第六十二話 嗤いの先に
「これは……なんて、大きさ……」
はじめてティティスの森の龍穴を見たとき、ウィステリアはそういってしばらく絶句していた。自分の身体を抱きかかえるように、右手で左肘を、左手で右肘を、それぞれつかんでいる。その姿は見えざる何かから己を守ろうとしているかのようだった。
俺がウィステリアを龍穴に連れて行ったのは、ひとつには訓練のためだった。ウィステリアが同源存在と同調するための訓練である。
同源存在に身体を乗っ取られかけた今のウィステリアは、いつ爆発するかわからない火球のようなもの。なるべく早くこの状態を解消する必要がある。
そしてもうひとつ。ウィステリアに龍穴を見せたのは、アンドラにあるという奈落と龍穴が同じモノであることを確認するためだった。
これまでに手に入れた情報から、両者が同じ性質をもつモノである可能性は高いと思うが、百聞は一見にしかずという。奈落を知っているウィステリアに龍穴を見せて確証を得たかったのである。その結果――
「おぞましいほどの魔力と、魔力に侵されて変異した植物……奈落と同じです。ただ、こちらの方が奈落よりもずっと大きいですし、それに魔力も濃いですね。精霊たちが完全に変質してしまっています。これはもう精霊というより……」
ウィステリアはそういって、う、とうめいて口元に手をあてる。どうやら過剰な魔力にあてられたようである。あるいはこのあたりの精霊の姿が見るに堪えなかったのか。
俺自身、けっこうきつかったので早々に龍穴から離れた。別段、訓練といっても龍穴の真横でおこなう必要はない。ようは同源存在が活性化しやすい環境があれば良いのだ。深域と最深部の境目あたりでも十分な効果が得られることだろう。
ともあれ、龍穴と奈落が同質のモノであることは確認できた。そして、ラスカリスの言葉の一部が正しかったことも証明された。
あの不死の王によれば、この後、法神教がアンドラの龍穴を確保するために動き出すとのことだった。そのために俺にベヒモスという脅威を排除させたのだ、と。
「さて、どうなるかな」
アンドラには外敵を防ぐ結界があり、剣士隊という精鋭部隊もいるという。これを力ずくで制しようと思えば、相当の人数を動かさなければならない。
しかし、カタラン砂漠で大軍を動かすことの難しさは容易に想像できる。ベヒモスがいなくなったといっても、砂漠の魔物が全滅したわけではない。そして『砂の壁』――未踏破区域に頻繁に発生する砂嵐――をはじめとした過酷な気候はこれまでと何も変わっていない。
なによりもカナリア王国が黙ってみているはずがなかった。ベルカもカタラン砂漠もカナリア王国の領土なのだ。法神教が国内で好き勝手に兵を動かすことを認めるわけがない。
――そのあたりの不可能を可能にするために、ノア教皇みずからティティスに結界を築いたり、帝国との婚儀に全面的に協力するなどして、カナリア王国に恩を売った可能性もあるわけだが。
王都で話をした教皇の顔を思い起こし、俺はかるくかぶりを振る。今の時点でどれだけ頭をひねっても憶測以上のものにはならない。状況を注視して、適宜行動するしかないだろう。
願わくば、ラスカリスの話はでたらめであり、法神教に裏はなく、『銀星』のアロウたちは砂漠の魔物にやられただけであり、カティアの傷心はラーズによって癒される――そんな結末になってほしいものである。
特にカティアについては割と切実にラーズに期待していた。
もともと、俺が『銀星』の捜索というカティアの頼みを引き受けたのは、明らかに思いつめていた少女の気持ちをなだめるためだった。言葉をかえていえば、『銀星』の生存ははじめから期待していなかった。
だが、ラーズは違う。
ラーズは俺とは異なり『銀星』の生存を心から信じてカティアに協力するだろうし、『銀星』の死亡が確定したときはカティアと一緒に心から悲しむに違いない。今のカティアに必要なのは、ただ強いだけの俺よりも、ラーズのように傷ついた心に寄り添ってやれる協力者だろう。
カティアは幼少時に自分を売った家族やメルテ村の住民に隔意を持っているから、勝手にラーズに事情を話した俺は恨まれるに違いないが、これはもう仕方ない。
ただ、俺たちがベルカを離れた今、第六級冒険者であるラーズの助力はカティアにとっても必要なものであるはずだ。しぶしぶではあってもラーズを受け入れる公算は高い。そしてラーズなら、かたく強張った少女の心を解きほぐすこともできるのではないか――俺がラーズに期待しているのはそういう役割だった。
