第四十七話 夜が明けて
それはウィステリアにとって、間違いなく人生最悪の夜だった。
悪霊によって身体を奪われるだけでも悪夢の最たるものなのに、その悪霊を圧倒するモノによって斬られ、打たれ、蹴られ、突かれ――傷ついていない所はないというくらいに痛めつけられた。
筆頭剣士として数多の魔物、精霊と戦ってきたウィステリアは肉体的な痛みには耐性がある。だが、この相手の攻撃はどういう理屈によるものか、肉体のみならず精神をも傷つける。斬られるたび、自分の中の大切なものが削り取られていく感覚は筆舌に尽くしがたかった。
そして、そのウィステリア以上に苦しんだのが、ウィステリアの身体をのっとっていた悪霊である。
悪霊と半ば融合していたウィステリアは、悪霊の驚愕、苦悶、憤怒をじかに感じることができた。いや、感じるというより、煮えたぎる悪霊の感情に飲み込まれた。
自分のものではない感情に翻弄され、かき回され、押し流される。ウィステリアは己という存在が消し飛ばないよう、懸命に耐えなければならなかった。
いっそ気を失ってしまえば楽だったかもしれないが、悪霊と同調した身には気を失う自由さえない。悪霊が抗うかぎり、ウィステリアもまた抗うしかないのである。
悪霊の抵抗は夜が明けるまで続いた。
夜を徹した戦いの末、悪霊は四枚の羽を引き裂かれ、二本の尾を引きちぎられ、手足の爪を粉々に砕かれ、四肢をあらぬ方向に曲げられた。凄惨としか言いようのない姿は、逆にいえば、悪霊の底力を示している。ここまでされなければ抵抗を止めなかったのだ。
恐るべき生命力といえたが、より以上に恐ろしいのは悪霊を追いつめた者であろう。黒髪の人間は傷らしい傷もなく、傲然とした面持ちで倒れた悪霊を見下ろしている。
この時点で、千々に切り裂かれた悪霊の意識は消滅寸前だった。ウィステリアに余力があれば身体を奪い返すこともできたに違いない。
だが、ウィステリアに余力が残っているはずはなかった。アンドラを追放されて以来、日に日に強大になる悪霊を抑え込みながら、慣れない砂漠で神獣を探し、人間相手に精神をすり減らし、ついには悪霊もろとも叩きのめされたのだから。
人間が黒剣をウィステリアに向けている。その切っ先に明確な死を感じながら、ウィステリアはふと思う。
もしやこの青年は神獣の化身なのではないか、と。
そう考えれば、相手の常軌を逸した力も納得できる。砂漠でどれだけ神獣を探しても見つからなかった理由も説明できる。
仮にこの推測が間違っていたとしても、この人間が悪霊を倒す力を持っているのは間違いない。であれば、結果として自分は目的を――みずからに巣食った悪霊を滅ぼすという目的を果たすことができるのだ。
そんなことを考えながら、ウィステリアの意識は闇に落ちた。悪霊のうめきをすぐ近くに感じながら……
それから、どれくらいの時間が過ぎただろうか。
どこかからチュンチュンと小鳥のさえずりが聞こえてくる。そのさえずりに唱和するように、かすかな葉ずれの音が耳朶を揺らした。
木々の隙間をぬって吹きつけてくる風は穏やかで、撫ぜるように頬を通り過ぎていく。
それらは故郷の森をウィステリアに想起させた。砂漠に追放されて以来、ついぞ感じたことのなかった安らぎが胸裏を満たす。
そこはベルカの東に位置する山の中。以前、とある竜殺しが翼獣を人目から隠すために利用した場所だったが、もちろんウィステリアには知る由もない。
銀髪のエルフは自分が置かれた状況をとっさに把握しそこねた。何か、とてつもない悪夢を見ていたような気がするのだが、それが何なのか思い出せない、いや、思い出したくない。今は少しでも長くこの安らぎにひたっていたかった。
――だが、そんなささやかな願いは、次の瞬間、微塵に砕かれる。
「目が覚めたのなら、周囲の確認くらいはするべきだと思うがな」
「――!」
その声を聞いた瞬間、地面に横たわっていたウィステリアはバネ仕掛けの人形のように跳ね起きた。視線の先に黒髪の青年を認めた途端、昨夜の出来事が閃光となって脳裏を駆け抜ける。
瞬く間に自分が置かれた状況を思い出したウィステリアは、相手と距離をとるべく後ずさろうとした。
と、その動きが引き金となり、それまでウィステリアの身体を覆っていたローブがはらりと地面に落ちてしまう。
ウィステリアが着ていた衣服は、昨夜異形に変異した際にすべて失われている。今、地面に落ちたローブはウィステリア以外の誰かのものだ。それが誰の物かはさておき、ローブが地面に落ちてしまえば、ウィステリアの身体を隠すものは何もない。
