第三十六話 小さな異変
ティティスの森での戦いから数日、俺はいまだイシュカの街に留まっていた。
本来なら、とうにベルカに向かって出発しているはずだったのだが、アンデッドの襲撃だの教皇の登場だの、立て続けに予期せぬ出来事が起きたことで予定を変更せざるをえなかったのである。
そう決めた理由の一つに、獣の王の角の確保を急ぐ必要がなくなったことが挙げられる。
教皇聖下いわく、獣の王の角は結界の強化と維持に力を発揮する道具ではあるが、それがなければ結界を張れない、というわけではないそうだ。
術式と人員さえ揃えば結界魔術は発動する。今回のカナリア王国訪問にともなって、聖王国からは三桁に届く数の聖職者がやってくるそうで、当面は結界の強度、維持に問題は生じない、と聖下は確言した。
ただ、それだけの数の神官を――聖王国で第一線に立つような高徳の聖職者を、いつ消えるともしれない毒のために何か月、何年、ことによったらそれ以上の長期にわたって他国に留めておくのはさすがに不可能である。
結局のところ、獣の王の角ないしそれに代わるものを手に入れる必要はあった。ただ、一刻を争うというわけではない。聞けば、法神教もすでに獣の王の捜索を始めているそうなので、その意味でも俺ひとりが焦って動きまわる必要はなかった。
で、イシュカに留まっている間に何をしていたのかといえば、結界魔術構築の手伝いである。具体的にいうと、聖下をクラウ・ソラスに乗せて、上空からティティスの森を見てまわった。
空から毒の分布状況を見てまわり、結界の基点に適した位置を割り出し、さらにその場で基点を設けていく。これ、本来なら先遣隊が総出でやるような作業だと思うのだが、聖下は黙々と一人でこなしていた。もちろん、力仕事が必要なときは俺も手伝ったけれども。
そうそう、先遣隊といえば、俺が聖下と二人で行動することについて不満が出るかと思ったが、そういった反応はまるでなく、かえって「聖下のことをよろしくおねがいいたす」と年上の隊長から頭を下げられたほどだった。
不満はないのかと遠まわしにたずねると、隊長は年に似合わぬきょとんとした顔を見せた後、こちらの意を悟って呵々と大笑した。
「不死の王を単身で滅ぼす勇士に対して敬意をおぼえこそすれ、反感を抱くなどありえぬこと。まして聖下がそれをお望みとあらば、なんの否やがござろうか」
壮年の教会騎士はそう言った後、声をひそめてこうも付け加えた。
「正直に申せば、竜殺しの武勲については胡乱な話よと半信半疑でござった。しかし、貴公の武烈を目の当たりにした今、疑念を抱く余地はどこにもない。貴公さえよければ、このまま聖下の護衛となってほしいくらいでござる」
さすれば聖騎士の位も夢ではありますまい――隊長は冗談にまぎらせてそう言ったが、その目つきはかなり本気であるように見えた。
不死の王とはそれほど厄介な怪物だった、ということだろう。
ちなみに、シャラモンや夜会についての情報は、先の話し合いの後にあらためて聖下から教えてもらった。その際、再度の襲撃の可能性を問うた俺に対し、聖下はかぶりを振ってこたえた。
「夜会に属する者たちは総じて慎重です。結界なき聖都の外で第三位のシャラモンが滅ぼされた――その事実を前にして、即座に動くとは思えません」
実際、聖下が過去に滅ぼした三体の不死の王も、それぞれが個別に挑んできただけで連携をとるようなことはなかったそうだ。
まあ極端な話、不死を手にした連中にしてみれば、聖下が老いて死ぬのを待てば脅威はなくなるのだから、慌てて動く必要を感じないのだろう。ただ、それでも目障りなことは間違いないので、今回のシャラモンのように、隙があったら仕掛けてくる、という対立状態なのだと思われた。
――と、他人事のように論評してみたが、シャラモンを倒した俺も今後その対立に組み込まれるのだろうか。それについて聞くと、聖下はかすかに首をかたむけて俺を見た。
「あなたには不死の王を滅ぼした功績があります。その功績が世に広まれば、間違いなく夜会はあなたに関心を向けるでしょう。その関心がどのような色を帯びるかは推測するしかありませんが、幽世に届く刃を持つあなたは彼らにとって天敵です。そして、天敵の存在を許容する不死の王がいるとは思えません」
「やはり、そうなりますか」
聖下の言うことはもっともだった。シャラモンとつながりがあった者にとっては仇敵にもなるのだから、なおさら敵対する可能性は高い。
夜会とやらが敵にまわったところで恐れるべき何物もない――俺にとっては。ただ、俺の周囲の人間にとって不死の王は脅威となる。ティティスの森を焼き払ったシャラモンの魔法、あんなものを遠くから撃ち込まれた日にはおちおち眠ってもいられない。
「となると、私がシャラモンとやらを斬った事実は伏せておいてもらいたいところです」
「よろしいのですか? 口はばったい申しようですが、私のような若輩が教皇の地位に昇れたのは不死殺しを成し遂げたからです。あなたはその不死殺しにくわえて竜殺しまで成し遂げた。まさに大陸全土に冠絶する偉業といえます」
その栄光をみずからの手で投げ捨てるのですか――聖下にそう問われた俺はあっさりとうなずいた。
もともと俺がクランをつくって名声を欲したのは、冒険者ギルドに頭をおさえつけられることのない立場が欲しかったからだ。その意味では竜殺しの名声だけでおつりがくる。このうえ教皇聖下じきじきに不死殺しの偉業を称えられたりしたら、得られる利益以上に面倒事が増えるのは間違いない。
あの戦いで得た結果は、ルナマリアとミロスラフの無事。それ以上のものを求めようとは思わなかった。
聖下とそんな会話を交わす一方で、俺はクランの面々とも話をしていた。主に留守の間の出来事を聞いていたのだが、こちらから問いを向けることもあった。
気になったのが、ルナマリアと、それにスズメの顔にときおり焦燥のようなものが見え隠れすることである。どことなく思いつめた様子もある。
それが気のせいではないことの証に、二人は常にない熱心さでベルカへの同行を希望してきた。これまでの二人であれば、同行を希望するにしても俺の決定を尊重する旨を言い添えただろうに、今回はそれがない。
必死とも思える二人の面持ちに、これまでにないものを感じた俺は同行希望を受け容れた。同時に、くわしい話を聞く必要を感じた。
二人とも根が真面目な上に、ルナマリアは俺に対して強い自責の念を、スズメは深い感謝の念を、それぞれ抱いているため、言いたいことがあっても口をつぐんでしまいがちだ。
これが日常の出来事なら二人が口をひらくまで待つという選択肢もあったが、今の二人に様子見をするのはよろしくない。なんとなく、そう感じた。
そして、この手の問題は後回しにするとたいてい良からぬ結果が出る。
そう考えた俺は、二人と話をしたその日のうちにスズメを連れて庭に出た。そして、庭木の近くに置かれたベンチに腰かける。スズメと二人で話すときの定位置だった。