第五十四話 殲滅
ウィステリアは、ソラという人間の強さを理解しているつもりだった。
悪霊に憑りつかれた状態だったとはいえ、直接刃を交えた記憶は今もはっきり残っている。
ウィステリアが何とか祓おうとあがき続け、けれど果たせなかった強大な悪霊――魔神。それを苦もなく屈服せしめたソラの武威には心から敬意を抱いている。
だが今、ウィステリアは自らの認識を改める必要を感じていた。ソラの力を理解したつもりになっていたが、それは本当に「つもり」に過ぎなかった、と。
――砂漠が震えていた。
視線の先では心装を抜いたソラが魔力を高めている。翼獣の背を降りてからずっと高め続けている。
青年の身体から奔騰する魔力が、巍巍たる城壁のごとくそびえ立つ様を声もなく見つめる。押し寄せてくる魔物の大群さえ、今のウィステリアには遠かった。
故郷の森とは比べようもないが、自然の少ない砂漠にも精霊は居る。エルフの目には逃げ惑う精霊たちの姿が映っていた。
世界の魔力や個人の魔力といった垣根を超えた根源の力にさらされ、風の精霊が、土の精霊が、火の精霊が悲鳴をあげている。
耳を圧するほどに甲高い精霊たちの叫びに思わず身体がすくんだ。あるいは、それはウィステリア自身の叫びだったかもしれない。
自分と戦ったときとは比較にもならない力の奔流。敬服していたあの力は手加減の産物だったのだ、と否応なしに理解させられる。
これほどの力を持っていながら、どうして人としての容を保っていられるのか。そんな疑問さえおぼえてしまう。
そのウィステリアの動揺に気づかず――あるいは気づいていても気にせず、ソラは自らの力を解き放った。
「幻葬一刀流 河炎」
応じて心装からあふれ出たのは灼熱の大河だった。驚倒せんばかりの熱量を放ちながら、まっすぐに砂漠の上を駆けていく炎の濁流。
あたりを覆っていた夜気は一瞬で煮えたぎり、凍えるほどの冷気はたちまち灼けつく熱気に変じた。砂漠の砂さえ融かしながら猛進する火流が、殺到する魔物の先頭集団と激突する。
鎧袖一触。
魔物たちは瞬く間に焼き尽くされた。分厚い外皮で身をまもる砂とかげも、鉄よりも硬い甲で全身を覆うカタラン蟻も、黄金と見まがう外殻で人間をおびき寄せる黄金さそりも、あるいはそれ以外の魔物たちも。一瞬で、骨さえ残らないくらい跡形もなく燃え尽きた。
それは蒸発と表現できるくらいに徹底した炎の洗礼。
ウィステリアのもとに熱風が吹きつけてくる。焼けるような風がチリチリと肌を焦がすと同時に、表現しがたい異臭が鼻孔を刺した。ウィステリアは知っている。それが生き物の焼ける臭いだということを。
宙に溶けた命は十や二十ではきかない。百か、二百か。もしくは千か、二千か。吐き気をもよおすほどに濃厚な命の臭いに、たまらずウィステリアはえずく。アンドラの筆頭剣士だった身が戦場で無様をさらしてしまうくらい、その臭いは強烈だった。
――だが、それほどの一撃を浴びても魔物の勢いは止まらない。
ソラが放った勁技はその名のごとく炎の河となり、魔物の大群を舐めるように焼き尽くしていった。だが、地平を埋める勢いで押し寄せてくる敵のすべてを掃滅するには至らない。
勁技の効果範囲を逃れた魔物たちは怯む色もなく直進してくる。
それを見たウィステリアは、ソラを援護するべく精霊への呼びかけを始めようとする。
と、そのウィステリアの動きを制するように、ソラが高々と心装を掲げた。
もう一度同じ技を放つのか――ソラの構えを見たウィステリアはそう思ったが、すぐに自分の推測が間違っていることに気づく。
風が渦を巻いていた。
ベルカでの戦いでパズズの四枚羽を切り裂いた風の太刀 颶。あれを何倍、ことによったら何十倍にも強めたような大風がソラを基点として発生している。
生み出された風は、河炎の熱で生じた上昇気流をも取り込んでみるみるうちに大きくなっていった。天を突くように立ちのぼる様はさながら竜巻のよう。
ウィステリアは左手をあげて吹き荒れる砂塵から目をかばう。ともすれば、ウィステリアまで吹き飛ばされてしまいそうな暴風が、勁技の余波に過ぎないという事実にあらためて慄然とする。
風の行方を追って視線を上げると、ソラが生み出した風が上空の空気をかき乱しているのが見て取れた。精霊使いの目には逃げ惑う風の妖精の姿が映っている。このまま竜巻を敵にぶつけるなら、あんなことをする必要はないはずだ。
「……いったい、何を」
無意識のうちにそんな呟きがもれる。
と、風にかき消されると思っていたその声に返答があった。
「クラウ・ソラスに乗るようになって知ったんだが、空の上ってのは夏でも寒いんだ」
耳ざとくウィステリアの囁き声を拾ったソラの声。轟々と吹き荒れる風の中にあって、その声は不思議なくらい良く通る。
「上に行けば行くほどそうなる。寒いだけじゃなくて息もろくにできなかったな。まるで、見えない水が張られているみたいだった」
空の果ては、鳥はおろか藍色翼獣でさえも飛べない死氷の世界。
それを知ったとき、ソラは思ったという。
――これを地上に叩きつけたらどうなるのか、と。
それを聞いた瞬間、ウィステリアの喉で妙な音が鳴った。
とっさに口をひらいて、しかし何を言えばいいのかが分からず、意味もなく口を開閉させる。そうしてウィステリアがあたふたしている間にも、ソラの勁技は急速に完成に近づいていた。
逆巻く風をもって空の静謐をかきみだし、人の手の届かない高みから、命を拒む凍気を地表めがけて叩きつける。
「幻葬一刀流――氷槌」
次の瞬間、ウィステリアの視界の中で世界が爆ぜた。
はるか上空から叩きつけられた冷気の塊は、それ自体が巨大な槌となって地上に群れていた魔物たちに襲いかかる。
範囲は広大、威力は絶大。回避も抵抗も許さぬ攻撃は、空そのものを落としたに等しかった。
カタラン砂漠を驀進していた無数の魔物が一瞬でつぶれ、ひしゃげ、原形をとどめずに砕け散る。
直後、身体が浮きあがるほどの凄まじい衝撃が下方からウィステリアを襲った。ソラが放った勁技が魔物のみならずカタラン砂漠をも打ち据えた影響だった。
勁技の余波はそれだけにとどまらない。
空と地面の激闘によって生じた衝撃波は凄まじい風圧をともなって四方に散り、大量の砂を天高く巻き上げた。飛散した砂は吹き荒れる風に乗ってさらに勢力を広げ、局地的な砂嵐が発生する。
通常の砂嵐と異なるのは、この嵐が生きた人間を一瞬で凍りつかせるほどの冷気をともなっていたことだ。砂と氷によって形作られた死の凍嵐。
仮に初撃を生き残った魔物がいたとしても、この嵐に巻き込まれた時点で命はないだろう。無慮無数とも思われた魔物の大群は、文字通りの意味で全滅したに違いない。
「…………なんという」
呆然とした呟きがウィステリアの口からこぼれ落ちる。何かに引き寄せられるように、自然と視線がソラへと向く。
その視線の先で、黒髪の青年は唇の端を吊りあげるようにして笑っていた……