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第六十七話 懇願


 鬼ヶ島を脱走したクライアはまっすぐに西へ向かった。


 自分ひとりではクリムトを助けることはできず、さりとて友人知己を巻き込むわけにはいかない。この窮地において、クライアがすがれる相手はそらしかいなかった。


 以前に西へ向かったときはクリムトとゴズがおり、三人で『法の街道』を歩いたものだが、今のクライアにのんびり街道を進む余裕はない。


 謹慎を命じられた身で屋敷を抜け出し、それを阻もうとした旗士を傷つけ、あげくに鬼門の守備にあたっていた双璧の一人と刃を交えた。どれをとっても重罪としか言いようがなく、そのうえ島抜けという最大級の禁忌も犯している。


 追手がかけられているのは間違いなく、クライアは街道を避けて山野に入り、野の獣のように草木をかきわけながら走り続けた。


 アドアステラ帝国からカナリア王国に入る際も正規の手続きを経ておらず、積み重なった罪状に国境破りの一項も加わってしまったが、その選択が功を奏したのか、追手の姿はついに現れず、クライアはなんとかイシュカにたどりつく。


 ただ、食事や睡眠はおろか、休息さえとらずに駆け続けたため、空の邸宅にたどりついた時はほとんど地面を這っている状態だった。かろうじて呼び鈴に手をかけたものの、そこで意識を失い――次に気がついたとき、クライアは寝台の上で寝かされていた。


 汚れていた衣服は替えられ、顔や手足の泥はぬぐわれている。そして――



「久しぶり、というほどこの前から時間は経っていないな」



 かたわらにそらが立っていた。寝台で横たわるクライアを見下ろしながら、静かに語りかけてくる。


 クライアは震える声で相手の名を呼んだ。



「……そ……ら、どの」



 ひどくかすれた声。老婆のようなその声音を聞いた空は、思わず、という感じで眉をひそめた。


 そして、無言でテーブルの上に置かれた水差しを手にとり、小ぶりのコップに水を注いでクライアに手渡す。


 慌てて受け取ったクライアは、遅まきながら強烈な喉のかわきを自覚して、瞬く間にコップの中身を飲み干してしまう。


 コップをからにしたクライアは、ほぅと深い息を吐いてから空に頭を下げた。



「ありがとうございます、空殿」


「どういたしまして。それで、何があった? あせらず、ゆっくりと話せ」


「は、はい……!」



 促されるまま、クライアは自分の身に起きたことを話しはじめる。


 話しながらクライアが考えていたのは、どのようにすれば空に力を貸してもらえるだろうか、ということだった。


 クリムトを助けることができるのは空しかいない――そう考えて遮二無二しゃにむにイシュカを目指した。空であれば、鬼門を護る青林八旗をおそれず、そして鬼門の奥に跋扈ばっこする魔物や鬼人に怯まず、両者を向こうにまわして戦うことができるだろう。その判断はきっと間違っていない。


 だが、それはあくまで実力的、精神的に可能というだけの話。心情的な面を考えたとき――つまり、空がクリムトのために、あるいはクライアのために命がけで戦ってくれるのかと考えたとき、いな以外の答えは出てこなかった。


 当然だろう、クライアたちが青林旗士として空と戦ったのはつい先ごろの話なのだ。


 忘れていたわけではない。イシュカに向かう間も、このことはずっとクライアの頭の隅にあった。それについて考えようとしなかったのは、背後に迫っているであろう追手を振り切るため、余計なことを考えている暇がなかったからである。


 ――ただ、それが言い訳であるという自覚はあった。


 クライアは怖かったのだ。空が自分たちを助ける理由はない。空を動かすに足る利益を提示することもできない。イシュカにたどりついたところで何の意味もない。それらの事実と向き合うのが怖かった。


