第六十一話 教皇との対峙
「お久しぶり、と申し上げるには以前にお会いしてから時が経っていませんね。魔境と呼ばれるカタラン砂漠からの無事のお戻り、心から嬉しく思います、空殿」
そういって小さく微笑んだのは、法神教の最高指導者ノア・カーネリアス教皇だった。
つややかな亜麻色の髪、宝石を思わせる翠の隻眼、抜けるような白い肌。以前に顔を会わせたときと変わらない端正な容姿である。
唯一変わったものがあるとすれば、それはノア教皇がまとっている衣装だった。旅用の簡素な神官服を着ていた以前と異なり、今のノア教皇は地位にふさわしい荘厳な法衣をまとっている。
白を基調とした法衣は聖布――聖水を用いてつくった糸で織られた布――でつくられており、目を凝らせば、驚くほど巧みな刺繍が施されているのがわかる。刺繍が目立たないのは服地と同色の糸で縫われているからだ。それらの刺繍が単なる模様ではなく、魔法的な意味合いが込められた意匠であることは明白だった。当然、法神の祝福も、これでもかとばかりに込められていることだろう。
たぶんこの服、物理的にも魔法的にもそこらの城壁よりはるかに頑丈である。
ノア教皇がこの法衣を着ているのは俺を警戒してのこと――ではもちろんなく、地位にふさわしい服を着ているだけにすぎない。それはわかるのだが、それでも一瞬「警戒されているかも」などという思考が脳裏をよぎったのは、間違いなくラスカリスと接触した影響だった。
俺は相手に気づかれないように小さく息を吐く。
ベヒモスを倒し、ラスカリスの話を聞いてから、すでに五日が経過している。ここはカナリア王国の王都ホルス。俺は王宮の客人となっていたノア教皇と面会しているところだった。
ちなみに、この場にはいないが、サイララ枢機卿も王都に来ている。アザール王太子と咲耶姫の婚儀に出席するためである。
――少々事情がとっちらかってしまった感があるので、ここにいたる経緯を順を追って説明すると、次のようになる。
まず、ベヒモスを倒した俺がリーロオアシスからベルカに戻った時点で、枢機卿はすでに王都へ出発した後だった。
神殿の門衛の話では、俺が砂漠に向かった翌日にはカナリア王宮から迎えの竜騎士がやってきたそうだ。そのことを知った俺は枢機卿の後を追う形でベルカを出た。
途中、メルテ村でラーズに会ってカティアのことを伝え、そこからイシュカへ。留守番をしていたミロスラフから、ノア教皇が結界魔術の準備を終えたこと、影武者と入れ替わる形で王都に向かったことを聞き、あらためて王都へ出発した。
王都に到着した俺はドラグノート公爵邸をたずね、教皇の介添え役を務めているクラウディアを介してノア教皇との面会にこぎつけ――そうして今に至る。
俺がここに来た理由はラスカリスから受け取った賢者の石を教皇に渡すためだ。目的だったベヒモスの角は失われたが、賢者の石は十分に代替品となりえる。これを教皇に渡すことで、ここしばらく俺の頭を悩ませていた懸案の一つを片付けることができるはずだった。
ただ、法神教の重鎮であるサイララ枢機卿がラスカリスに示した敵意を思うと、率直に事情を話すのは躊躇われた。夜会と、その主宰者であるラスカリスを敵視しているのは枢機卿ばかりではあるまい。むしろ、これまで直接不死の王と戦ってきたノア教皇は、枢機卿よりもはるかに深くラスカリスを憎んでいるはずだ。
その相手が寄こした賢者の石を、はたして教皇は素直に受け取ってくれるだろうか。
罠だ、と疑うのが自然な反応だろう。最悪の場合、俺にまで疑いの目が向けられる。
かといって、何もいわずに国宝級の品を渡そうとしても、教皇は受け取ってくれないに違いない。間違いなく入手の経緯を問われる。それに対して偽りで応じれば、教皇の慧眼はたやすく嘘を見抜くだろう。
そんな風にあれやこれやと考えた末、俺は一連の経緯を正直にノア教皇に話すと決めた。
