第四十六話 咆哮の夜
「喰らい尽くせ、ソウルイーター」
抜刀と同時に、夜をも包み込む闇がベルカの街路を覆い尽くす。
それまで耳障りな哄笑をまき散らしていた獣頭の魔神の動きがピタリと止まった。爛々と輝く赤眼がひたと俺を見据えている。
針のような視線に射抜かれたとたん、かすかな悪寒が背筋を走った。もしかしたら視線による魔術――邪眼のたぐいを使われているのかもしれない。伝説に名を残す存在であるからには、その程度のことは簡単にやってのけるだろう。
軽く心装を一振りし、まとわりつく魔力を払いのけた俺は正面から魔神を見返した。
すでにエルフの面影はほとんど残っておらず、獅子を思わせる魔の面貌があらわになっている。あふれる魔力は溶岩のごとく煮えたぎり、荒ぶる魂は竜巻のごとく吹きすさび、とうていこの世のものとは思えない。
一連の変異を目撃していなければ、間違いなく幻想種だと判断しただろう。
だが、この魔神はエルフの身体を奪う形で現界しようとしている。そこが気になった。
幻想種は龍穴が吐き出す膨大な魔力を糧として現界する。すくなくとも、以前に戦ったヒュドラはそうだった。
無限に等しい龍穴の魔力に比べれば、人間やエルフが保有する魔力など微々たるものだ。幻想種がわざわざエルフにとりついて力を奪う必要などない。となると、この魔神の正体は幻想種ではなく――
「同源存在、か?」
小声でぼそりとつぶやく。暴走した同源存在が宿主を喰って現界しようとしている――眼前の光景はそういうものであるように思われた。
俺の同源存在であるソウルイーターは、これまで宿主を喰おうとしたことはない。喰うどころか、切所において助けてもらってばかりだ。
だが、すべての同源存在がソウルイーターのように宿主に協力的なわけではないだろう。同源存在は十人十色、百人百様。御剣家の歴史上、同源存在を統御できずに心身を損なった者は数え切れず、中には同源存在に身体を乗っ取られた者も存在する。
あのエルフは、おそらくこれにあてはまる。
問題は、どうして鬼ヶ島から遠く離れたベルカの地に同源存在を宿した者がいるのか、であるが、こればかりは当人に訊いてみなければわかるまい。
――ふん、と鼻で息を吐く。
ここで斬り殺してしまった方があとくされがない。それは確かなのだが、眼前にいる魔神はただの魔物や幻想種ではなく同源存在。それをただ殺すのはもったいない。
うまく運べば同源存在を宿した供給役を確保できるし、御剣家が抱える同源存在の秘密に迫ることができるかもしれない。仮に失敗したとしても、狂える同源存在を喰うことができるのだから俺に損はない。
それに、ここまで同源存在に侵食された魂を元に戻せるかどうか、それを試してみたいという思いもあった。
ベルカに来る前にスズメと話したことを思い出す。鬼人であるスズメは角によって同源存在――鬼神とつながっている。すでに夢という形でその兆候はあらわれていた。
将来的にスズメが鬼神にのっとられるようなことが起こらないともかぎらず、そのときにとるべき手段を持っていることは大きな意味を持つ。
そんなことを考えながら、俺は魔神に向けて一歩を踏み出した。
「殺ッ!!」
凝縮した勁を両足に込め、おもいきり石畳を蹴りつける。弾けるような勢いで前に出た俺は、たちまち魔神を間合いにおさめた。
とらえた。その確信と共に刃を振り下ろす。
その瞬間、魔神の身体を緑色の光が包み込んだ。
それは濃密な魔力で編まれた防壁。鉄はもちろんのこと、魔力付与された武器さえはじき返すであろう魔神の鎧。これあるかぎり、魔神を傷つけることは至難の業であるに違いない。
その推測を肯定するように、魔神はこちらの斬撃を躱す素振りを見せなかった。人間ごときに自分を傷つけられるわけがないという内心の声さえ聞こえてきそうである。
――だが、ソウルイーターの刃はたやすく至難を喰い破る。
「ギヒイイイイイイ!?」
したたかに身体を斬られた魔神の口から、驚愕と苦痛が入り混じった咆哮がほとばしる。
同時に、周囲からひときわ甲高い悲鳴がわきおこった。何事かと見れば、先刻と同様、人々が耳をおさえて地面をのたうっている。
おそらく今の咆哮は、魔神にとって苛立ちを吐き出すだけの行動にすぎなかった。だが、そんな何気ない行動にさえ精神を削りとる咆哮の魔術が作用している。
魔神にとって魔術とは唱えるものではなく、動作のひとつひとつに勝手に宿るものであるらしい。ということは、先ほどの邪眼も、見るという行為に付随した魔術の作用だったわけだ。
さすがは伝説に名を残すだけのことはある、というべきか。俺にとっては耳障りな雑音にすぎないが、ここで戦っているとまわりの被害が大きくなる一方だ。助ける義理はないとはいえ、故意に巻き添えにする気はさらにない。
