第七十話 皇子との対面
紫苑皇子の傅役であるジード男爵は、いかにも忠臣といった風貌の人物だった。
年の頃は三十代後半くらいだろう。屈強な体格に謹厳な顔立ち、そして重厚な話しぶりから物堅い性格が見てとれる。率直に言って才気走ったところは感じられないが、言動の端々から安定した精神と皇家への忠誠心がうかがえた。
この男爵であるが、戦で右腕を失っており、今は隻腕だった。咲耶皇女に聞いた話によると、ジード男爵が近衛騎士だった時、戦場で我が身を呈して皇帝の命を救った結果なのだという。
命を救われた皇帝はおおいに感謝し、片腕を失って戦えなくなった騎士に対し、家名が断絶していた男爵家を継ぐよう命じた。今後は騎士ではなく貴族として仕えよ、というわけだ。
貴族となった後もジード男爵の篤実な働きぶりはかわらず、皇帝はそのあたりを評価して、可愛い末っ子の傅役に任じたようである。
へたに伯爵だの侯爵だのを傅役に任じてしまうと、野心に駆られた傅役が紫苑皇子を擁して帝位を狙いかねない。その点、領地もない男爵なら野心を育みようがない。ジード男爵が傅役に任じられた経緯には、そのあたりも加味されていると思われる。
――その男爵が今も傅役を務めているということは、皇帝は帝位継承順位をいじるつもりがないのかな。
俺はそう思って首をかしげた。イシュカでミロスラフから聞いた情報によれば、アドアステラ帝国では次期帝位をめぐって皇族の間で軋轢が生じている、とのことだった。
もし皇帝が現在の皇太子であるリシャールを廃嫡し、紫苑皇子を帝位につけようとしているのなら、紫苑皇子の周囲にもっと人材を配するはずだ。
なにしろリシャール皇太子は、成人してから二十年以上にわたって父帝を補佐し、政戦両面で功績を積み重ねてきた人物である。十歳になるやならずの末の皇子と比べたとき、どちらが帝位にふさわしいかは誰の目にも明らかといってよい。
もし皇帝がその差をひっくり返そうと思えば、紫苑皇子を補佐する家臣団を厚くするほかない。
だというのに、皇子の最も恃みとするべき傅役は今も男爵のまま。そこから考えられるのは、皇帝には紫苑皇子を皇太子に立てる意思がない、という事実である。
噂で語られている皇族間の軋轢は真っ赤な嘘――は言い過ぎにしても、些細な不和が針小棒大に語られているだけ、ということは十分に考えられる。
そんな想像が脳裏をよぎったが、俺はその点をジード男爵に確認しようとはしなかった。へたなことを口にすれば、カナリア王国の密偵だ、などと疑われかねない。なにより、俺はアドアステラの帝位争いに興味も関心もなかったので、わざわざ確かめる必要を認めなかったのである。
俺が持参した咲耶皇女の紹介状が本物であることを確認したジード男爵は、皇女から皇帝にあてた親書――厳重に筒に入っている方――をたしかに皇帝に渡す、と約束してくれた。
幸いなことに、皇帝は三日にあげず紫苑皇子に会いに来るという話だし、親書を渡す分には問題ないだろう。その後、皇帝が俺に会うと言い出すかどうかは神のみぞ知る、というところである。
ちなみに、ジード男爵が皇宮に参内し、皇帝と謁見して親書を渡すという正攻法は、咲耶皇女によって否定されていた。他国に嫁いだばかりの皇女が、竜殺しに便宜をはかって皇帝と対面させようとしている、しかもその竜殺しは廃嫡された御剣家の人間である――このことが他の廷臣に知られたら確実に厄介なことになる。それが皇女の弁であった。
実にまったくそのとおりで、反論の余地もない。そういうわけで、多少迂遠ではあるが、皇帝が皇子に会いに来た機をとらえて親書を渡す、という手順になったのである。
さて、こうなると何日か帝都にとどまる必要が出てくる。宿に関してはジード男爵が、ぜひ我が家に、と申し出てくれたのでお言葉に甘えるとして、暇な時間はどうしようか。