 向き合ってしまえば、その瞬間に張りつめていたものが切れ、膝をついてしまうことがわかっていたから。


 そして、一度ひとたび膝をついてしまえば、もう立ち上がることもできなくなる。それもクライアにはわかっていた。


 だから、考えずに走り続けた。


 だから、こうして空を前にしても何も思い浮かばない。


 以前であれば、自分自身を対価として差し出すこともできただろう。だが、数々の罪を犯した今となってはそれもかなわない。クライアは死が確定した重罪人であり、こうして空の家にいるだけで計り知れない迷惑をかけているのである。


 今すぐ出ていけ、と家から蹴り出されても仕方ない。いや、むしろ、そうされて当然だった。クライアは空だけでなく、空の周囲にいる者たちまで危険にさらしているのだから。


 ――そこまでわかっていて、それでもなお相手にすがろうとする己の浅ましさに、クライアはめまいにも似た絶望をおぼえた。




 やがて、すべてを語り終えたクライアは懸命に嗚咽おえつをこらえながら空を見た。空の顔がかすんで見えるのは疲労のせいか、涙のせいか分からない。空がどんな表情でクライアを見下ろしているのかも分からない。


 クライアたちの窮状を知ってざまをみろとあざけっているのか。それとも、自分には関係ないことだと無関心の表情をしているのか。あるいは、クライアが助けを求めていることを察して、あまりの勝手さに呆れ果てているのか。


 クライアは想像の中の空の冷眼に耐えるように両手をぎゅっと握りしめる。そして思った。


 一度だけ――一度だけ、空に助けを求めよう、と。


 それを拒否されたら大人しくこの家を立ち去ろう。あるいは、空にこの首を差し出すのもよいかもしれない。島抜けの重罪人を討ち果たしたとなれば立派な手柄だ。迷惑料のかわり程度にはなるだろう。


 そんなことを考えながら、クライアは震える声で言葉をつむぐ。



「……空殿。恥を忍んで、お願いいたします。どうか……私と共に、クリムトを……助けては、いただけないでしょう、か……?」



 嗚咽まじりの震え声。ところどころつっかえては、泣いている子供のようにしゃくり上げてしまう。あまりの情けなさと羞恥心に、もう空の顔を見ることもできなかった。


 顔を伏せると、こぼれ落ちた涙が清潔な寝具に汚い染みをつくっていく。こんなところでも迷惑をかけてしまっている。そう思ってクライアが両手で顔を覆おうとしたときだった。



「ああ、いいぞ」



 そんな言葉がクライアの耳朶を震わせた。


 嘲りもなく、呆れもなく、かといって優しさや同情があるわけでもない。それはひどく軽い声だった。買い物に付き合ってほしいといわれて、それに承諾の返事をすればこんな声音になるだろうか。


 クライアは弾かれたように顔をあげたが、その顔には喜びよりも戸惑いの色が濃い。紅い瞳には、いま自分が聞いた言葉は思いが高じた末の幻聴ではないか、という疑いがまざまざと刻まれていた。



「………………あの、空殿、今……?」


「ん? ああ、いいぞと言ったんだが。クリムトを助けるために力を貸してほしいんだろう?」


「は、はい、そうです!」


「いいだろう、貸してやる」



 そういうと、空はクライアの顔に向けて手を伸ばしてきた。思わず目をつむったクライアの額に軽い衝撃が走る。


 衝撃といっても痛みをともなうものではない。指のさきっぽで額を軽く押された、その程度のものだった。



「あ」



 普段であれば何ということもない力だったが、今のクライアはそんな小さな力にも抵抗できない。


 寝台の上で上半身だけ起こしていたクライアは、そらにつつかれて再び寝台に横たわる恰好になった。ぽすん、と音をたてて頭が枕に埋まる。


 目を瞬かせるクライアに対し、空はそっけなく言った。



「今、食べるものを持ってくるから、それまで寝てろ」



 言い終えると、空はクライアの返事を待たずにさっさときびすを返して部屋を出ていこうとする。


 その背に向けて何かを――せめて礼の一言もいわねば、とクライアは口をひらこうとした。だが、言葉を発するより早く、視界が暗転する。力を貸してやる、という空の言葉が実感をともなって胸中を満たし、張りつめていたものが切れたのだ。