それに魔神が伝説のとおりの存在なら、熱病や蝗害、砂嵐を発生させることもできるかもしれない。さすがにベルカのど真ん中でそんな真似をさせるわけにはいかなかった。
ベルカから叩き出す。
そう決めた俺は、心装を警戒して距離をとろうとする魔神に対して鋭く肉薄した。
「ゴアアアアッ!」
こちらの接近を嫌ったのか、魔神の下半身から伸びた二本の尾が鋭利な先端を向けて突きかかってくる。濡れたように光っているのは間違いなく毒液のたぐいだろう。
毒槍にも似た攻撃を躱し、次いで襲ってきた爪による攻撃も回避した俺は、そのまま相手の懐に飛び込んだ。
そして。
「ハッ!!」
左の拳にありったけの勁をまとわせ、全力の正拳を叩き込む。突き出された拳は、再び展開された魔神の防壁を貫いて正確に本体をとらえた。
ガズンッッ!! と鉄がひしゃげるような異音がとどろき、魔神の身体が鞠のように吹っ飛んだ。
拳撃の威力を物語るように、地面と水平になって宙を飛ぶ魔神。その後を追うように俺は再び地面を蹴る。
だが、俺が回り込むより早く、魔神の身体が急激に角度をかえて空に舞い上がった。
見れば、背から生えた四枚羽が激しい羽ばたき音を立てている。どうやらあれを使って俺の追撃から逃れたらしい。空に飛べば人間は追ってこられない、という判断もあったかもしれぬ。
猛禽の翼を広げた魔神は、今や誰の目にもわかるくらい激怒していた。空からこちらを見下ろす両眼は、滴り落ちんばかりの憎悪で満たされている。
「グゥゥリィィイイイイイッ!!」
爛々と目を光らせた魔神の口から、何度目のことか、たけだけしい咆哮がほとばしった。
背の四枚羽があわあわしい赤光に包まれる。明確な攻撃の予兆。直後、魔神の羽から無数とも思える赤い光がわきおこり、地上に向かって雨のように降り注いだ。
羽に魔力を通して矢の代わりとした範囲攻撃。おそらく、降り注ぐ赤光の一つ一つが、板金鎧さえ貫く凶器なのだろう。
とはいえ、範囲攻撃といっても街すべてを覆うような規模ではない。回避するのはわけもなかった。
ただ、俺が回避すれば、当然周囲に被害が出てしまうし、何よりあの程度の攻撃、わざわざ回避するまでもない。
心装の切っ先を真横に向けて突き出した俺は、迫りくる魔神の羽めがけて、掬い上げるように斬撃を放つ。
「幻葬一刀流 颶!」
それはクライアが得意としている勁技「辻斬」を参考にして編み出した新たな勁技だった。勁を用いて生み出した風の刃を複数同時に解き放つ技。
轟然たる響きをあげて宙を駆け昇った勁技が、降り注ぐ魔神の羽と空中で激突する。
途端、耳をつんざく異音が激しく鼓膜を揺さぶった。俺と魔神、双方の魔力がせめぎあって空間がきしんでいるのだ。
音が消えたのは一秒後か、あるいは二秒後だったろうか。
短くも激しい攻防の末、魔神の攻撃を吹き散らした颶はそのまま空中にいる魔神に襲いかかった。
「ルゥオオオォォォオオオオ!?」
竜巻のごとき突風の直撃を受け、魔神は両手で顔を覆って咆哮を――いや、悲鳴をあげた。鷲を思わせる四枚羽が風によって引き裂かれ、飛び散った羽が花びらのように夜空を舞う。
この機を逃す手はないと、俺は三度地面を蹴った。クライアとの稽古を経て、ある程度の空中戦闘は可能になっている。
その意味で魔神が空中に逃げてくれたのはもっけの幸いだった。これで街路や建物を気にすることなく勁技を使うことができるからだ。
見えざる階段を駆けのぼって迫りくる俺に気づいたのだろう、魔神が張り裂けんばかりに赤眼を見開いている。
そんな魔神を、俺は城壁の外をめがけて力のかぎり蹴り飛ばした。
その夜、ベルカの街はときならぬ騒動に見舞われた。
地震を思わせる揺れと地鳴り。落雷を思わせる轟音と衝撃。人とも獣ともつかないモノの咆哮が響き渡り、吹き荒れる風が激しく家屋を揺らす。
多くの人々が眠りを破られて跳ね起きた。すわ魔物の襲撃かと色めき立った者も多い。魔物との戦闘経験が豊富な兵士や冒険者の中には、咆哮に込められた驚愕を感じ取った者もいたかもしれぬ。
だが、正確に事態を把握できた者はいなかった。
それも道理。竜殺しと魔神が今まさに戦いを繰り広げているなどと、いったい誰が予測できるだろう。
例外は竜殺しの存在を知る者たちだったが、彼女たちにしても事情の半分を知るにとどまる。打ち続く戦闘音が徐々に東へ――砂漠とは反対の方向へ移動している理由まではわからなかった。
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