第五十二話 その名は
ジョエルの話を聞いた俺は法神教に対する疑念を抱いた。
ただ、その疑念は眼前の黒騎士の一方的な情報にもとづくものだ、ということも理解していた。一方からの意見をうのみにして、もう一方に疑いを向けるのは公正とはいえないだろう。
ジョエルが嘘をついているようには見えないが、それを言うならサイララ枢機卿だって嘘をついているようには見えなかった。
それに、ジョエルの話には決定的に欠けているものがある。
法神教がアロウを謀殺した目的だ。
真っ先に思い浮かぶのは、法神教の陰謀なり醜聞なりをアロウに知られてしまって口封じをした、という筋書きだが、法神教は大陸の最大宗派にしてアドアステラ帝国の国教。その頂点に立つ教皇はカリタス聖王国の王でもある。
宗教の枠を超え、世俗の権力さえ手中におさめた法神教が、アロウを謀殺せざるをえないと判断した致命的な陰謀ないし醜聞――そんなものが果たして存在するのだろうか。俺にはちょっと想像できない。
仮に法神教がそういう秘密を抱えていたとしても、今度は別の疑問が生じる。つまり、法神教にとって致命傷となりえる重要情報をアロウはどこで手に入れたのか、という疑問だ。
この点が明らかにならないかぎり、ジョエルの話は憶測の域を出ないのである。
「サイララ枢機卿の意見も聞いてみたいところだな」
そう口にしたのは、そちらの意見を一方的に信じるつもりはない、という意思表示だ。
ジョエルはそれを正確に理解したようで、軽く肩をすくめた。
「目を三角にして食ってかかってくるだろうな。ほれ、お前さんに同行していた神官の嬢ちゃんみたいに。ああ、そうそう、同行しているといえば、お前さんと一緒にいた銀髪の方のエルフ。あれはうちの下の連中と揉めた奴だな?」
唐突にジョエルが話をかえる。言及しているのは、以前にちらと聞いたエルフの犯罪者のことだろう。
ちなみに、問いに対する答えは是である。ウィステリアから直接聞いたから間違いない。
なんでもウィステリアがベヒモスの情報を求めて街を歩いていたとき、『砂漠の鷹』の一団に怪しまれ、揉み合いになっているうちに相手の一人に怪我をさせてしまったそうだ。
向こうの問いにとぼけることもできたが、俺はさして迷うことなくうなずいた。都市破壊の罪で法神教に手配されるのと違って、こっちの手配は大した問題ではない。それはいつぞやの衛兵の言葉からも明らかである。ジョエルが何を言ってこようと切り抜ける自信はあった。
俺があっさりとうなずいたのを見て、ジョエルはにやりと笑う。
その後、黒騎士が口にしたのは非難ではなく取引だった。
今後『砂漠の鷹』はウィステリアと関わらない、手配も取り下げる。そのかわり、こちらは負傷者の治療費と見舞金を払う。そういう取引である。
俺はこれを受けいれた。前述したように『砂漠の鷹』の手配は大した問題ではないが、このまま手配を放置しておくと、今後ベルカをおとずれる無関係のエルフに迷惑がかかってしまう。『砂漠の鷹』が多少の金銭で取り下げてくれるというのなら、強いて撥ねつける理由はなかった。
……たぶんこの話は『砂漠の鷹』の内部で「団長が竜殺しに非を認めさせた」という形で伝わり、ジョエルの株があがることになるのだろう。まあ、それで事態がおさまるなら結構なことである。団長と竜殺しの間で話がついたとなれば、鷹の下っ端も文句は言うまい。
あいかわらず火酒をあおっているジョエルを見て、俺は小さく肩をすくめた。
◆◆◆
同時刻。
カタラン砂漠西部に位置するアルウェトオアシスでは、夜番を務める兵士の一人が大あくびをして、もう一人の兵士に注意されていた。
「おい、隊長に見つかったらどやされるぞ。あくびをするなとは言わないが、せめて口を隠すくらいはしてくれ。とばっちりはごめんだ」
「おっと、わりいわりい。今日は月がよく見えると思ってたら、つい、な」
あくびをした兵士が頭をかきつつ詫びる。その声に促されるように、注意した方の兵士も視線を空に向けた。
雲ひとつない砂漠の夜空には、相方のいったとおり大きな月が浮かんでいる。満天の星もかすむ黄金の輝き。吟遊詩人であれば詩情を誘われたかもしれないが、このとき、兵士が感じたのは詩情ではなく怖気だった。
「……なんだか、でかい化け物の目みたいだな。空から睨まれてるみたいだ」
「はっは、なんだそりゃ」
けらけら笑う相方をじろっと見やった兵士は、何か言い返そうと口をひらいた。が、すぐに思い直して口をつぐみ、見張り筒をのぞきこんで任務を再開する。
ここアルウェトは未踏破区域に最も近いオアシスであり、魔物の襲撃を受けることも多い。見張り役の責任は重く、中でも重要なのが未踏破区域のある西側の見張り――つまり自分たちだった。アルウェトを襲う魔物の多くは西からあらわれる。軽口をたたいている暇はないのである。
