第四十三話 夜の出会い
「……信じられない。もう『砂の壁』が見える」
クラウ・ソラスの鞍の上で、カティアが感嘆とも驚愕ともつかない声をもらす。その視線が向かう先には、広範囲にわたって吹き荒れる砂嵐が映っていた。
天高くたちのぼる砂塵は文字どおり「壁」にしか見えず、それが地平線を思わせる規模で広がっている。こんな砂嵐の直撃を受けたら、ベルカの街でさえ一瞬で砂に呑まれてしまうだろう。
まだ砂嵐とはかなりの距離があるはずだが、今にも目の前に迫ってきそうな圧迫感をおぼえる。
なんというか、世界の涯を思わせる光景だった。
「あの『砂の壁』は頻繁に未踏破区域に発生します。未踏破区域を未踏たらしめている最大の原因だと、以前にアロウ団長からうかがいました」
カティアの言葉になるほどとうなる。たしかに、地上を歩いている間にあんな嵐に遭遇したら、もうどうしようもないだろう。できることといえば、砂嵐が通り過ぎるまで天幕を張っておとなしくしていることくらい――ダメか、天幕ごと砂に呑まれるのがオチだな。
となると、砂嵐が起きていないときを見計らって素早く踏み込み、最小限の時間で調査をおこなって、素早く引き返すしかないか。あるいは魔法なり何なりで、砂嵐に耐えうる拠点をつくるという手もある。まあ、本当にそんなことが可能なのかはわからないが。
その点、俺たちは恵まれている。クラウ・ソラスは風の結界を張れるので、砂嵐に入っても吹き飛ばされることはない。そのことは幻想種が起こした竜巻を突っ切ったときに証明ずみである。
ただ、以前と違うのは嵐の向こうに明確な目標がないことだった。あのときは竜巻の中心にヒュドラがいるという確信があったし、竜巻の規模もおおよそ推測できた。
だが『砂の壁』に関してはそれがない。砂嵐の奥行が横幅と同じくらいあったとしたら、いかに藍色翼獣といえども突っ切ることは難しい。それに、あの濛々たる砂けむりの中では方向確認もろくにできない。当然、獣の王や『銀星』の捜索をすることは不可能である。
やはりここは、砂嵐が起きていない日を狙って空から未踏破区域に侵入し、上空から様子をうかがうのが得策だろう。それで何らかの手がかりが得られればよし。得られなければ、日を改めて別の場所から再度侵入する。
砂嵐が起きているときは、未踏破区域以外の場所を探索すればよい。俺は別に未踏破区域の謎をあばきに来たのではないのだ。探すべきは獣の王と『銀星』。そう思いつつ、俺はカティアに問いを向けた。
「念のために確認するが、白騎士殿はあの壁を超えようとしていたんだね?」
「はい。今も申し上げたように『砂の壁』は未踏破区域に発生します。自然の砂嵐にしては不自然な頻度で、です。あれは結界のようなものではないか、と団長は推測していました」
結界であるならば、それを張った者がいるのは自明の理。『砂の壁』が自然現象ではなく人為的な障害なのだとしたら、それを解く手段が、あるいはくぐりぬける手段があるはずだ――それが白騎士アロウの考えだったという。
なるほど、アロウの未踏破区域探索は、突き詰めればその手段を探すためのものだったのだろう。
……しかし「結界のようなものではないか」という推測をもとに、危険きわまりない砂漠に挑み続けたというのは、やはり違和感が残る。『銀星』におけるアロウの活躍ぶりを聞くに、人柄も判断力も優れた人物だったと思われる。そんな人物がただの推測に命をかけたとは考えにくい。
こうして『砂の壁』を遠望していると、なおさらその感が強くなる。あれに挑もうとするからには何かしらの根拠があったはずだ。自分ひとりだけではなく、仲間の命をも懸けられる明確な根拠が。
父親が何かを遺していたのか、あるいはアロウ自身が父の影を追ううちに何かを見出したのか。
――ふと思う。案外、未踏破区域を探すよりも、アロウの家なり『銀星』の本部なりを探した方が手がかりがつかめるかもしれない、と。
まあ、俺が考える程度のことは、とっくに誰かが実行に移しているだろうけど。
そんなことを考えながら、俺は砂漠の探索を続けた。が、結論からいえば、この日の探索は何の成果も得られなかった。
