第五十三話 予兆
夜半、ふと目が覚めた。
警鐘が鳴ったわけでもなければ、咆哮が轟いたわけでもない。耳を澄ましてみたが、異常は何も感じられなかった。聞こえてくるのは、天幕の布一枚を隔てた隣室で寝ているスズメたちの寝息だけだ。
ジョエルと飲んだ酒精のせいかしら、と思いつつ寝返りをうつ。時刻はまだ深夜、起き出すには早すぎる。
だが、妙に目が冴えて寝られそうになかった。
仕方なく寝具をどけて立ちあがり、スズメたちを起こさないように注意しながら天幕を出る。途端、ひやりとした冷気が首筋をなでて、ぞくりと肩が震えた。
ベルカでも感じたことだが、砂漠地帯は昼夜の寒暖差が激しい。城壁の内側にいても寒さを感じたのだから、砂漠のど真ん中にあるリーロオアシスの寒気は推して知るべしである。これで日が昇れば一気に気温があがるのだから、まったく砂漠というのは不思議なところだ。
なんとはなしに空を見上げると、怖いほど大きな月が冷然と地上を見下ろしている。その月に視線を投じながら、俺はみずからに問いかけた。
――さて、さっきから胸を去らないこの感覚はいったい何だ。
眠気を寄せつけない身体の滾り。何が見えるわけでもなく、何が聞こえるわけでもないのに、自然と唇の端が吊りあがってしまう。
これが俗にいう虫の知らせというやつかもしれない。ともかく、何かが起ころうとしている――いや、すでに起きている。それはもう予感を超えた確信だった。
問題はいったい何が起きているのかであるが、まあ竜殺しがこのオアシスにいるのは周知の事実なのだ。はからずも『砂漠の鷹』の団長とも面識ができたことだし、何か事が起これば知らせが来るだろう。そう思って小さく肩をすくめる。
……アルウェトオアシスが魔物の大群に襲撃されたことを知ったのは、それから間もなくのことであった。
襲撃の情報が伝わってきたのは深夜のこと。当然のようにほとんどの住民や冒険者は寝入っていたが、一報を聞いた彼らの反応は素早かった。
カタラン砂漠において、オアシスが魔物に襲撃されるのはめずらしいことではない。群れの規模によってはオアシスを放棄することもあり、その意味で今回の襲撃も砂漠の住民にとっては「いつものこと」だったのだろう。
ただ、そうは言いつつも、リーロオアシスの全住民が一致団結して行動できたわけではなかった。住居を捨てることに慣れているとはいえ、捨てずにすむならそれに越したことはないわけで、オアシスの防衛を主眼とするか、放棄を主眼とするかで多少もめている――そう俺に告げたのは『砂漠の鷹』の団長ジョエルだった。
猫の手も借りたいほど忙しいだろうに、わざわざ俺のもとまで足を運んだジョエルは落ち着いた声音で状況を説明する。
「アルウェトから逃げてきた連中に話を聞いたが、状況はかなり悪い。西、北、南の三方からほとんど同時に魔物が押し寄せてきたそうだ。東は空いていたんでかろうじて脱出はできたが、追撃でかなり手痛くやられたらしい」
「……なんだか、えらく戦術的な動きだな」
完全に包囲すれば敵は決死の覚悟で抗戦してくる。そうさせないように包囲網にわざと穴をあけて敵をそちらに逃がす。一度逃げ腰になってしまえば、再び踏みとどまって戦おうという気概のある者は多くない。あとは逃げる敵を後背から思う存分蹂躙してやればよい。
魔物の動きにはそんな意図が感じられた。もちろん、単なる偶然という可能性もあるのだが、ジョエルは俺の意見をあっさり肯定する。
「砂とかげは待ち伏せをするし、カタラン蟻は群れをつくって狩りをする。黄金さそりに至っては自分の外殻を金塊に見せかけて人間を誘いやがる。砂漠の魔物が狡猾なのは今に始まった話じゃねえよ」
ジョエルはリーロオアシスの放棄――それもできるかぎり速やかに――を主張しているが、これに反対する者も少なくないらしい。
もしジョエルの主張どおり、今すぐオアシスを放棄することになったら、深夜の砂漠を大勢で移動することになる。避難がはかどるはずもなく、魔物に追いつかれる可能性も高い。そうなれば遮る物のない砂漠で正面から魔物の大群と戦う羽目になる。
それよりは守りのかたいリーロオアシスで敵を迎え撃った方が良いという意見が出るのは当然で、むしろこちらの方が正道といえる。
くわえて、アルウェトオアシスを脱出した者たちが全員リーロまでたどり着いたわけでもない。彼らを見捨てないという意味でも抗戦派の主張には理があった。
ジョエル自身もそのことはわかっているという。だが、それでもオアシスの放棄を主張したのは――
「どうにも嫌な感じがしやがる。こう、首筋に見えない刃物を突きつけられているみたいに、な」
『砂漠の鷹』の団長はそういってうそ寒そうに首をすくめた。
「昔からこれが来ると、その後はろくなことが起きん。敵に囲まれたり、砂嵐が起きたり、毒を盛られたりな。アルウェトからの知らせが届いてから――いや、その少し前から、ずっとこの感じが続いてる。だから思ったのさ、ここもやばい、と」
それを聞いた俺は小さく目を見張る。どうやらジョエルも俺が抱いていた感覚と同質のものを感じ取っていたらしい。
俺とジョエルに違いがあるとすれば、迫りくる危険を「危機」と捉えるか、「好機」と捉えるかの差であろう。
そんなことを考えつつ、俺は口をひらく。
「話はわかった。それで、俺にどうしろと?」