自分では解決できない厄介事をラーズに丸投げしたとも言うが、ラーズ本人が乗り気だったのだから問題あるまい。イリアも残してきたからそうそう無茶もしないだろうし、俺の助力が必要になったら連絡を寄こすように言ってある。
と、そこまで考えたとき、至近で勁が膨れ上がるのを感じて、俺は意識をそちらに集中させた。勁の発生源はウィステリアで、ダークエルフの浅黒の顔は苦しげに歪んでいる。同源存在たるパズズが表に出て来ようとしているのだ。
放出される勁量が安定しないのは、ウィステリアとパズズ、両者が身体の主導権をめぐって争っている証拠である。これまでのところ、戦績はウィステリアの全敗。勝ったパズズが身体を乗っ取ったところを、俺が心装で斬りつけて大人しくさせる――これを何度も繰り返している。
当然のようにこの訓練におけるウィステリアの負担は大きいが、元筆頭剣士は決してやめようとはしなかった。むしろ俺が制止にまわらなければならないくらい何度もパズズに挑んでいる。
その結果というべきだろう。少なくとも、訓練を開始した当初よりウィステリアが苦しむ時間は延びていた。つまり、それだけ長くパズズに対抗できるようになっている、ということである。
これが心装へ至る正しい道のりであることを願いつつ、俺は苦しむウィステリアをじっと見つめ続けた。今日こそはウィステリアが勝者の座についてくれることを祈りながら。
◆◆◆
ヒヒヒ、ヒヒヒ、という甲高い嗤い声が響いている。鼓膜をかきむしるその声は、無駄な抵抗を続ける宿主に向けた魔神の嘲笑だ。
ウィステリアは歯を食いしばってパズズの圧迫に耐えつつ、事態を打開する術を探っていた。
パズズの圧迫に耐えられる時間は間違いなく延びている。アンドラにいた頃に耐えしのげた時間を一とすれば、今は五か六くらいは耐えることができる。これは大きな成長といえるが、一方で、今後この時間を十に伸ばしても、二十に伸ばしても、それでパズズを屈服させられるかと問われれば、答えは否。そのことをウィステリアは理解していた。
言ってしまえば、今のウィステリアは防御に徹して敵の攻撃に耐えているだけなのだ。この状態でどれだけ粘っても敵に打ち勝てないのは自明の理である。
どこかで反撃に出る必要があった。
しかしながら、絶えず魔神の攻撃にさらされている状況で、他のことに力を割く余裕があろうはずもない。実際、ウィステリアは反撃を試みた回数だけパズズに身体を乗っ取られて終わっている。
以前とは違い、今はソラがいるので魔神に乗っ取られても大事に至ることはないが、この状況を打開しないかぎり、ウィステリアはソラの足枷であり続ける。それは元筆頭剣士の望むところではなかった。
耐えるだけでは駄目。かといって反撃することもできぬ。
袋小路の状況は、結局のところ、彼我の力の差によるものだった。パズズとは――同源存在とはそれだけ強大な存在なのだ。
そんな相手を正面から屈服させて心装を会得しようという考えは、やはり無謀というべきなのかもしれない。そう考えたウィステリアは前提を改めることにした。
現状、ウィステリアはいつパズズに身体を乗っ取られるともしれず、それゆえにソラは絶えずウィステリアのそばにいなければならない。先に王都でソラと教皇が対峙したときも、ウィステリアはその場にこそいなかったが、近くの部屋で待機していた。
まずはこの状態を打開する。具体的にいえば「心装を会得すること」ではなく「パズズの現界を妨げること」に主眼を置く。
ようは反撃とかいっさい考えず、ひたすら耐えて耐えて耐え抜くのである。前述したように、これでは心装を会得することはできないが、パズズの現界を妨げることはできる。
ティティスの最深部は濃密な魔力があふれており、パズズの力も常より強く、活性化しやすくなっている。ここでパズズの暴威に耐えられるようになれば、今後イシュカやベルカでパズズが表に出て来ようとしても十分に対処できるだろう。その分、ソラは自由に動けるようになる。ウィステリアはソラの足枷にならずに済むのである。
――そのとき、パズズの嗤い声がひときわ高まった。あたかもウィステリアの考えを察知し、それを嘲笑するかのように。
どこか挑発にも聞こえるその声と同時にパズズの圧迫が強まった。ウィステリアは歯をくいしばり、勢いを増した魔神の攻勢を耐え忍ぶ。それは体力の限界が来て、意識を失うまで続いた。
結局この日、ウィステリアはソラに抱えられて蠅の王の巣に運び込まれることになる。
