第四十五話 ウィステリア
『ゴオオオオオォォォアアアアアアアアアアアアッッ!!』
――自分の口から、自分のものではない咆哮がほとばしる。
『ヒイイイイ! ヒヒイイイイイイッ!!』
――自分の口から、自分のものではない哄笑がわきおこる。
原因はわかっている。奈落の底より這い出でて、森を狂わせ、精霊を狂わせ、人を狂わせる悪しき霊デーモン。おのれに憑りついた『それ』が身体をのっとろうとしているのだ。
――アンドラの筆頭剣士ともあろう者が、なんと無様な。
ウィステリアは自らをしかりつけ、ともすれば消えてしまいそうな意識を必死につなぎとめる。そうして、なんとか悪霊の支配に抵抗しようとこころみるものの、向こうの力は強大であり、手の指一本満足に動かすことはできない。
と、こちらの小さな抵抗をあざ笑うように、さらなる悪霊の哄笑が響き渡った。これまで押さえつけられてきた鬱憤を晴らそうとしているのか、悪霊はさかんに声を張り上げる。それと同時に、身体の変異も勢いを増した。
腕が、脚が、背中が、そして顔が、人ならざるものへと変わっていく。変えられていく。
変異は激痛をともなった。生きたまま腕をもぎとられ、脚を引きちぎられ、背中を刺し貫かれ、顔を焼かれたら、きっとこんな苦痛を味わうことになるのだろう。口が動けば間違いなく悲鳴をあげていた。
だが、今のウィステリアには悲鳴をあげる自由さえない。いつ終わるとも知れない苦痛を、ただただ耐え忍ぶしかなかった――耐えたところで意味などないと、分かってはいたけれど。
今の状況をたとえるなら、援軍のない籠城戦。どれだけ耐えたところで陥落をまぬがれることはできず、ただ破滅を先のばしにしているに過ぎない。
いっそ諦めてしまえば楽になれるだろう。だが、ウィステリアが諦めるということは、悪霊が完全な自由を得るということだ。そうなれば、この人間の街はたやすく消し飛んでしまう。
せめて街の外に出なくてはと焦るが、やはり身体は動かない。
――どうしてこんなことになってしまったのか。
ウィステリアは誰にともなく問いかける。その問いにこたえるように、悪霊が一際けたたましい笑い声をあげた。
◆◆◆
森の王国アンドラ。
広大なカタラン砂漠のただなかに存在する、水と緑にあふれたウィステリアの故郷。
その領域の大半は樹海によって占められており、住民の多くはウィステリアと同じエルフ種である。
黄金帝国――人間たちが語るような黄金と白銀で覆われた都市は存在しない。黄金も白銀も森の生活には不要なもの。アンドラの民は幾重にも張り巡らされた結界に守られながら、森の中で穏やかに時を重ねてきた。
ただ、そんなアンドラにも脅威がなかったわけではない。
その脅威の名を「奈落」という。アンドラの中心部、樹海の最奥に位置する底なしの穴。
奈落からは常に多量の魔力が噴出しており、その魔力こそが砂漠のただなかに広大な森林を存立せしめている。その意味で、奈落の存在はアンドラと不可分の関係にある。
一方で、奈落から噴き出る魔力はあまりにも濃密すぎて、たやすく精霊を狂わせてしまうという欠点があった。ウィステリアが所属していた国王直属の剣士隊、その主な任務は奈落周辺の狂える精霊を討伐することである。
エルフにとって精霊は友に等しい。その友を手にかけることは断腸の思いであるが、討伐を怠れば、狂える精霊はアンドラ中にひろがって惨禍をまきちらすことになる。ときおり結界を越えて侵入してくる外の魔獣などより、はるかに大きな災いといえた。
ウィステリアはアンドラのエルフの中で最も若い世代であり、剣士隊の中でも新参の身だったが、剣技と精霊の扱いにおいては古参のエルフをしのぎ、たびたび精霊討伐において功績をあげた。
特にウィステリアの名を高からしめたのは、狂える最上位精霊の討伐である。いっときはアンドラの半分が灰塵に帰すと思われていた災厄は、ウィステリアの活躍によって想定の十分の一以下の被害でおさまった。
ウィステリアの功績を称賛したアンドラ王は、若きエルフに筆頭剣士の称号を与える。国の最精鋭たる剣士隊の筆頭。すなわち、ウィステリアはアンドラ最高の剣士として認められたのだ。
友たる精霊を討つことで得た栄誉を喜ぶ気にはなれなかったが、それでも偉大な王に認められたことはウィステリアの誇りとなった。それは剣を教えてくれた亡き父と、精霊との付き合い方を教えてくれた亡き母が認められたことでもあったから。
その誇りを胸にウィステリアは以後も任務に邁進し、新たな筆頭剣士の名はアンドラ中の人々に知れ渡ることになる。
順風満帆といえる日々は、しかし、唐突に終わりをつげた。
悪霊。そう呼ばれる存在に憑りつかれたのである。
悪霊のくわしい正体はわかっていない。奈落の底より出ずる悪魔とも、殺された精霊たちの怨念ともいわれている。ウィステリアは前者だと考えているが、悪霊に憑りつかれる者の多くが剣士隊に所属していることから、後者の説を有力視する者も多い。
悪霊に憑りつかれた者の症状は様々だが、一つ共通しているのは、己の中に己ならざる者が棲みつくことである。
ウィステリアもその例に漏れず、正体不明の声に昼夜を問わず悩まされることになる。抵抗も祈祷も意味がなかった。
もっとも、症状がそれだけであれば大きな問題にはならなかっただろう。悪霊に憑かれても、それまでと変わらない生活を送っている者もいる。