カタラン砂漠にはいくつものオアシスが点在している。砂漠で活動する冒険者にとっての生命線で、場所によっては冒険者目当ての店舗、施設が軒を並べて、へたな都市より賑わっているところもある。
俺たちはそういったオアシスの一つで夜を明かし、翌日、あらためて未踏破区域に向かったが、この日も『砂の壁』は発生しており、探索の成果は得られずに終わった。
砂漠特有の朝晩の寒暖の差。降り注ぐ灼熱の陽光。乾ききった空気。たえず目や口に飛び込んでくる砂まじりの風。
カタラン砂漠の気候に辟易した俺は、いったんベルカに戻ることにした。危急の際ならともかく、今の状況で三日も四日も砂漠で夜を明かす必要はないと判断してのことである。スズメはもちろん、森の妖精であるルナマリアも砂漠の気候に苦労している様子がうかがえたしな。
同行者の中でただひとり、カティアだけは物言いたげな顔をしていたが――イリアは定員オーバーなのでベルカで留守番をしている――自分の立場をわきまえているのか、俺の決定に異論を唱えることはなかった。
◆◆◆
その夜――というのはカタラン砂漠から帰ってきた夜のことだが、俺はひそかに法の神殿を出てベルカの街に向かった。
日はすでにとっぷりと暮れており、大半の店は閉まっていることだろう。
しかし、ベルカほどの規模の都市であれば、夜にこそ賑やかになる場所も存在する。いわゆる歓楽街というやつだ。
……ことわっておくが、別に女遊びに行きたいわけではない。単純に、ベルカという街をこの目で見たかったのである。
この街に来てからというもの、俺が見聞きした情報はたいてい法神教を経由している。法の神殿は保有する情報の質と量において群を抜いており、組織としての権威も高い。だからこそ、俺も神殿に身を寄せたわけだが、反面、手に入る情報に偏りが出てしまうのは避けられなかった。
今宵、俺が神殿を抜け出たのはその偏りを正すためである。
竜殺しだとばれたら面倒なので、ちゃんとフード付きのローブも着ていた。夜のベルカは――というか夜の砂漠は昼間の暑さとはうってかわって気温が下がるので、厚手のローブはその対策でもある。
そんなわけで歓楽街に足を踏み入れた俺は、おのぼりさんよろしく、きょろきょろあたりを見回しながらゆっくりと街路を進んだ。適当な酒場か飯屋があれば入ろうと思ったが、この時間にひらいている店はたいてい女性が酌をする店ばかり。こうして通りを歩いているだけで、そこかしこから嬌声が聞こえてくる。
その手の店に入るのもやぶさかではなかったが、女遊びをするつもりはないと言った舌の根も乾かないうちに女遊びをするわけにもいかなかった。竜殺し、嘘つかない。
まあ、このままあてどなく夜の街をうろつくのも、それはそれで面白い。
そんなことを考えながら夜のベルカを散策する。おのぼりさん丸出しの俺をみて、カモと思って近づいてくる奴がいたらもっと面白いとも考えていたが、そういった手合いが俺の行く手をさえぎることはなかった。
「正直、もっと荒れてると思ってたんだが、案外治安は良いのか?」
歓楽街の治安はその都市の現状を示す指標のひとつ。不案内の余所者が、小一時間からまれもせずに通りを歩けるというのは評価できるだろう。
これならベルカも候補に含めても良いかもしれない、と頭の片隅に入れておく。
というのも、いま俺はイシュカ以外に『血煙の剣』の拠点を設ける計画を立てているからだ。御剣家に居場所を把握されてしまっている以上、必要な用心であった。
今回、ベルカに同行しなかったシールとミロスラフはそちらで動いている。なお、新しい拠点といってもイシュカから移住するつもりはなく、俺が遠出をする際、残った面子が安全に暮らせる場所を確保するというのが計画の主眼である。
その点、ベルカはイシュカと離れすぎているし、砂漠の魔物の襲来もあると聞くので、有力候補というわけではない。しかし、遠いからこそ御剣家に見つかる可能性は低いわけで、候補に含める価値はあるだろう。
「ひのき風呂付きの物件があれば即決なんだが、さすがに砂漠の近くでは厳しいかね」
埒もないことを呟いていると、焼けた肉と香辛料の匂いが漂ってきて、そちらに注意が向いた。
