第七十三話 鬼ヶ島へ
皇帝アマデウス二世から鬼門をくぐる許しを得た俺は、皇帝と紫苑皇子に別れを告げると、皇子の傅役であるジード男爵と共に皇宮を出た。
皇帝との話が長引いたこともあり、日はとうの昔に沈んでいる。
男爵邸で待機していたクライアに事の次第を説明し、いよいよ鬼ヶ島へ、という流れになったわけだが――俺たちが帝都に着いたのは今日のことだ。さすがにこれからすぐ帝都を離れ、夜を徹して鬼ヶ島へ向かうのは厳しい。俺はともかくクライアは病み上がりだし、クラウ・ソラスにも休息は必要だ。
鬼門をくぐるのはあくまで通過点。本番はその先にある鬼門内部の探索であり、ここでの無理は後々祟る。何事も急がばまわれである。
ジード男爵の好意で男爵邸で一泊した俺たちは、翌日、日の出と共に帝都を発った。
向かう先は鬼ヶ島への船便が出る港街である。
先に帰郷した際にも述べたが、鬼ヶ島に渡るための船便は一日二便しか出ておらず、その乗船券も御剣家の審査を経なければ手に入れることができない。
そのあたりをまるっと無視して、クラウ・ソラスで直接鬼ヶ島に入ることもできるが、せっかく皇帝から鬼門に入る許しを得たのだ。横紙破りな振る舞いをして、いらぬ揉め事を起こす必要もないだろう。何事も以下同文である。
問題は俺たちが御剣家の審査をくぐりぬけることができるのか、という点であるが、これに関しては何も心配していない。
視線を自分の指に移すと、そこには帝都に着くまではなかった物がはめられていた。
公的な身分を示す指輪――認印指輪である。
王や貴族が使者を派遣する際、使者の身分証がわりに持たせるものだが、アドアステラ皇帝じきじきに授かった認印指輪の効力は、そんじょそこらの認印指輪の比ではない。
実際、港町に着いて役人に認印指輪を見せるや、地面に平伏せんばかりの勢いで乗船券の手配をしてくれた。
「いやあ、皇帝陛下の認印指輪は実に霊験あらたかだな」
手にした二枚の乗船券を見ながら人の悪い笑みを浮かべる。
と、かたわらにいたクライアが緊張した面持ちで口をひらいた。
「あの、空殿。本当にこのまま島に向かってもよろしいのですか?」
その言葉を聞いた俺は、目をすがめて白髪の旗士の顔を見やる。
鬼ヶ島を目前にして、いよいよ弟を助けに行くことができる、と奮い立っているものとばかり思っていたが、どうもそういう雰囲気ではない。
今さら島抜けの事実に腰が引けたわけでもないだろうに、と思いつつ相手の顔をうかがうと、こちらの訝しげな眼差しに気づいたクライアが慌てたように声を高めた。
「あ、このまま、というのは顔を隠すなり、髪を染めるなりしないでも大丈夫なのですか、という意味です!」
「ああ、そのことか」
クライアの不安を察した俺は軽くうなずいた。
御剣家にとって島抜けは重罪だ。いかに皇帝の認印指輪が霊験あらたかとはいえ、島抜けの罪をなかったことにはできない。
クライアとしては白髪紅眼という特徴的な容姿を隠し、別人に扮して鬼門をくぐるつもりだったのだろう。仮に正体を悟られたとしても、皇帝の威光を盾にして追及をかわすことができる――そう考えていたところ、あにはからんや、俺は何の手立ても打とうとしない。それで確認をとってきたものと思われる。
これに対し、俺はあっさりと応じた。
「気にするな。お前はそのままで大丈夫だ」
「そ、そうなのですか……?」
「そうなのですよ。だから、もっと胸を張って堂々としていろ」
それを聞いたクライアは、わけがわからずに目を白黒させている。
そんなクライアを見ながら、俺は今回のことを振り返った。
以前にも考えたことだが、クライアが一度も追手に襲われずにイシュカまでたどりつけた時点で、今回の一件を額面どおりに受け取ることはできない。おそらく、御剣家はクライアの島抜けを故意に見逃した。現に、御剣家の庭先ともいうべきこの港でも、追手の姿は影さえ見えぬ。
御剣家が俺を呼びつけるためにクライアを利用したのは間違いないだろう。前回は「母の命日」を理由に俺を呼び寄せた。今回はそれが「クライアの島抜け」になったわけだ。
この策を考えたのが誰かは知らないが、おおかた鬼神を討った俺の力を利用しようという魂胆ではないか。クリムトは姉を助ける条件として「鬼人の王アズマを討て」と命令されたそうだから、俺にも似たようなことを言ってくるものと思われる。
もちろん、ただ命令しただけで俺がうなずくわけはないので、交換条件としてクライアの無罪を持ち出してくることも確定的。
御剣家にとって、今のクライアは俺の首にはめた鎖のようなものだ。俺が追手を警戒しない理由はここにあった。