当然のように心装に至ることはできなかったが、反面、パズズに身体を乗っ取られることもなかった。ソウルイーターの魂喰いに頼ることなく、ウィステリアが独力でパズズの圧迫に耐えきったのはこの日が初めてである。
目を覚ましたウィステリアは、またしてもソラに迷惑をかけてしまったと唇を噛んだ。己を保てたことについても、ソラが最深部から連れ出してくれたからこそだと考え、自らが踏み出した一歩の意味を理解することはできなかった。
◆◆◆
王都ホルスは人々の歓呼の声で沸き返っていた。
王太子の結婚相手であるアドアステラ帝国の第三皇女咲耶が、大勢の護衛に守られて到着したのである。
皇女を守るのはカナリア王国が誇る竜騎士団と国王直属の近衛部隊。その先頭には、先ごろノア教皇護衛の任をつとめたドラグノート公や、その長女であるアストリッドの姿があり、二人の姿を見た観衆は再び大きな歓声をあげた。
国内でも人気が高い二人は馬に乗っている。これは翼獣が地上を歩くのに向かないためであるが、乗っているのが翼獣から軍馬にかわろうと、二人の英姿は一向にかすまない。
その二人を先頭としたカナリア軍は天を衝くような長槍を持ち、煌びやかな甲冑をまとって、皇女を守りながら歩武堂々と街路を進んでいく。
その見事さに観衆から三度歓声があがった。
それはアドアステラ帝国とカナリア王国、二つの国家が結びつく婚儀にふさわしい荘重な行進だった――と言いたいところなのだが、実のところ、このとき皇女の護衛を務める兵数は当初の予定の半分にも満たないものだった。
本来、皇女はアドアステラ帝国の一軍を率いてホルスに入城する予定だったのだが、その一軍がまるまる欠けていたのである。
帝国軍が予定を違えたわけではない。アドアステラ帝都から両国の国境に至るまで、皇女には万を超える軍勢が従っていた。
この護衛軍についてはもちろんカナリア側も了承しており、そのまま帝国軍がカナリア国内に踏み入ってもなんら問題はなかったであろう。
だが、皇女は帝国軍の大半を国境にとどめ、ごく少数の側近だけを連れてカナリア王国に入り、出迎えに来たドラグノート公に身柄を委ねた。
これは皇女がカナリア側の反帝国感情に配慮した結果だった。
もともとカナリア王国は、侵略を続けるアドアステラ帝国に対抗するべく、大陸西部の諸都市が連合して成立した国家である。その成り立ちもあって、国民の間には根強い反帝国感情がわだかまっている。皇女は多数の帝国軍を従えることで、カナリア国民の反感を買うことを避けたのだ。
はじめにそのことを知ったとき、ドラグノート公はたいそう驚いたものである。
以前、アザール王太子と皇女がアドアステラの帝都で対面した際、皇女がどのような態度をとったのかは公爵の耳にも入っている。
帝国の威を借りた傍若無人な姫君を予想していたところ、ドラグノート公と対面した皇女は、王都までの護衛をよろしく頼みます、と丁寧に挨拶をしてきた。公爵だけではなく、アストリッドにも親しく言葉をかけ、己はもとより随従の配下も厳しく律してカナリア王国を軽んじる色をいっさい見せなかった。
これはいったいどういうことぞ、と公爵は娘と一緒に首をひねったが、その戸惑いは皇女が王宮に入った後も続いた。
皇女は会う廷臣、会う廷臣すべてに完璧な礼儀と親愛を感じさせる態度で接し、決して自らの出自を誇ろうとはしなかった。
それどころか、これからはアドアステラの第三皇女ではなく、カナリア王国の王太子妃として、この国のために力を尽くしたく思います。どうか貴殿の力をお貸しください――そんな風に親しく廷臣の名を呼んで頼み込んだのである。
身目麗しい姫君から頼りにされて嫌な気がする者はいない。しかも、皇女の決意が口先だけのものでないことは、護衛軍を国境にとどめた行動が証明している。
カナリア国内では、皇女の輿入れによって帝国の支配力が強まることを懸念する貴族が少なくなかったが、そういった者たちの間でも皇女の人柄は好ましいものとして捉えられていた。
ドラグノート公もそのひとりである。
むろん、まだ皇女に対して全面的な信を置いたわけではなかったが、これから厄介事の種になると覚悟していた帝国の皇女が、カナリア王国のために尽力したいと望んでくれるのなら、公爵にとっても王国にとっても幸いである。そう考えていた。
そんな公爵のそれとない好意を察したのか、あるとき、皇女はドラグノート公を部屋に招いて一つの頼み事を口にする。
――ご息女と懇意である竜殺し殿と引き合わせてほしい。
皇女が口にしたのは、そんな頼み事だった。