匂いの源は『砂とかげ亭』と記された店で、一階は酒場兼飯屋、二階は宿屋になっている。この手の店ではめずらしくもない造りだった。
見たところ、店の中は綺麗だし、女っけもない。このまま神殿にとんぼ帰りするのも芸がないので中に入ってみることにした。
扉に据え付けられていた鈴が、ちりん、と来客を告げるや、厨房から飛び出してきた主人が満面の笑みで近づいてくる。
そのまま席に案内された俺は、おすすめだという串焼きを注文した。
ほどなくして運ばれてきたのは肉と野菜を交互に刺し、タレをかけて焼いた料理で、使われている肉はサンドリザードのものだという。
サンドリザードとは読んで字のごとく砂とかげ。
とかげといっても地面の上をちょろちょろしている小さい種類ではなく、成長すれば家畜はおろか人間も食べるような魔獣のことである。砂ワニと呼んだ方が実情に即しているかもしれない。
このサンドリザード、普段は砂にもぐって姿を隠し、近づいてきた獲物に襲いかかるのだが、腹がすくと砂から這い出て積極的に獲物を探しはじめる。また、爬虫類は気温の変化に弱いものだが、サンドリザードは分厚い外皮のおかげか夜でも活発に動き回る。
十分な準備をしていれば駆けだしの冒険者でも狩れる魔獣だが、夜営の最中を襲われでもしたら厄介なことになるだろう。砂漠に挑む冒険者にとって、真っ先に名と習性をおぼえる必要がある魔獣といえた。
で、その魔獣であるが、前述したとおり外皮は分厚く、とうてい食べられたものではない。一方で、外皮の下の肉は柔らかで瑞々しく、一噛みした途端、口の中で肉汁があふれでる上質の食材だった。そこにこの店の秘伝だというタレがからむと、舌の上で肉の旨味が弾け、同時に適度な辛味が食欲をかきたてて――端的にいうと、超うまい。
全体的に味が濃いが、砂漠帰りで塩っけが不足している身体にはちょうどよかった。神殿の食事は総じて味が薄いからなおさらである。
こうして味の濃い串焼きをほおばっていると、麦酒をがぶりと飲みたくなるが、さすがに酒臭い息で神殿に帰るわけにはいかないから酒精は我慢した。代わりにおかわりを頼んで腹を満たす。
ややあって、おかわりまで含め、すべての串焼きをたいらげた俺は満足の息を吐いた。
これは思わぬ名店を発見してしまったかもしれない。ぜひともスズメたちにお土産を買っていかねばと思ったが、それをすると夜に抜け出したことがばれてしまう。まあ、ばれたところで問題はないのだが、歓楽街に行っていたと知られるのはさすがにばつが悪い。
よし、スズメたちに関しては、今度どこぞの甘味屋にでも連れて行って埋め合わせするとしよう。
そんなことを考えながら代金を払って店を出た。そこで大きく伸びをしてから神殿への帰路につく。情報収集はまた今度でいいだろう。
そうして、歓楽街の入り口まで戻ってきたときだった。
「……ん?」
なにやら人だかりができていた。俺が歓楽街に入ったときにはなかったものだ。
野次馬根性を出してのぞいてみると、複数の武装した男たちと、黒いローブをまとった人物が人垣の中心で対峙している。
男たちの武装には見覚えがあった。記憶を探る必要もない、あれは『砂漠の鷹』のものである。ついでにいえば、男たちの顔にも見覚えがあった。初日に城門でからんできた連中だ。
となると、ローブの人物は『砂漠の鷹』に因縁をつけられた被害者というところだろうか。
俺はそちらに観察の視線を送る。
フードを深くかぶっているので、顔や年齢は判別できない。だが、視線をやや下げると、ローブを内側からおしあげるふくらみを確認することができた。つまりは女性である。さらに視線を下げると、腰の長剣が目に止まった。
背筋を伸ばして立つ姿は凛として隙がなく、こうして見ているだけでかなりの使い手であることがうかがえる。たとえるならば、そう。
――青林旗士だと言われても不思議に思わないくらいの使い手だ。
俺がそう判断した理由は単純である。魂の量がずばぬけて多いのだ。青林旗士、もっといえば心装使いに匹敵する。
もしや、あのローブの人物は御剣家が遣わした監視役であり、これまでの俺の行動は逐一見張られていたのではないか。そんな疑惑が胸をかすめた。
