第六十六話 七人目の黄金世代
「鼻が曲がりそう……以前に来たときは、ここまで濃い瘴毒は出ていなかったのに」
ウルスラ・ウトガルザはそういって柳眉をひそめた。
青林八旗の中でも選りすぐりの旗士たちで構成される第一旗において、若くして十位にのぼった女傑の目には、鬼門内部の惨憺たる光景が映し出されている。
長きにわたって鬼神の魔力――鬼気にさらされた土は半ば腐り、鉄靴を通じてぶよぶよと気色の悪い感触を伝えてくる。腐敗臭をともなった空気は重たく湿り、そこかしこに空いた地面の穴からは絶えず瘴毒が吐き出されている。赤紫色の毒素が霧のようにあたり一帯を覆り、動物と植物とを問わず、生き物の存在を拒んでいた。
もとより鬼門内部は蕎麦さえろくに実らない不毛の地であるが、ここはその中でもさらにひどい。たとえ鬼人であってもこのあたりには近づけないだろう。
そう判断したウルスラは懐から手製の地図を取り出し、新たに得た情報を手早く書き記していく。ウルスラの任務は鬼門内部の調査であり、そのために例外的に単独行動を認められているのだ。
必要な情報を記し終えたウルスラは、踵を返して瘴毒に呑まれた地を後にする。
毒自体は勁による防御で遮断できるが、悪臭までは防げない。いつまでもこの場所に留まっていては鼻がおかしくなってしまうし、臭いが身体に付きでもしたら最悪だ。砦に戻ったらしっかり湯浴みをしよう、と心に誓う。
変わり者――もとい荒くれ者ぞろいの一旗の旗士たちは臭いの有無など気にもしないだろうが、だからといって自分もその一員になってしまうのはよろしくない。柊都に戻ったとき、アヤカやクライアにからかわれるのはごめんだった。
「……それにしても、さっきの所で五つ目か。偶然というには多すぎるね」
ウルスラは眉根を寄せてつぶやく。何が五つ目かといえば、瘴毒によって変質した土地が、である。
鬼門内部に満ちる鬼気は、鬼ヶ島に漏れ出ているものとはくらべものにならないくらいに濃い。当然のように鬼門の中のものは全てがその影響を受けており、土は腐り、水は濁り、空気は澱んで、さながら地獄のごとき様相を呈している。
ただ、一口に鬼門内部といっても面積は広大であり、すべての土地、すべての水が鬼気に汚染されているわけではない。ウルスラはいま砦――御剣家が鬼門内部につくった拠点――北部の偵察に来ているのだが、このあたりは比較的鬼気の影響が薄い土地だった。少なくとも、一か月前に来たときはここまで濃い瘴毒を発してはいなかった。
それがわずかな期間で大きく変質している。その事実にウルスラは遠雷の轟きを感じていた。
濃い瘴毒の発生は鬼気が強まったことを意味する。そして、鬼気の強まりは鬼神の力が活性化していることを暗示している。
脳裏をよぎるのは先ごろ柊都に鬼神が降臨した事実だ。あの出来事が鬼神の活性化をうながした可能性は否定できない――そんなことをウルスラが考えていたときだった。
『叫! 叫! 叫!』
あたりに金属的な咆哮が響き渡り、ウルスラの行く手を複数の魔物がさえぎる。
不気味に光る八つの赤い目。蜘蛛を思わせる八本の脚。複数で獲物を待ち伏せる知恵を持ち、気配を断つ術も修得している鬼面獣身の魔物の名は、土蜘蛛。
かつて空が鬼ヶ島で対峙した人食い魔獣が合わせて四体、ウルスラを取り囲んでいる。
『新米殺し』の異名をとる土蜘蛛は青林旗士にとっても油断のできない相手だ。複数を同時に相手取るとなれば尚更である。
だが、ウルスラの顔に緊張はない。その手にはいつの間にか一本の刀が握られていた。柄にも鍔にも飾り気はなく、ただ刀身だけが血に濡れたように赤い。
「いくよ、雷花」
ウルスラの声に応じるように心装は赤い刀身をわずかに光らせる。
その後に起こった戦いは、戦闘というより虐殺に近かった。
一度抜けば敵を切り刻むまで止まらぬ神速の刃。雷光のごとくきらめく鋒鋩で斬り裂かれた魔物は数知れず、ウルスラ・ウトガルザが戦場を駆ければ草も木もみな朱に伏すと評される。
青林八旗における序列ではアヤカやラグナに及ばないが、実戦における能力功績は二人に優るとも劣らない。
付いたあだ名は朱姫。あるいは死神ウトガルザ。
それらの異名が決して名前倒れではないことは、千々に裂かれた四体の土蜘蛛が証明していた。
魔物の襲撃を一蹴したウルスラは、今回の調査で判明した事実を報告するためにいったん砦へと帰還する。