 あたかも目の前で暗幕を下ろされたかのように、クライアの意識はたちまち闇に包まれていった。




◆◆◆




「ふん。誰が絵図面を引いたのか知らないが、小細工をしてくれる」



 俺は先ほどのクライアの話を思い返しながら、忌々しげに吐き捨てた。


 一連の出来事が偽りだとは思わない。今にも死にそうな顔をしていたクライアを見るに、クリムトが鬼門で消息を絶ったのは本当のことなのだろう。


 だが、島抜けしたクライアが一度も追手に襲われずにイシュカまでたどりつけた時点で、今回の一件を額面どおりに受け取ることはできなかった。


 ――何者かがクライアを利用して俺を鬼ヶ島へ誘い出そうとしている。それはもう推測というより確信だった。


 廊下を歩きながら先ほどのクライアの顔を思い出す。目はおちくぼみ、頬はこけ、髪はぼさぼさで、元々の髪色とあいまって年経た老婆のようだった。肌は白を通り越して土気色に変じており、昨夜の段階でシールたちが発見していなかったら、きっと門前で息絶えていたに違いない。


 そのことからもクライア当人は謀略とは無関係と推測できる。では、どうしてクライアが俺を誘い出す役割に使われたのか。



「人質にしている間に情が移ったとでも思われたか」



 ち、と舌打ちする。思えば、アヤカにもそう思われている節があった。他に同じことを考えた者がいても不思議はない。


 俺がクライアの頼みをれてクリムトを助けようと思えば、どうあっても鬼門をくぐらねばならない。


 御剣家に頭を下げて許可を求めるか、力ずくで押しとおるか。前者は御剣家に屈服するも同然であり、後者は正真正銘の犯罪者になることを意味する。どちらを選んでも俺は苦境に立たされることになるわけだ。


 そして、まさにそれこそがこの策を考えた者の狙いであろう。


 では、俺がそのどちらも採らず、クライアを見捨てるという選択肢を選んだら?


 そうなったらそうなったでていよく邪魔者を始末できる、とその何者かは考えているのかもしれない。


 ――となると、策の出どころはギルモアあたりだろうか。ただ、ギルモアが「情」などという不確かなものを計算に入れて動くとは考えづらいので、他に知恵を出した者がいる可能性もある。


 首謀者が誰であれ、弟を想う姉の気持ちを利用して俺をはめようなど、まったくもって気に入らないやり方だ。


 ただ、結果として俺にきっかけをくれた。そのことには感謝しなければならないだろう。


 何のきっかけか? もちろん鬼門に入るきっかけである。


 いつかクリムトは言っていた――鬼門の中には幻想種に匹敵する魔物がいくらでもいる、と。


 当然、興味はあった。ただ、鬼門をくぐるためには前述したような問題があったし、ヒュドラの毒問題も未解決だったため、これまでは行動に移ることができなかった。


 ところが、はからずも御剣家の方から仕掛けてくれたことで、俺の希望は一気に実現性を帯びた。


 今回の仕掛けをまるっと利用することで相手にほえ面をかかせてやろう。


 幸い、手づるはある。御剣家に頭を下げることなく、犯罪に手を染めることなく、ついでにクライアが積み重ねた罪を打ち消す形で鬼門をくぐってみせる。


 クリムトに関しては鬼門をくぐってから考えよう。正直、生きていようと死んでいようと知ったこっちゃないが――まあ、たぶん生きてるだろうさ。姉のためなら泥水をすすってでも生き延びる奴だしな。


 俺は皮肉っぽく笑いながら、頭の中で今後の行動計画を組み立てていった。



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