小細工をして仲がこじれるくらいなら、はじめから事実をもって対峙した方がよい。その結果、法神教と敵対することになったなら、そのときはそのときである。
俺は懐から取り出した賢者の石を卓の上に置いた。ごとり、と音がして、石が小さくかたむく。
それを見たノア教皇は右の目をかすかに見開いた。
「それは……」
「私にこれを渡した者は賢者の石だといっていました。黄金帝国産の極上品であり、十分にベヒモスの角の代わりになるだろう、と」
それだけでおおよそのことを察したのか、教皇は目から驚きを去らし、なるほど、とうなずいた。
そして言う。
「空殿はラスカリスと会ったのですね。あの腐れエルフと」
「はい、聖下――ん?」
相手の問いにうなずいた後、なんか今のおかしくなかったか、と首をかしげた。
だが、ノア教皇はそんなこちらの反応にかまうことなく澄まし顔で先を続ける。
「サイララ枢機卿から報告は受けております。ベルカにおいて、空殿との間で齟齬が生じた、と」
「は、確かに猊下とは仲間の身柄をめぐって少々意見がぶつかりました」
「仲間、ですか。鬼人を懐に入れたあなたらしいお言葉です」
そういってノア教皇は薄く微笑む。以前にも思ったが、教皇は表情の変化が小さく、かつ短いので感情の変化がとらえづらい。
サイララ枢機卿の報告を聞いた教皇が俺にどのような感情を抱いたのか。そして今、ラスカリスから渡された賢者の石を持ってきた俺をどう見ているのか。それらを外面からおしはかるのは困難だった。
教皇は卓の上の賢者の石を手にとると、静かに目を細める。
「……おかしな仕掛けはないようですね。そして、たしかにこの魔法石は結界の触媒として十分な魔力を有しています」
賢者の石を卓の上に戻した教皇は、俺に向かって深々と頭を下げる。
その動きに応じて、少女の亜麻色の髪が細い肩を伝って胸のあたりに流れ落ちた。
「感謝いたします、空殿。これでこの国の人々が死毒に苦しむことはなくなるでしょう」
「頭をおあげください、聖下。私はこの国に住まう者のひとりとして、自分に出来ることをしたまでです。後のこと、どうかよろしくお願いいたします」
「お任せください。法神教の威信にかけて、必ずや結界を築いてご覧に入れましょう。長きにわたって綻ぶことのない強固な結界を」
顔をあげたノア教皇はしっかりとうなずいてみせた。
そして、じっとこちらを見やりながら言葉を続ける。
「ところで、あの腐れエルフのことです。空殿に魔法石を渡しただけで立ち去ったわけではないでしょう。何か私に訊きたいことがあるのではありませんか?」
真摯な声であり、表情だった。ラスカリスのことを「ダークエルフ」と呼ぶ際、なぜか黒いものを感じるが、それ以外にこちらへの悪感情を匂わせるものはない。
このノア教皇の問いかけに対し、俺はこくりとうなずいた。
「一つだけ、うかがいたいことがあります」
聞きたいのは法神教が龍穴を利用して企んでいることの詳細――ではなかった。
俺はラスカリスが口にした情報をまったく信用していない。あの不死の王が語ったことがすべて嘘だとはいわないが、それをこちらに伝えた真意は俺を利用することにある。それがわかりきっている以上、あの男の情報をもとに動く気はない。
実際、俺はこの件に関しては誰にも、何も、伝えていなかった。ラスカリスの話を他者に伝えるとしたら、それは情報の裏付けをしっかりと取ってからである。
当然、法神教への疑念を口外する気もない。そもそも俺自身、お世辞にも高潔な生き方をしてきたとは言い難い。法神教が龍穴を確保して何を目論んでいようと、それを居丈高に非難する資格なぞないのである。
ただ、それでも一つだけ確かめておきたいことがあった。
光神教。
ラスカリスが最後に口にした言葉。そして、鬼ヶ島で戦った鬼人オウケンが口にしていた言葉でもある。