――友人であるクライア・ベルヒが島抜けした事実を知ったのは、このときだった。
◆◆
ウルスラは靴音高く砦の中を進んでいく。途中、幾人かの旗士とすれ違ったが、冴え冴えとした美貌に冷たい怒りを満たす今のウルスラにあえて声をかける者はいなかった。
ウルスラはそういった周囲の反応を一顧だにせず、まっすぐに砦の奥――旗将ディアルト・ベルヒの部屋に向かう。
ウルスラの頭の中には先ほど耳にしたクライアの島抜けの一件がこだましていた。
いわく、謹慎が解けぬ身でベルヒ家を抜け出したクライアは、屋敷を出たところでベルヒ家に属する旗士に発見されて戦闘になり、数人を斬って逃走。柊都の中にいては逃げきれないと判断したのか、鬼門に逃げ込もうと試みるものの、先の鬼人襲撃で厳戒態勢にあった一旗の旗士たちに阻まれて失敗。窮した挙句、島外に逃げ出した――
一連の顛末を聞かされたウルスラは、ありえない、とうめくようにつぶやいた。
島抜けとは青林旗士が無断で鬼ヶ島を出る行為を指し、例外なく死をもって裁かれる。この三百年の間、島抜けを成功させた者はただのひとりも存在しない。
そのことをクライアが知らないはずはなく、あの思慮深い友人がそんな愚行をおかすわけがない。万が一、クライアの行動が事実だとしたら、そこにはやむにやまれぬ事情があったはずだ。最初に鬼門に向かった事実から推して、鬼門に関わる何かがクライアに愚行を強いたに違いない。
それがいったい何なのか、ウルスラには想像もつかない。知る者がいるとすればベルヒ家の人間だけであろう。そう思ったからウルスラは旗将のもとに向かっているのである。
ディアルトのもとに向かう途中もウルスラの怒りは冷めやらない。
だいたい、クライアの謹慎が今なお続いていること自体がおかしいのだ――憤りを込めてそう思う。島外で不覚をとったのは確かに失態であろうが、同じ不覚をとったゴズとクリムトはとうの昔に許されている。どうしてクライアひとりが今に至るまで謹慎していなければならないのか。
おかしいといえば、無断で鬼門をくぐろうとしたクライアを一旗の旗士が取り逃がしたというのもおかしい。
たしかにクライアは旗士として優れた技量を有しているが、それでも青林八旗の最精鋭たる一旗の旗士を複数同時に相手どるのは至難の業だ。謹慎が続いていたことで体力も衰えていただろうし、直前にベルヒの旗士を相手取っていた事実からも、そうとう疲弊していたことがうかがえる。
鬼門の守備についていた者たちがクライアを取り押さえることは難しくなかったはず。その時点でクライアを止めていれば、少なくとも島抜けの罪は防ぐことができたのに。
居合わせた旗士はいったい何をしていたのか、とウルスラは名も知らぬ同輩に八つ当たり気味の怒りを抱く。
と、そのとき、深みのある男性の声がウルスラの耳朶を震わせた。
「目が吊りあがっているね。そんな顔でどこに行くつもりだい、ウルスラ」
穏やかな声でウルスラの行く手をさえぎったのは、一旗の副将である九門淑夜だった。
ウルスラが一礼してから返答しようとすると、淑夜はそれに先んじて口をひらく。
「クライアの一件を耳にして、旗将に事の次第を問いただしに来た。そんなところかな?」
「おっしゃるとおりです」
硬い声でウルスラが応じると、淑夜は「そういうことなら」といってウルスラを自分の執務室に誘った。
淑夜はウルスラの同期である九門祭の実兄であり、旗士になる以前からウルスラと面識がある。もちろんクライアともだ。今回のことも無関係ではないという。
温厚な淑夜は一旗の旗士たちに人望があり、ウルスラもこの例に漏れないが、ディアルトから直接事情を聞きたいという思いもあって淑夜についていくことをためらった。
そんなウルスラに対し、淑夜は事実を伝えることで決断の秤を傾ける。
旗将は柊都のベルヒ邸に戻っているよ、と。
淑夜の執務室に入ったウルスラは、眼前の副将に自分の考えを残らず披露する。
これに対し、淑夜はいちいち頷いて応じると、ゆっくりと口をひらいた。
「君の考えはおおよそ僕と同じだ。その上でいくつかの疑問を晴らしておこう。まず、一旗の旗士がクライアを鬼門で取り押さえることができなかった理由だが、これは僕にある」
「……どういう意味でしょうか?」
「僕がクライアを取り逃がしたんだ。あのとき、クライアは明らかに平静を欠いていた。くわえて、長きにわたる謹慎の後とは思えないくらい勁が充実していた」