しかし、中には症状が悪化する者もいた。身体の自由が利かなくなり、次いで身体が人ならざるモノに変異していき、ついには心身ともに悪霊になり果てて、かつての同胞に襲いかかるのだ。
その最悪の例がウィステリアを襲った。
ある戦いの最中、ウィステリアは味方を助けるために限界以上の力をふりしぼり――結果、悪霊に身体を奪われてしまう。
これによって身体の変異も一気に進み、ウィステリアが悪霊に憑かれたことは万人の目に明らかとなった。
筆頭剣士たるウィステリアと、そのウィステリアでさえ抗えない強大な悪霊。この二つがアンドラに牙を剥けば、狂える最上位精霊に優るとも劣らない脅威になる。
アンドラ王が出した結論は処刑だった。この状態まで進んでしまったエルフを回復させる手段はなく、また自然に治癒した例もない。森を守るために狂える精霊を討伐するように、国を守るために憑かれた者を悪霊ごと処刑するしかないのである。
しかし、ただ首を刎ねるだけでは解決にならない。宿主が死んだ瞬間、亡骸を触媒として悪霊が現界してしまうからだ。
受肉した悪霊の力は狂える精霊の比ではない。それを防ぐべく、上位精霊に命じて亡骸を細切れにする、あるいは消し炭にするという手段も過去にはとられたが、いずれも悪霊の現界を防ぐことはできなかった。
結果、悪霊憑きの処刑として一つの手段が考案された。
――悪霊をさえ喰いつくす大いなる獣に身を投じること。
神獣とも称されるその獣は、アンドラの結界の外をゆっくりと周回している。アンドラを守るように。あるいは、アンドラを見張るように。
悪霊に憑かれたエルフは神獣に身をささげる。神獣はエルフを喰い、エルフの死と共に現界する悪霊をも喰い散らかして、何事もなかったように再びアンドラの周囲をまわりはじめるのである。
ウィステリアの処刑に関しても、過去の悪霊憑きと同様、この方法がとられた。最低限の水と食料を渡されただけで結界の外に放逐され、ひとりで神獣を探し、みずからその口に飛び込む。それがウィステリアに課された最後の命令だった。
このとき、悪霊憑きは逃亡することもできるのだが、過去にこの手段を選んだ者はいない。森の妖精たるエルフにとって、砂漠の気候はへたな魔物よりも恐ろしく、あてどなく砂漠に踏み出すことは神獣に喰われることにまさる恐怖なのである。
つけくわえれば、アンドラのエルフたちは砂漠の外に人間の世界があることを知らない。どこまでも熱砂の世界が続くと信じている。その意味でも逃亡の意思を持つ者は皆無だった。
実際、ウィステリアも逃げようとは思わなかった。父母はすでに亡く、兄弟姉妹もいないので心残りもない。筆頭剣士の誇りを胸に、神獣に身をささげて己の生に終止符を打つつもりだった。
だが、どうしたものか、神獣を見つけることができなかった。どれだけ探しても、大いなる獣はその影さえ見えない。
ウィステリアは困惑した。このまま砂漠で野垂れ死ねば、現界した悪霊がアンドラを襲いかねない。過去にそのような例はなかったが、ウィステリアは己のうちに棲むモノに対して言いようのない恐怖を感じており、楽観する気にはなれなかった。
もしかしたら、単純に「死にたくない」という思いがそういう行動をとらせたのかもしれないが、とにかく、ウィステリアは神獣を発見するべく行動範囲を広げ――そして、カタラン砂漠に点在するオアシスの一つを発見するに至る。
結界の外は死と砂の世界だとばかり思っていたウィステリアにとって、人間と会ったときの驚きは筆舌に尽くしがたいものだった。
とはいえ、それで目的が変わるわけでもない。オアシスで水を補給し、砂漠の魔物を狩ることで食料を確保したウィステリアは、神獣を探し出すべく、人間たちがいうところの「未踏破区域」に繰り返し挑み続けた。
冒険者の中にはそんなウィステリアを見て興味を抱く者もおり、ウィステリアもまた神獣の情報を欲して彼らと接触し、言葉に苦労しながらも幾つかの情報を手に入れる。人間たちが神獣のことをベヒモスと呼んでいることを知ったのもこの時である。
だが、人間から手に入れた情報も神獣の発見につながるものではなかった。
一向に見つからない神獣。刻一刻とむしばまれていく心と身体。考えに考えた末、ウィステリアはベルカと呼ばれる人間の街に向かった。砂漠中の情報が集まるベルカならば、ベヒモスの情報を得られるかもしれない――そんな冒険者の言葉に一縷の望みを託したのである。
……その結果が今の状況だ。託した望みは、他者を巻き込むという最悪の形で潰えてしまった。
もはや悪霊の侵食を止めることはかなわない。すでにウィステリアとしての意識はおぼろで、長年の頸木から解き放たれようとする悪霊の歓喜を我が事のように感じている。
溶けているのだ、自分という存在が。
溶けて、崩れて、悪霊と混ざりあっていく。喰われていく。
その瞬間、ぞくりと背筋が震えた。魂を直接舐められたような、おぞましくも快い感覚に、最後に残っていた意識が悲鳴をあげる。
――――――もう、だめ。
これまで必死に遠ざけていた言葉が脳裏をよぎる。いまだエルフの面影を残す右目から一粒の涙がこぼれ落ちる。
そうして、避け得ぬ破局を前にウィステリアが目を閉ざそうとしたときだった。
声が、聞こえた。
「――心装励起」
震えるほどの威が込められた、声が聞こえた。