しかし、俺はすぐに「それはない」と自分の考えを否定する。
青林八旗の中に、俺が察知できないほどの隠形の使い手がいる可能性は確かにあるだろう。だが、そんな凄腕が『砂漠の鷹』に足止めされるはずがない。ましてや、人だかりができるまでの間、何の対処もせずに突っ立っているなんてことはありえない。
島外の活動を主任務とする四旗の旗士である可能性もあったが、四旗だったらなおのこと『砂漠の鷹』相手に注目を集めるような真似はしないだろう。つまり、あの人物は御剣家とはかかわりがない。俺はそう結論した。
そう思ってあらためて観てみると、ローブの女性の魂は確かに膨大だったが、ひどく不安定でもあった。これまで出会ったどの心装使いにも感じたことがない危うさだ。
そう思ったとき、『砂漠の鷹』の怒声がその場に鳴り響いた。
「何度も言っている! 己に恥じるところがないのなら、ローブをとって顔を見せよ!」
「……こちらも何度も言っています。警吏でもないあなた方に命令される筋合いはありません、と」
居丈高な要求に応じる声は涼やかで耳に心地よく、危うさや不安定さなど微塵も感じない。
女性の声に応じて「そうだそうだ!」「調子にのってんじゃねえぞ、鷹!」「横暴だ!」「さっさとツケを払っとくれ!」といった声もあがっている。どうも『砂漠の鷹』に反感を抱く者たちが、彼ら相手に毅然とふるまう女性を応援しているという構図のようだった。
城門の一件で予想はしていたが、ベルカにおける『砂漠の鷹』の評判はすこぶる悪いらしい。
「貴様ら、『砂漠の鷹』に逆らうつもりか!?」
周囲から反目の言葉を投げつけられて、鷹の一団は顔を真っ赤にしている。柄に手をかけている者もおり、いつ剣を抜いてもおかしくない形相だった。
だが、そんな連中を見てもローブの女性に動揺した様子は見られない。それも道理で、仮に『砂漠の鷹』が全員で斬りかかっても、あの女性はたやすくねじ伏せてしまうだろう。
ただ、故意に『砂漠の鷹』を挑発する意図もないようで、鷹を煽り立てている周囲の人垣に困惑の視線を送っている。
――と、その視線が、人垣の中にいた俺を捉えた。
前述したとおり、俺も歓楽街に向かうにあたって竜殺しだとばれないようにフードをかぶっている。それは今もかわらない。だから、向こうも俺の顔を見たわけではないはずだ。
その他大勢の野次馬のひとり。目にとめる理由はなく、すぐに視線は離れていくものと思っていた。
だが、そうはならなかった。
俺を見た女性が、それとわかるくらいビクリと身体を震わせる。フードの隙間から、驚愕に見開かれた琥珀色の瞳がのぞく。
次に女性がとった反応は激甚だった。素早く俺に向き直り、腰の剣に手をかけたのである。
直後、強い戦意が突風となって吹きつけてきた。
どうして、ちらと目があっただけでここまでの戦意を叩きつけられたのかは謎だったが、どうあれ、売られた喧嘩を買わない理由はない。
俺が腰の黒刀に手をかけると、向こうがすっと上体を沈めるのがわかった。
おそらく、あと数秒、この対峙が続けば俺と女性は剣を合わせることになっていただろう。だが、俺たちより早く動いた者がいたことで、その激突は未発に終わった。
動いたのは『砂漠の鷹』である。
彼らにしてみれば、今の女性の動きは自分たちに対する侮辱以外の何物でもなかった。なにしろ、大声で凄んでみせたところ、いきなり明後日の方向を向かれたのだから。お前たちなど眼中にないと嘲弄されたに等しい。
先ほど大声を発した男が憤激で顔を赤く染め、腰の剣を音高く抜き放つ。そして、間髪いれずに女性に斬りかかった。
先ほどまでであれば、女性はその一撃を簡単に躱してのけただろう。だが、俺と対峙しているという状況が、女性の反応を一瞬だけ遅らせた。
結果、『砂漠の鷹』の切っ先は身体には届かなかったものの、着ている物には届いた。すなわち、顔を覆っていたフードを切り裂いた。
切り裂かれたフードの切れ端が風に乗って空へと舞い上がっていく。そして、これまでフードによって隠されていた女性の素顔があらわになる。
褐色の肌、白銀の髪、琥珀色の瞳。
そして、笹の葉を思わせる長い耳が、俺の視界に映っていた。