今日の砂漠は煌々と輝く月明かりに照らされて見晴らしがよく、そこまで神経質になる必要はなさそうだが、気を抜くよりは気を張っている方が良いに決まっている。
その後もなにくれとなく話しかけてくる相方を適当にあしらいつつ、兵士は見張りを続けた。ややあって、見張り筒をのぞきこんでいた目がすっと細くなる。
「……『砂の壁』がおさまってきたな」
未踏破区域に頻繁に発生する巨大砂嵐は、この見張り台からでも確認することができた。今日のように月の明るい夜は特によく見える。
実際、少し前まで濛々と立ち込める砂煙が遠望できたのである。それが徐々に見えなくなってきている。このぶんだと夜が明ける頃には完全におさまっているだろう。
『銀星』が健在だったなら、喜び勇んで未踏破区域に向かったに違いない――兵士がそう考えて、寂しげに笑ったときだった。
夜の静寂を裂いて、激しい鐘の音が鳴り響く。
オアシス中に響けとばかりに打ち鳴らされているその音は、魔物の襲来を伝える警鐘だった。もちろん、鳴らしたのはここにいる二人ではない。
兵士は鋭い声で言った。
「北か!」
「……いや、南も鳴ってねえか、これ?」
相方の言葉に眉根を寄せて耳を澄ます。すると、確かに警鐘は南からも聞こえていた。
兵士はちっと舌打ちする。
「北からも、南からもか。まずいな、こういうときはたいてい西からも来る」
その不吉な言葉はほどなくして現実のものとなった。
月明りに照らされて、西の方角から押し寄せてくる砂煙。それが魔物の群れであることは火を見るより明らかで、兵士は再度の舌打ちを余儀なくされる。
「やっぱりか! おい、鐘を鳴らしてくれ!」
相方に指図をした兵士は、自分は見張り台から身を乗り出し、下にいる同僚たちに向かって大声で「西からも来たぞ!」と呼びかけた。
繰り返すが、アルウェトオアシスが魔物に襲われることはめずらしくない。だが、三方同時というのはさすがにそうそうなかった。これでもし東からも現れたら、このオアシスは完全に包囲されてしまったことになる。そうなれば、リーロオアシスに撤退することもできない。
「魔獣暴走ってことはないよな……?」
砂漠の魔物の大量発生。ときにそれはカタラン砂漠に点在する全てのオアシスを飲み込み、ベルカの城壁にまで達することがある。
さすがにその規模の襲撃ではないと思いたいが――兵士がそんなことを考えていると、不意にあたりが静かになった。相方が警鐘を打つのをやめたのである。
兵士は何やら呆然としている相方を睨みつけ、強い口調で言い放った。
「おい、警鐘を止めるな! ここで止めると、西の襲撃は誤報だったと勘違いされちまうぞ!」
「…………あ」
「おい、呆けてる場合じゃないだろ! しっかりしろ!」
今や兵士の声は完全に怒声だった。だが、それでも相方は動かない。張り裂けんばかりに両目を見開き、呆然と西の方角を見つめている。
さすがにおかしいと気づいた兵士は、あわてて相方が見ている方向を見やった。
視界に映るのは、肉眼でも確認できるくらい接近している魔物の群れと、月光に照らされた夜の砂漠。そして、彼方に見える『砂の壁』――そこまで考えて、兵士は強い違和感に襲われた。慌てて見張り筒をのぞきこむ。
つい先ほど、まもなくおさまるだろうと判断した『砂の壁』が再び発生しようとしている?
いや、違う。あれは『砂の壁』――砂嵐などではない。砂嵐に見えたのは無数の魔物だ。数さえ知れぬ魔物の大群が、まるで一個の生き物のように折り重なり、ひしめき合って蠢いている……
いや、いや、それも違う。
無数の魔物はいる。確かにいる。だが、それ以上に巨大な魔物がいるのだ。
大きい。言葉を失うほどに大きい。これだけ遠く離れていてあの巨体。至近で見れば、いったいどれだけの大きさなのか。
あれにかかれば、アルウェトオアシスなどつま先で蹴飛ばされる。リーロオアシスは片足で踏みつぶされる。ベルカの街でさえ、あの巨体を囲い込むことはできないだろう。
兵士が『砂の壁』だと思ったのは、地平を覆う巨獣と、その巨獣を守るようにうごめく無数の魔物の姿だった。
「な、なんだよ……なんなんだよ、あれ……」
呆然とした兵士の声が見張り台の上にむなしく響く。
もしこのとき、兵士がもう少し冷静に観察を続けていれば、群れを成す魔物の一部が巨獣に牙を突き立てていることに気づいただろう。巨獣は魔物たちに喰われながら砂漠を闊歩しているのだ。
その事実に気づくことができれば、砂漠の伝説から巨獣の正体を突き止めることが出来たかもしれない。
……もっとも、正体に気づけたとしても、これからアルウェトオアシスを襲う結果が変わるわけではなかったが。
それは幻想の名を冠する世界の理
大河を飲み干し、沃土を啜り、霊長を噛み裂く暴食の化身
空を仰ぎて吼えたるは星の光を喰らうため
地にぬかずきて鳴きたるは我が身を喰えと告げるため
その身を肉に、その血を水に
飢えと渇きをしりぞけて、砂の大地に君臨す
その名は貪婪
その名は献身
砂漠の母たる獣の王