帝都見物にでも行きたいところだが、クライアの心情を考えるとのんびり観光を楽しむわけにもいかない。まあ、そのあたりはおいおい考えていこう――などと考えていたら、あにはからんや、その日のうちに皇宮に足を踏み入れることになった。
といっても、皇帝が会おうと言ったわけではない。俺と会うことを望んだのは紫苑皇子だった。なんでも、他国に嫁いでいった姉の使者が来ていることを知って「カナリア王国での姉様の様子を聞かせてほしい!」と熱心に望んだのだそうな。
はじめ、ジード男爵は帝都に到着したばかりの俺たちの疲労を考えて首を横に振ったそうだが、普段は聞き分けの良い皇子がめずらしくごねた。姉弟はずいぶん仲が良かったらしく、姉皇女が他国に嫁いだことで弟皇子はずいぶん寂しい思いをしていたのだろう。
そのあたりを知っているだけに、ジード男爵も再度の皇子の願いをむげにはできず――というのが俺が皇宮に足を踏み入れることになった顛末だった。
――正直なところ、いかに皇女の親書を持ってきた相手とはいえ、昨日まで顔も知らなかった他国者を簡単に皇宮に招き、あまつさえ皇子に会わせてよいものか、という疑念はあった。
だが、向こうの思惑はどうあれ、皇帝に近づける機会があるなら乗じるべきだろう。まさか闇討ちされることもあるまい、と考えて俺は紫苑皇子に会うことにしたのである。
「はじめまして、僕が紫苑です」
そう言って穏やかに微笑んだ皇子の顔は、なるほど、咲耶皇女と良く似ていた。
姉皇女よりも線が細く、人格の奥行も感じられないが、その分こちらも構えることなく相手をすることができる。この弟皇子に対しては、姉皇女と対面したときのような用心や警戒は不要であろう。
――なんというか、弟皇子の方が皇女っぽい。
口に出したら確実に不敬罪に問われることを考えつつ、俺は皇子と言葉を交わす。
どうやらジード男爵は俺に関することはいっさい皇子に伝えていないらしく、皇子がたずねてくるのはもっぱら姉皇女に関することばかりだった。
元気でやっているか、とか、食事は口に合っていそうか、とか、カナリア王宮の人に嫌われていないか、とか。
王宮での咲耶皇女のことを知らない身には、なかなかに厳しい質問ばかりだったが、ここで「知りません」などと言えるはずもない。俺と会ったときの皇女の様子や、ドラグノート公やクラウディアから聞いた話を思い出しながら、紫苑皇子の質問にひとつひとつ丁寧に応じていく。
皇子は俺の返答を聞くたび、熱心にうなずいては嬉しそうに微笑んでいた。その笑みにも底意は感じられず、本当に姉のことを案じていたことがうかがえる。
皇子の優しさはこの一事だけでも明らかだった。
そんな皇子を見て、ふと思う。
この皇子には帝位争いはできないだろう。心根の優しさは皇子の美点だが、兄をおしのけて帝位を奪うには邪魔なだけの感情だ。皇帝ともなれば、目的のために私心を殺して非情な決断を下さねばならないこともあろうが、これも紫苑皇子にはできないだろう。
ある意味、この皇子はアザール王太子よりも皇帝に向いていない。
一方で、皇子の優しさは人を惹きつける。
初対面の俺でさえ安心するものを感じているのだ。常日頃、皇子と接している廷臣たちはさぞ皇子を大切にしているに違いない。
――危うい、と思わざるを得なかった。
実績のある皇太子と、人望のある末の皇子。今はまだ皇子が幼いゆえに本格的な発火には至っていないようだが、これから先、皇子が成長していくにつれて対立はどんどん先鋭化していくのではないか。たとえ皇子が皇帝に向いていないとしても、そして皇子自身が帝位を望まないとしても、周囲が担ぎあげようとするからだ。
皇太子の側も、対抗者たる弟の勢力が大きくなるのを黙って待ってはいないだろう。
ミロスラフが調べた噂も、そういった密やかな対立の空気を掬いとったものだったのかもしれない――そんなことを考えていたときだった。
トントントン、と部屋の扉があわただしく叩かれる。皇子の声に応じて入ってきた皇子付きの家臣は、やや慌てた様子で皇子に告げた。
まもなく陛下がお越しになります、と。