まるで万能薬でも飲んだかのようだった――淑夜はそう語る。
むろん、クライアがどれだけ力にあふれていようとも、双璧たる淑夜には及ばない。討とうと思えば討つことはできた。しかし、クライアのことをよく知り、なおかつ将来の御剣家の柱として期待をかけていた淑夜はその選択をとらず、無傷でクライアを取り押さえようとする。
配下の旗士をおしとどめ、みずからクライアを捕縛しようとする淑夜に対し、クライアは捨て身の攻撃をしかけてきた。
「みずからの勁を暴発させた、自爆同然の一撃だった。正直なところ、ひやりとしたよ」
「クライアが、そこまで……?」
「ああ。さすがに意表をつかれてね、逃がしてしまった」
淑夜にしても、まさかクライアが島抜けをするとまでは思っておらず、クライアを追うよりも事情の確認を優先した。ウルスラ同様、クライアがここまでの暴挙をはたらいたのは相応の理由があってのこと、と考えたのである。
その理由を知らずにクライアを追っても、クライアはあくまで抵抗を続けるだろう。そうなれば、殺す以外の選択肢がなくなってしまう。
――無断で鬼門をくぐろうとした挙句、淑夜と刃を交えた時点で、すでに手遅れともいえるのだが、自身が当事者である分、擁護のしようはある。淑夜はそう考えてベルヒ邸に使者を走らせ、さらにディアルトやギルモアとも直接会って事情をといただした。
その結果、明らかとなった事実に九門家の当主は唖然とする。
「クリムトが死んだ」
「…………え?」
「クリムトは司徒殿に、繰り返し姉の謹慎を解くよう願い出ていたそうだ。それに対し、司徒殿は鬼人族の頭、アズマという王を討つことを宥恕の条件として挙げたらしい。クリムトはこれをうけて鬼門におもむき、命を落とした。クライアはそのことを知って錯乱したのだろう、と司徒殿は言っていたよ」
「ま、待ってください。クリムトが死んだ? ひとりで鬼門に入ったのですか? それに、鬼人の王を討つ作戦があるなんて聞いたことがありません!」
「当然だね。副将である僕にも知らされていなかったのだから」
「……ベルヒ家の独断、ということですか?」
ウルスラが底冷えのする声で問いかける。
姉を助けることを条件にクリムトを死地に送り込んで始末し、次にクリムトの死を吹き込むことでクライアが掟を破るように仕向け、やはり始末する。
ウルスラの目には、一連の出来事が邪魔者を始末するベルヒの陰謀としか思えなかった。
しかし、次に淑夜の口から出た言葉はウルスラの推測に疑問符をつけるものだった。
「独断ではない。御館様もご承知のことだった」
「な!?」
驚くウルスラに、淑夜は低い声で告げる。
「実をいえば、僕もはじめは君と似たことを考えた。ベルヒ家が不要になった養子二人を始末しようとしたのではないか、とね。しかし、御館様が一連の行動を承知していたとなると、話はかわってくる」
ベルヒ家の狙いが二人の始末であり、当主である式部がそれを認めたのなら、小細工など必要ない。ディアルトに命じて二人を殺し、後から適当な罪名をつければ済む話である。鬼門の中で戦死した、ということにしてもよい。
しかし、ベルヒ家は式部の許しを得て秘密裡にクリムトを鬼門に送り込んだ。そのことにどんな意味があるのか。
クリムトが鬼人の王を討てると期待した、とは考えにくい。やはりクリムトの失敗は織り込み済みだったと考えるべきだろう。
となると、その後のクライアの行動も計画に含まれていた可能性が高い。
もしかしたら、あのとき自分が鬼門にいたことも、この計画の首謀者の計算通りだったのかもしれない――淑夜はそう思う。自分であれば不用意にクライアを殺すことはない、と首謀者は考えたのではないか。
この推測が正鵠を射ていたとすると、きっとこの首謀者はクライアが島抜けすることも予測していた。
淑夜の前から逃げ出したとき、クライアは思ったはずだ。
――弟を助けるためには鬼門をくぐらねばならない。だが、自分ひとりでは鬼門の守りを抜くことはできない。友人たちを頼ることは許されない。自分が選ぶのは御剣家を敵にまわす道。過去三百年、誰一人として生をまっとうできなかった最悪の選択肢だ。どうして友人を巻き添えにすることができようか。
それでも、弟は助けたい。助けなければならない。
だから。だから、助けを求めなければならない。
青林旗士を凌駕する力を持ち、御剣家を敵にまわすことを恐れず、鬼神をさえ退ける、そんな人に……