罪を許すことを条件として、空を御剣家の麾下にくわえる。
むろん、許すといっても無罪放免にするわけではない。島抜けは大罪だ。死罪を免れても、死ぬまで牢に叩き込んでおく理由にはなる。こうしておけば、空は今後も御剣家から離れられない。
あるいは、まったく逆の手もある。クライアを嫁として空にくれてやるのだ。
ギルモアは御剣空に良い印象を抱いていないが、鬼神を討ち倒す力にはやはり魅力を感じる。空がクライアに情を抱いているのなら、そのクライアをくれてやることでベルヒ家に取り込むこともできるだろう。
こうしておけば、仮に式部が空を嫡子の座に戻してもベルヒ家の権勢は揺るがない。
ギルモアにしてみれば、必ずしも次期当主がラグナである必要はない。空がギルモアの意に沿って動くのなら、空を当主として擁しても一向にかまわないのである。これまでラグナに費やしてきた財と労力が無駄になるのは惜しいが、かわりに鬼神殺しの力を得られると思えば悪くない。そんな風に考えていた。
――だが、空はこちらの策略を見抜き、皇帝を引っ張り出してまでギルモアの思惑に従うことを拒否した。であれば、こちらも利用や取り込みなど考えず、当初の考えどおりに空と空に通じている者たちを始末してやればよい。
「誰ぞある。ディアルトをこれへ」
室外に控えていた家臣に嫡子を連れてくるよう命じたギルモアは、ゆっくりと唇の端を吊り上げた。