第三十四話 神子と神殺し
「ノア・カーネリアスと申します。カリタス王国にて教皇の職を務めております」
そう言って眼前の少女がぺこりと頭を下げたとき、俺はなんと答えていいやらわからず、意味もなく室内を見まわしてしまった。
今、俺がいるのは第四防壁にある指揮所の一室。黒屍鬼の襲撃が始まる前、シールたちと一緒にいた部屋である。ちなみに他の面々は席をはずしている。他でもない、眼前の少女がそれを望んだからである。
ティティスの森で黒屍鬼の親玉と思われるアンデッドを葬った俺は、ミロスラフたちと先遣隊を守りつつ第四防壁に戻ってきた。いつ次の襲撃があるともわからなかったので、道すがら事情を聴く余裕もなく、詳しいことはさっぱりわかっていない状態だ。
ただ、少女の自己紹介によって、あのよくしゃべる骸骨の目的はわかったように思う。
魂を喰った感触からいうと、あの骸骨は「幻想種ほどではないけれど」という感じだった。実際、レベルも『30』から上がっていない。島で鬼神を喰う前なら一つくらいは上がっていたかもしれないが、ともあれ、俺にとってはその程度の相手だった。
ただ、そこらの街なら単騎で壊滅させられる戦力だったことも確かである。そんな魔物が意味もなくティティスの森をうろついていたとは思えない。あいつの狙いは教皇だったと断定してかまうまい。
問題は、どうして教皇がここにいるのか――もとい、どうして教皇聖下がここにいらっしゃるのか、だ。俺の記憶が確かなら、聖下は今ごろ王都ホルスに向かっているはずなのだけど。
そもそも、この少女は本当に聖下なのだろうか。
俺は聖下当人とは面識がない。御剣家を追放される以前、父の代理で出席した宴席で父親のカーネリアス公と話したことはあるが、その頃、すでに聖下は帝国から聖王国に居を移していた。
ただ、会ったことはなくとも世の噂は聞こえてくる。聖下にまつわる噂には容姿に言及しているものもあり、その中でも最も有名なのが「今代の教皇聖下は隻眼である」というものだ。
しかるに、眼前の少女はしっかりと宝石のような双眸を備えている――と、そこまで考えたとき、こちらの疑念を察したのか、少女は「失礼します」と一言ことわってから俺に背を向けた。
そして、顔や髪に手を当てながら、なにやらごそごそやっている。
ややあって少女が俺に向き直ったとき、その手には丸い小石のようなものが握られていた。髪型も変化しており、左目のあたりを前髪が覆っている。
俺の視線に理解の色を認めたのか、少女はちらと髪を動かして左目を見せる。そこに空洞を見つけた俺は小さく息を吐きだした。
「なるほど、義眼だったのですね」
「はい、剣士殿。魔法が付与されている品なので、一度嵌めれば他者からは気づかれません。ただ、観察力に優れた方の中には、私を見て違和感をおぼえる方もいらっしゃるようです。魔術師殿と賢者殿がそうでした」
少女――聖王国の教皇ノア・カーネリアスはそう言うと、視界を整えるように二、三度まばたきしてから今回の経緯を説明しはじめた。
それによると、聖王国は敵の襲撃をはじめから予測していたそうだ。
普段、教皇が起居している聖都(聖王国の王都)は物理的にも魔法的にも強固な守りが敷かれており、不死の魔物は侵入することさえ容易ではない。教皇が聖都から離れる今回の一件は、敵にとって絶好の機会となる。
そう考えた聖王国は、この状況を逆手にとることを考えた。つまり、いつもは闇に潜んでいる敵を一網打尽にする好機である、と判断したのだ。
この判断にそって、聖王国はカナリア行きの人員に手練を潜ませ、襲撃してくる敵を返り討ちにする計画を整えた。むろん、教皇は影武者である。今、南から王都を目指しているのはこの集団というわけだ。
その間、本物の教皇は先遣隊と共に一足先にカナリア王国に入る。それが計画の全貌だった。
先遣隊の中に隻眼の神官がいれば、勘の良い敵に見抜かれる恐れがある。義眼はそれを避けるための措置だったらしい。