後に残るのは、生まれたままの姿をさらす一人のエルフだけだった。
「――っ!?」
ウィステリアの顔が一瞬で真っ赤に染まる。そんな場合ではないとわかってはいたが、湧きあがる羞恥の感情がおさえられない。
だが、その羞恥は長く続かなかった。羞恥を上回る驚愕がウィステリアを襲ったからである。
ウィステリアはあらためて自分の身体を見下ろした。傷ひとつない肌。昨夜、あれだけ斬られたのに痕さえ残っていない。
いや、それより何より、視界に映る身体は自分のものだった。腕に獣毛は生えていない。脚に鱗はついていない。手足の先に伸びていた鉤爪も元の形に戻っている。
ウィステリアはハッとして顔に手をあてた。そして、そのまま両手でせわしなく頬を、唇を、鼻を、額を、順に触っていく。
そのすべてが生来の自分の顔だった。醜悪な獣面はどこにも残っていない。
「………………あ……あ」
形の良い唇から嗚咽が漏れた。思いもよらぬ福音を前に、状況も忘れてその場でへたり込んでしまいそうになる。
そのとき、青年が口をひらいた。見れば、青年はどこか気まずそうな顔でウィステリアから視線をそらしている。
「ローブを拾ってくれ。その恰好は目の毒だ」
「え…………あ!?」
相手の一言で我に返ったウィステリアは、慌てて地面に落ちていたローブを拾い上げた。むろんというべきか、それに乗じて青年が襲いかかってくるようなことはない。
その後、ローブで裸身を隠したウィステリアは、あらためて青年と対峙した。
眉根を寄せているのは、どういう表情をすればいいのか分からなかったからである。
どうやら青年にこちらを傷つける意図はないようだ。ウィステリアはそう思う。そのつもりなら今の隙を見逃す理由はないし、そもそもこちらが寝ていた間にいくらでも行動できただろう。
そう思う一方で、純粋な親切心で助けてくれたとも思えずにいる。当然だ。どこの世界に、おぞましい悪霊に変異した者を親切心で助ける物好きがいるのか。
とるべき行動に迷い、ウィステリアは逡巡する。
ただ、相手の思惑はどうあれ、悪霊にのっとられていた身体が元に戻ったのは間違いなく青年のおかげである。それに関しては礼を述べなければなるまい。そう思って、ウィステリアが口をひらこうとしたときだった。
「訊くが、同源存在という言葉を知っているか?」
ウィステリアに先んじて、青年が問いを向けてくる。
それを聞いたウィステリアは一瞬反応に迷ったが、すぐに意を決して応じた。
「……いえ、あいにく聞いたことはありません」
「ふむ。それなら昨夜のアレを何と呼んでいる?」
「……悪霊と、そう呼んでいます」
再度の問いに応じた後、ウィステリアは今度は自分の方から問いを投げかけた。
「こちらからも伺いたいことがあります。かまいませんか?」
「かまわない。答えられるかどうかはわからないけどな」
「それで結構です」
ここでウィステリアは右の拳を左胸に当て、ゆっくりと頭を垂れた。アンドラ剣士隊の敬礼である。
「私の名はウィステリアと申します。我が身に巣食う悪霊を討ちし方よ、あなたの名前を教えていただきたい」
問われた青年はきょとんとした顔で目を瞬かせた。おそらく問いの内容が予想していたものとは違っていたのだろう。
ややあって、青年は軽く肩をすくめて応じた。
「ソラだ」
「ソラ……それではそう呼ばせていただきます」
一度、口の中で転がすように相手の名前をつぶやいてから、ウィステリアはあらためて青年――ソラを見つめる。
ウィステリアは遅まきながら昨夜のことを思い出していた。まだ魔神が現界する前、人垣の中に人ならざるモノを見つけたときのことを。
その気配は今も色濃くソラを包んでいる。
見ているだけで身体が震えるほどの威圧感。そして、その威圧感さえ、魔神と戦っていたときに比べればずっと小さい。
ウィステリアは相手に気づかれないよう、ぎゅっと両の拳を握りしめた。そして、声が震えないよう、つとめてゆっくりと口をひらく。
「ソラ。私を悪霊より解き放ってくれたこと、幾重にも礼を申します。その上でおたずねします。あなたの目的は何ですか? あなたの力をもってすれば、悪霊ごと私を斬ることは造作もなかったはずです。敵意を向けた私を助ける理由があったとも思えません。にもかかわらず、あなたはこうして私と話す機会を設けた。何か理由あってのことなのでしょう?」