「ともかく、こちらには何の落ち度もないと思っておけ。顔を隠したり、髪を染めたりすれば、求めて弱みを見せているようなものだからな」
「かしこまりました。空殿のお指図に従います」
まだ顔に困惑の色を残しながらも、クライアは素直にこちらの言葉にうなずく。
この態度からもわかると思うが、俺は自分の推測をクライアに語っていない。すべて自分の胸中にとどめている。
ここまで語ったことは、すべて状況から組み立てた想像だ。俺の推測が外れていた場合、話を聞いたクライアが油断したところを追手が襲撃する、なんて最悪な事態も起こりえる。俺はそれを避けたのである。
それに、今回の一件では本当にクライアが死んでもおかしくない局面がいくつもあった。成功すればそれでよし。失敗してクライアを失うことになっても、それはそれでかまわないという発案者の意図が透けて見える。
これはクリムトについても同様で、端的に言えばベルヒの姉弟は捨て駒にされたのである。
俺が自分の推測を語れば、クライアはいやおうなしにそのことを悟るだろう。いくら俺でも、ただの当て推量で「お前と弟は捨て駒にされたのだ」などと口にするのはためらわれるのである。
――しかし、発案者は誰なのかね。
これまでにも何度か考えてはみたものの、いまだに結論は出ていない。
弟を想う姉の気持ちを利用するなど、全体的に感じられる底意地の悪さから、真っ先に名前が出てくるのはギルモア・ベルヒである。
ただ、今回の策は俺がクライアを見捨てればそこで終わりであり、言わば情に訴えるタイプの策だ。この点がギルモアらしくない。
次に浮かんだのアヤカの名前である。先の帰郷で、アヤカは古い暗号まで用いて俺にクライアの苦境を伝えてきた。深読みすれば、あれは俺とクライアのつながりを試すためだったと考えることもできる。
アヤカから話を聞いたラグナあたりが、俺を死地に送り込むために策動したという可能性もあるだろう。
ただ、アヤカにせよ、ラグナにせよ、俺を陥れることはためらわずとも、そのために同期生であるクライアやクリムトを捨て駒にしようとは考えないのではないか、という気がする。少なくとも、俺の知っている五年前の二人ならば、今回のような策は考えない。
最後に名前が思い浮かんだのは父だった。
しかし、この考えにも疑問符がつきまとう。あの父が俺を呼び寄せるためにこんな小細工をした、というのはどうにもしっくりこないのだ。
前回、母の命日を利用したやり方も小細工と言えば小細工なのだが、あのとき、父がしたことと言えば書状を一枚出したことだけ。労力的に見れば、片手間ですむ程度のことだった。
対して、今回、御剣家が策に費やした労力は膨大である。この点がいかにも父のやり方にそぐわない。
クリムトの一件を聞くかぎり、父が今回の策に関わっていることは間違いないが、では策の発案者なのかと問われれば答えは否定にかたむく。
「――まあ、発案者が誰であれ、俺が皇帝を巻き込むことは予測していなかったはずだ。どういう手を打ってくるか、お手並み拝見といこう」
事を御剣家の内部にとどめるつもりだった発案者の思惑に反し、俺は皇帝という外的要因を持ち込むことで状況に変化を強いた。
具体的に述べれば、過去、誰一人として成功したことのなかった島抜けを、二十歳にも満たない小娘が成功させてしまい、なおかつそれが帝の知るところとなったのだ。
鬼人族によって鬼門の守りを破られ、柊都の城壁が壊されたのはつい先日のこと。その上で島抜けの事実が発覚した意味は重い。
――御剣家は外の敵を押さえることもできなければ、内の味方を治めることもできない無能の家に堕ちたのだ。
「面目丸つぶれどころの話じゃないよな」
くく、と喉を震わせる。
一度皇帝の耳に達してしまった以上、後になって「あれはわざと見逃してやったのです」などと弁明しても、失態を糊塗する詭弁としか受け取られないだろう。
これを知った発案者はさぞ青ざめるに違いない。あるいは真っ赤になるだろうか。いずれにしても良い気味だ。御剣家ともども、俺にくだらない策をしかけてきた報いを受けるがよい。
にやにやと人の悪い笑みを浮かべる俺を見て、クライアが不思議そうに首をかしげていた。
読者の皆様、あけましておめでとうございます。
今年もよろしくお願いいたします。
師走はばたばたとしていて更新が滞ってしまい、申し訳ありませんでした。
ようやっと諸々が落ち着いてきたので、また更新をがんばろうと思います。
追記
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