わざわざ『砂漠の鷹』の団長が足を運んできた理由を問いただす。まさか俺に状況説明をしておしまい、というわけではあるまい。
すると、ジョエルは唇の端を吊りあげるようにして言った。
「なに、お前さんがどう行動するかを知りたくてな。端的にいうと、戦うつもりか、逃げるつもりかを知りたい。そのどちらであっても俺から――いや、リーロオアシスから依頼をさせてもらいたいわけだ」
戦うつもりならアルウェトの避難民の援護を。逃げるつもりならベルカへの増援要請を。
いずれも空を飛べる俺が一番の適任だから、とジョエルは言う。
提示された金額は俺が軽く目を剥くくらい高額だった。おまけに即金で払うつもりらしく、いつの間にかジョエルの手にはカチャカチャと澄んだ音のなる布袋が握られている。
自ら足を運ぶ誠意を見せた上で、しっかりと利益も提示する。さすがにベルカでも有数の組織を率いるだけあってそつがない。
俺は軽く肩をすくめて、相手に応じた。
「この状況で自分たちだけ逃げるつもりはない。避難民の援護についても了解した。ただし、依頼については断らせてもらう」
「ほう、なんでまた? やることは同じなんだ。金が出た方が良いだろうに」
俺はその問いにはこたえず、相手にならってニヤリと笑うにとどめた。
一度金を受け取ってしまえば、どうしたってジョエルやオアシスのお偉方を雇い主として立てねばならない。そうなると、これから先、行動を掣肘される場面も出てくるだろう。
それよりは依頼を介さずに「協力」という形をとった方がすっきり行動できる。そう考えたのである。後々「竜殺しはオアシスの危機に乗じて大金をせしめていた」なんて非難されるのも嫌だしな!
「その金は西から逃げてくる人たちのために使ってくれ」
「はっはっは! まるで物語の主人公だな。アロウの奴を見てるようだ」
そんな言葉を残してジョエルはこの場を去っていった。俺という戦力を計算に入れた上で、再度有力者たちと今後の方針を練るつもりなのだろう。
俺は俺で同行者たちに事情を説明する必要がある。この頃になると、ルナマリアやウィステリアあたりは異変を察知して起き出しており、それにつられるように他の者たちも目を覚ましていた。
俺はイリアとカティアの神官二人に、西から避難してきた者たちの治療を頼んだ。ジョエルによれば、彼らは魔物たちに手痛く叩かれたという話だから、治癒の奇跡を使える神官は重宝されるだろう。
ルナマリアとスズメの二人には神官二人の手伝いを頼む。
その間、俺はウィステリアと共にクラウ・ソラスに乗って西へ向かう。ウィステリアを同行させるのは、今夜の襲撃で同源存在が活性化する可能性を考慮してのことである。
状況が状況なだけに異見を掲げる者はおらず、俺たちは速やかに行動を開始した。
◆◆◆
「…………これは」
翼獣に乗って眼下の光景を見下ろしたウィステリアは、しばしの間、絶句した。
まるで砂漠そのものが移動しているかのような魔の濁流。
筆頭剣士として多くの魔物をほふってきたウィステリアにとっても、地表を走る魔物の数は未知のものだった。
砂漠の気候は、生命力にあふれた魔物にとっても生きにくい過酷なもの。これだけの数がどこから集まってきたのか。それ以前に、無数とも思える眼下の魔物たちは今日まで何を食べて生き延びてきたのか。
と、それまで無言だったソラがここで口をひらいた。
「思っていたよりも数が多いな。これだけの数がどこから集まってきたのやら」
「おそるべき規模ですね。それにこの速さ。このままだと間違いなく先ほどの集団は追いつかれてしまいます」
ウィステリアの脳裏につい先ほど見かけた小集団が思い浮かぶ。おそらくは百人に満たないあの集団が、アルウェトオアシスを脱出した最後の一団だろう。
もしかしたら後発の集団がいたかもしれないが、眼下の魔物の群れを見れば、その結末は明らかである。
「……どうしますか、ソラ?」
「もちろん戦う。そのために来たわけだしな」
迷いのない返答はウィステリアにとって好ましいものだった。ただ、敵の規模を考えれば、殲滅は難しいと判断せざるをえない。翼獣の飛行速度を活かした足止めこそ、この場でとれる最良の手段であろう。
そう考えたウィステリアは上位精霊に呼びかける準備をはじめようとした。
だが、そんなウィステリアの機先を制するように、ソラが翼獣に呼びかける。
「クラウ・ソラス、あの群れの前に下ろしてくれ」
それを聞き、ウィステリアは思わず集中を解いてしまう。
翼獣はといえば、どこか慣れた様子でぷいぷいと返事をし、主の命令に従うべく旋回する。
鞍の上で身体が大きく揺れ、ウィステリアは眼前のソラの身体にしがみつく。その体勢のまま、口をひらいた。
「ソ、ソラ?」
「む、なんだ?」
「……まさかとは思いますが、正面からあれらと戦うおつもりですか?」
「まさしくそのつもりだ」
おそるおそるの問いかけに、あっけらかんとした肯定の返事がもどってくる。
ウィステリアは再び絶句した。ソラの強さを嫌というほど承知しているウィステリアであるが、それでもソラの決断を無謀だと思った。
戦いにおいて数は何にも勝る脅威だ。いかに魔神を退けた勇士とはいえ、あれだけの魔物を相手に戦えるわけがない。
そんなウィステリアの危惧をよそに、ソラはどこか愉しげな笑みを浮かべていた。