まったく異なる勢力に属する二人が、まったく同じ言葉を口にした。
ただの偶然であればそれでよい。光の神という神格は、異なる文化、異なる神話で重複しても不思議はない存在だから。
しかし、偶然ではなかったとしたら――
「聖下は光神教という言葉をご存知ですか?」
緊張と、ある種の覚悟をもってノア教皇に問いかける。
答えは思いのほかあっさりと返ってきた。
「はい、知っています。知らないはずがありません。なぜといって、光神教は法神教の前身となった組織だからです」
「前身となった組織、ですか?」
俺の反問に教皇はこくりとうなずく。その後にとった行動は、くしくもラスカリスと同じだった。
法神教の聖句を唱えたのである。
「法とは秩序を守るもの。そして、秩序とは人の世の昏きを照らす光ならん――光とは我らが法神のもう一つの神性なのです。光神教はあまりに純粋に正義を求めたゆえに、邪教として排斥されたと聞き及んでいます」
「邪教とは穏やかならぬ言葉ですね。純粋に正義を求めたとのことですが、具体的に何をしたのです?」
「三百年前の戦いにおいて、光神教の一派が鬼人族に味方しました。彼らはあの大戦が人間の欲にきざしたものではないかと考え、自らの正義のために鬼人族にくみしたのです。ですが、事情はどうあれ、彼らが同胞を裏切ったことにかわりはありません。それが理由のすべてではありませんが、光神教が法神教と名をあらためるに至った一因ではあるでしょう」
そういうと、ノア教皇は静かに俺を見た。
吸い込まれてしまいそうな翠の瞳に、俺の顔が映っている。
「私は彼らの行動を間違いだと断じることはできません。勝手ながら、あなたも同じ考えなのではないかと思っているのですが、いかがでしょう?」
「おっしゃるとおりです」
ノア教皇の言葉がスズメのことを指しているのは明らかで、だからこそ俺はうなずく以外の選択肢をもたなかった。
そんな俺に向けて、教皇は言葉を続ける。
「残った光神の信徒は裏切り者とののしられ、邪教として排斥され、塗炭の苦しみを味わったそうです。このままでは人も教えも土にとけてしまう。そう考えた時の最高司祭がとった窮余の一策。それが法神教と名をあらため、当時は小国に過ぎなかったアドアステラにくみすることだったのです。その後、法神教が帝国と共に歩んだ道のりは空殿もよくご存知のことでしょう」
ノア教皇はそこまで話すと、言うべきことはすべて言った、というように口を閉ざした。
室内に沈黙の帳が下りる。
ややあって俺が口をひらこうとしたとき、それをさえぎるように部屋の扉が遠慮がちに叩かれた。
あらわれたのは法神教の神官であり、婚儀の段取りについて確認したいことがあるという。つけくわえれば、教皇に用事がある人はその神官だけではなさそうで、扉の向こうからは複数の気配が感じられる。
あらためて考えるまでもなく、国同士の婚儀をとりしきる教皇は猫の手も借りたいほど忙しいに違いない。こうして俺と話をする時間を捻出するだけでも、相当に無理をしたのではないか。
遅まきながらそのことに思いいたった俺は、あわてて立ち上がった。
知りたかったことはおおよそ聞くことができた。これ以上踏み込んだ話をしようと思えば、俺の方にも準備がいる。ラスカリスが口にした真偽の定かならぬ情報だけでは、教皇の話を否定することも肯定することもできない。
「聖下、貴重なお話をしていただき、ありがとうございました。私はこれにて失礼させていただきます」
「急かしたようで申し訳ありません。かなうなら、もう少しお話ししたかったのですが……」
「恐縮です。いずれ機会がありましたら、ぜひ」
教皇に向かって深々と一礼した俺は、踵を返して扉に向かう。
その俺の背で声が弾けた。ささやくように小さく、それでいて、いつまでも耳に残るくらいに深い声音。
――どうか私の敵にならないでくださいね。
その声は、確かにそう言っていた。