教皇の口から一連の顛末を聞いた俺は、なるほどと納得すると同時にひとつの疑問をおぼえた。
「普通、そういう作戦のときは、総大将は安全な聖都で作戦の成功を待つものだと思うのですが」
「私が聖都から動かなければ、作戦を見破られてしまう恐れがありました。それに、作戦の成功を待ってから出発しますと、そのぶん結界魔術の構築が遅れてしまいます」
そうなると必然的に毒の被害も広がってしまう。逆に、先遣隊と共に先入りすれば、そのぶんだけ結界の構築に時間を割くことができる。
そこまで説明した後、教皇は申し訳なさそうにうつむいた。
「結局、すべてを見抜かれていた上に、この国の人々にまで被害を出してしまいました。一歩間違えれば剣士殿のお仲間まで……お詫びの言葉もございません」
「そのお言葉はどうか二人に伝えてやってください。私が受け取るものではないと存じます」
「ごもっともです。では、剣士殿にはお詫びではなく感謝の言葉を伝えさせていただきます」
そう言うと、教皇はじっと俺の目を見つめてきた。
澄んだ翠色の瞳に、俺の顔がうつっている。
「此度、御身が彼の不浄を討ってくださらなければ、私も、先遣隊の皆も命を落としていたことでしょう。あなたの妙なる武勇に心からの感謝を捧げます。そして、ノア・カーネリアスの名において、この恩には必ず報いることをこの場で誓わせていただきます」
「お褒めいただき光栄です、教皇聖下。我が剣が聖下のお役に立てたのであれば、これにまさる喜びはございません」
精一杯かしこまって頭を垂れる。
本音をいえば、別に恩返しとか必要ありませんよ、と付け加えたいところである。俺としても聖下には本気で感謝しているのだ。少しでも早く結界を構築するため、危険を冒してこの国に来てくれたことに対して。
ただまあ、自らの名にかけて恩に報います、と言ってくれた人に対して、いいえけっこうです、と返すのもそれはそれで無礼だろう。ここは素直に相手の感謝を受けとっておくことにした。
問題はこの後である。
――室内に下りた沈黙の帳をどう払ったらいいのでしょうか?
この部屋に来てから、というかティティスの森で顔を合わせてからずっとそうなのだが、どうも聖下は表情が読みづらい。決して無表情というわけではないのだが、表情の変化が小さく短いため、何を考えているのか分かりづらいのだ。
この沈黙にしても、他に何か話したいことがあるのか、俺が退出するのを待っているのか、あるいはそれ以外の理由があるのか、さっぱり読めん。
もちろん、ここまでの話の内容や俺に対する丁寧な態度からおおよその人柄は読み取れる。聖下のそれは俺にとって好ましいものだ。
ただ、ここまで俺が見てきたものが聖下のすべてではない、とも感じていた。
まあ、当たり前といえば当たり前の話だけどな。教皇にして王。そんな複雑怪奇な立場にいる人物に裏面がないはずはない。端倪すべからざる何かを抱えていて当然だ。
そんなことを考えていると、不意に澄んだ声が耳朶を震わせた。
「――剣士殿」
「は、なんでしょうか」
「一つ、いえ、二つ、お訊ねしたいことがあります。よろしいでしょうか?」
そう言って、こてり、と首をかたむける聖下。あいかわらず表情はとぼしいが、その仕草はとても可愛らしかった。いつの間にか肩に入っていた力がするりと抜け落ちていく。
「どうぞ、なんなりとお訊ねください」
俺が応じると、聖下はこくりとうなずいて言葉を続けた。
「あなたの名前はソラだとうかがいました。これは間違いありませんか?」
「はい、間違いございません」
肯定の返事をすると、聖下は「ありがとうございます」と丁寧に礼を述べてくる。
ますます抜ける肩の力。あれ、もしかして端倪云々は俺の考えすぎか、などと思い始める。
と、聖下は間をおかずに次の問いを口にした――俺が気を緩めた隙をつくように、鋭さを秘めた声で。
「あなたの本当の名前は御剣空。これも間違いありませんね?」